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カテゴリー もてなしの心
配信日 07年4月27日 (10年5月30日 記述追加)
タイトル 不寛容
映画の創世期を飾る有名な作品として「イントレランス」という作品があります。監督はメラニー・グリフィス。出演女優は、有名なリリアン・ギッシュ。制作は1916年。タイトルのイントレランスは不寛容という意味です。
聖バーソロミューの虐殺、キリストの処刑、バビロンの崩壊、そして現代(1916年当時)と4つのシチュエーションにおいて、人間の様々な不寛容な姿を描いた作品。
ほぼ100年前の昔の作品ですが、映画史を飾る傑作ですから、図書館やレンタルショップにもあったりします。ちなみに、当然のこととしてサイレント映画。
ヴィデオで見ると、「1916年かぁ・・・あの当時はワタシも若かったワイ・・・懐かしいのぉ・・・」なんて思う人も・・・いないでしょうねぇ。

ダメダメというものは、非常に不寛容な集団です。
だって、ダメダメ家庭というものは、会話の意欲も能力がない。

相手に対して、自分の意向をわかりやすく伝える能力も無い。
単に伝える能力がないだけでなく、当事者意識もないわけだから、相手に対してわかってほしいこと自体が、当人自身でもわかっていないわけ。

言葉によって、つまり会話によって、お互いの意向を調整すれば難なく処置できる問題でも、その会話ができないんだから、問題が起こってしまった場合には対処できない。
だから、そんな集団は、問題が発生しないように過剰なまでに警戒するわけ。

と言っても、ダメダメ人間は、「問題が起こらないようにするにはどうすればいいのか?」なんて考えたりはしない。「て・き・と・う」に行動して、結局は、上手く行かず、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くだけ。

「自分自身の目の前が今現在どんな状況であるのか?」
「自分自身がどんな人間であるのか?」
「現在や将来において、どんなリスクがあるのか?」
そんなことを考えることから逃避しているんだから、結局は、ちょっとでも異質なものがあったら、その異質なものを排除しようとするわけ。

まさに不寛容になるわけです。

会話ができる人間同士だったら、多少異質な人に対しては、「基本的にはアナタの自由だけど、このルールだけは守ってね!」と要求し、それに従っているようだったら、放っておいてもいいわけでしょ?

しかし、会話ができないんだったら、そんなことは言えないでしょ?
それに、集団を維持するのに必要とされるルールについても、当人たちはわかっていない。
だから客観的なルールや会話なしで成立している同質性に依存せざるを得ないわけ。
たとえば、以前に書いたように「地縁や血縁にこだわる」ようなことになってしまう。

「地縁、血縁にこだわる」ということで・・・このメールマガジンでは、たびたび韓国の問題に言及しています。
私が個人的な感情の問題ではなく、ダメダメの実例としてはこれ以上ないほどに最適で便利だからにすぎません。日本人にしてみれば、韓国がどうなろうとどうでもいいことでしょ?

その韓国の社会が、実に不寛容な社会でしょ?
異質なものを絶対に受け入れようとはしないでしょ?
なんでも韓国はチャイナタウンがない唯一の国なんだとか・・・
あるいは、彼らは、多様な考え方を受け入れ、その中から自分で取捨選択していく・・・なんてことをしませんよね?

異質なものへの排他性。これってまさに不寛容の精神。
まあ、韓国人がその流儀で徹するのは勝手でしょう。

しかし、他の人々が、それに巻き込まれてしまうと、後々面倒なことになってしまうもの。
ナチスによってドイツを追われたユダヤ系の音楽家が、後で言っていたそうです。
「人間は、基本的には、他者に対して寛容でないといけない。ただ、不寛容の精神に対して寛容であってはいけない。」
ナチスって、まさに不寛容の精神そのものでしょ?

あらゆるものに、寛容であったら、その寛容の精神そのものが危機に瀕するわけ。
寛容というのは、理念ではなく、いわば「状態」であって、むしろ、危うい均衡に近いもの。その状態を守る意思を積極的に持っていないと崩れてしまう。
ナチスによって辛酸をなめた人の言葉が語るものは大きいわけ。

同じようなことは人種問題でも言えるでしょ?
あらゆる人種を平等に扱うという原則そのものは、まったくもって当然ですが、じゃあ、「人種差別」を掲げている人たちをどう扱うの?自分たちを「選ばれた優良種である。」と自称している人たちをどのように扱うの?
そんな人たちを平等に受け入れていたら、平等の原則まで壊れてしまうでしょ?
韓国の教科書を読んだ方ならお分かりでしょうが、韓国の教科書って、人種差別的表現に満ちている本。あんな本で学んで受け入れている人に寛容であったら、平等の精神が危機に瀕することになってしまう。

あるいは、歴史的に見て、極端な清廉潔白が主張される時期もありますよね?
エロティックな表現を排除することに血眼になっている時期。
ナチスがある意味において、そんなパターンといえるでしょう。ナチスの指導者たるヒトラーが、菜食主義者で、酒も飲まず、そして独身であり、「浮いた噂」とは無縁の、PTAが絶賛するような道徳的な人。あるいは、清廉潔白となると、ルネッサンス期のフィレンツェにおける修道士サヴォナローラなどが有名でしょ?
異物を排除しようと必死になるのはいいとして、そんな活動が進んでしまうと、活動の主体だった当人自身が、周囲からの異物になってしまって、結局は火あぶりとなってