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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の活躍分野
配信日 07年4月13日 (11年1月11日 記述を追加)
タイトル 敬虔なクリスチャン
ダメダメ家庭の人間は、権威主義。
「権威ある○○先生が、こうおっしゃったから、これが正しいんだ!」そんな物言いをしたりするものです。まあ、その○○先生とやらが、そう言ったのなら、それはそれでいいわけですが、じゃあ、当人としては、どう考えるの?どのように状況を認識し、どんなことを達成したいと思っているの?そっちの方が重要でしょ?

逆に言うと、自分で考えることから逃避するためにも、権威主義であることがラクなんですね。自分で考えていないから、結果が思わしくなくても責任を取らなくてもいい。まさに、「だって・・・あの○○先生が言っているんだし・・・」、そして「ワタシは○○先生に従っただけだ!」「ワタシは悪くない!」なんて言えることになる。

従っているだけの方がラクなんだから、その手の人は「学ぶ」という言葉をよく使うことになる。自分で「考える」ことを否定的に見ているわけです。実際に権威主義的な人ほど、「考える」という言葉よりも、「学ぶ」という言葉を使うものなんですよ。

そして、ダメダメ家庭の人間は、「いい人」願望があったりするもの。『いい子でいなさい!』なんて親に言われ続けて、「いい子でいなきゃ!」と、当人としてもいささか強迫的に思ってしまっている。じゃあ、その「いい子」って何?ダメダメ人間が考える「いい子」って、決められたことに対して疑問を抱かずに、そのまま実行している人のことでしょ?それこそ、「ワタシとしては、偉い○○先生の言ったとおりにやっているから、ワタシはいい子でしょ?」,「なにか間違いがあるの?」そんなパターンとなる。

そして、ダメダメ家庭の人間は、妄想への親和性が高い。「恋に恋する」ようなパターンになりがち。自分から離れた現実感のないものに惹かれてしまう。

そんなダメダメの要素が組み合わさって出来上がった人間が「敬虔なクリスチャン」という存在です。ただし、ダメダメ家庭とクリスチャンの関わりを考えるに当たっては、欧米諸国のキリスト教国の人を想定してはいません。日本などの、非キリスト教国の人を想定しています。つまり、キリスト教に現実感がない人々です。
もともと、キリスト教に現実感がないのに・・・いや、現実感がないからこそ、熱心になる。ダメダメ人間には、そんなところがあったりするんですね。

現実感がないがゆえに、熱心になるということでは、二言目には「こうなったのは、ユダヤ人の陰謀だ!」と陰謀史観を訳知り顔で語りたがる人もそんなものでしょ?
そんな陰謀史観を語る人は、じゃあ、今までどのようなユダヤ人とやり取りをしてきたの?
あるいは、ユダヤ人によって、どんな困難に遭遇したの?まあ、現実としては、そんな経験はしていないでしょ?
しかし、実体験がないからこそ、自分の妄想が否定されることなく、妄想いっぱいでユダヤ人の陰謀を語ることになる。

被害者意識と妄想が組み合さって陰謀史観を語る人とメンタル的には共通していて、たとえば「いい子ちゃん」志向など、ちょっとした傾向の違いが加わることによって、別のユダヤ人に関心の方向が向かうわけです。

もちろん、日本のクリスチャン全員がダメダメ家庭の人と申し上げているわけではありませんよ。しかし、いかにも「敬虔なクリスチャン」と言った類の人は・・・まあ、疑って掛かった方が、それこそ現実的ですよ。
そもそも神様への祈りなんて、自分一人でできるでしょ?
それこそイエスさんだって、「祈る時には隠れて祈りなさい!」って言っているくらいですからね。人に見せるために祈っているわけではないでしょ?
「あの人は敬虔なクリスチャンだなぁ・・・」なんて、一般の人にも「よく分かる」って、逆にヘンじゃないの?

しかし、ダメダメ家庭の人間の自己弁護志向を考慮すれば、そのようなことも理解できることになる。「自分はこんなにも敬虔なクリスチャンなんだから」→「ワタシは悪くない!」と言いたいわけです。だから、いかにも「敬虔なクリスチャン」として「類型的に」行動することになる。

だから、本当に困っている人がいても知らん振り。
自分の手を汚しても、困っている人を助けようとなんて思っていない。
ちなみに、とある「敬虔なクリスチャン」さんが、こんなお説教を知人にしたそうです。

「アナタは人に優しくないわね!世の中には劣っている人も多くいて、そういうことを受け入れられる人になって欲しいわ!」
その言葉を受けた人は、モヤモヤした感情が心に残ったそうですが・・・
まあ、そんな言葉はいかにも「敬虔なクリスチャン」が言いそうなこと。

上記の言葉ですが、
「劣った人」って何?
「受け入れる」って何?
「人に優しい」って何?
それらを組み合わせて、「劣った人を、受け入れることは、人に優しいこと」なの?
じゃあ、その「劣った」人の子供はどうなるの?そんな説教をした人は、子供が劣った親に育てられるのを、ヘラヘラと見ているの?挙句の果てにその子供が問題を起こしたりしたら「ハハハ!やっぱりヤツらは劣った連中だ!」と、納得するの?それを「受け入れる」自分自身についてどう思うの?
「まあ、ワタシって、何て、いい人なの!!」要はそう言うことでしょ?

そんな状況を「受け入れる」って、別の言い方をすると、「見て見ぬ振り」でしょ?
確かに、そんな状況を実際に改善しようとすると、クリスチャンとしては、差しさわりが出てくるでしょう。それこそ避妊の問題だって現実的に出てきますよね?あるいは、中絶の問題だって避けては通れない。それとも、望まれないで産まれる子供を、知人にその説教した人自身が引き取るとでも言うの?その覚悟があって、人に説教しているのなら、それなりに見上げたものですよ。しかし、敬虔なクリスチャンさんは、シビアーな現実を突きつけられると、見事なまでにトンズラしてしまうでしょ?
現実で困っている人を助けようとしたら、安全圏からご高説をぶっこくだけでは何も変わりませんよ。

この文章をお読みの皆様が現実の世界での困り事を、実際に、その手の「敬虔なクリスチャン」さんに相談してみなさいな。
現実離れした正論を、問答無用で言われるだけ。まさにお説教になっちゃうでしょ?
そうして、現実無視の正論を語った側は、「ああ!神様の言葉を伝えたワタシって、なんていい人なの?」「あの人たちは、どうして神様の言葉を受け入れようとしないのかしら?せっかくワタシが説明したのに・・・」「こんなに努力しても報われないなんて・・・ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、勝手に恍惚の境地。

そんな姿は、インターネットの掲示板で、現実離れした陰謀史観を上からの物言いで語っている人と、実に共通しているでしょ?

神様の言葉を語る姿を周囲の人に見せる人は、神の言葉を聞けないもの。
聞けないがゆえに、語ることしか出来ない。
いつもながらの逆説的表現ですが、そんなものでしょ?
その手の人って、「敬虔なクリスチャン」という立場が、あるいはブランドがほしいだけ。人に対する愛も、神に対する愛もない。他の人間から「敬虔なクリスチャン」と認められることが重要なので、やたら説教臭い。

しかし、イエスさんだって言っているじゃないですか?
「この幼児のように、心を虚しくしなければ、天国の門は開かれない!」
「敬虔なクリスチャン」の幼児って、いますか?
心を虚しくしている幼児は、絶対に「敬虔なクリスチャン」ではないでしょ?
ただ、神の意思を無条件に受け入れる・・・幼児って、そういう存在でしょ?

逆説的な言い方ですが、「敬虔なクリスチャン」って、それだけ、神よりも人の方を、神から目ではなく周囲の人からの目を、と言うより自分の利益を向いているわけです。「人からどう見られるか?」と言うことから逃げられない。

何もクリスチャンという存在がダメダメだと申し上げているわけではありませんよ。
イエスさんに従う気持ちがあるなら、彼が神殿前で屋台をひっくり返したりした行動の意味も考えてもいいのでは?
イエスさんは決して「見てみぬ振り」はしなかったでしょ?
イエスさんは人のために行動したのではない。神のために行動したわけでしょ?
しかし、敬虔なクリスチャンという存在は、人のために、と言うか、人からどのように見られるのか?そのように自分の弁解のために行動する。

イエスさんって、その手の人と戦い続けたわけですが、死んでからも戦うハメになるとは!
まあ、お気の毒!
まったく受難だねぇ・・・

(終了)
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発信後記

今日は13日の金曜日なので・・・それにちなんだ話題でした。
復活祭というか聖金曜日は今日なのかな?と思っていたのですが、どうやら先週だったようですね。ちなみに聖金曜日は、キリストが十字架に掛けられてお亡くなりになった日。
そもそも春分の日から数えて、何日目とかの金曜日ですから、春のことなんですね。
本日は、時期的に言うと、イエスさんも棺おけから起き上がって歩き回っている頃なのかな?

ちなみに、私個人はどこかの宗教に属しているわけではありません。
ただ、イエスさんという人?は、スゴイ人だと尊敬しています。それに書物としての新約聖書は面白い。わかりやすい言葉で、事例を多く挙げて説明している。
表現もちょっと逆説的な表現が多く、その点も、私好み。

イエスさんは、言葉だけ神を語る人によって処刑されちゃったわけですが、イエスさんを処刑した人(パリサイ人)が、現在は、キリスト教徒という姿なんだから、タチが悪い。
しかし、逆に言うと、このイエスさんの受難の姿って、現在でも全く同じなんですね。
ただ、加害者がキリスト教徒になっただけ。もちろん、キリスト教徒全員が、そんな人間であると申し上げているわけではありませんが、その手の「敬虔なクリスチャン」の方とやり取りをすると、実に不快感が残るもの。
そんな経験をなさった方も多いと思います。
キリスト本人に対しては、腹が立つ人もいたでしょうが、「その手」の不快感は残らない。
イエスさんは安全圏から正論をぶっこく「いい人」ではない・・・でしょ?
まあ、だから処刑されちゃったわけですが・・・

ちなみに・・・
以前誰かに言われた言葉で、どうも引っかかっているけど、その「引っかかり」が自分で説明できない・・・なんて言葉がありましたら、私までご連絡くださいな。
この私がものの見事に、その「引っかかり」を解説いたしますよ。

引っかかり自体は、その人の柔軟な感性を示しているものです。理屈は通っているかもしれないけど、どうも釈然としない・・・そんなことってあったりするでしょ?
人間の思考って、その疑問なり「引っ掛かり」から始まるわけ。
まずは、釈然としないこと自体を受け入れる・・・そのことが思考への第1歩なんですね。
R.11/1/11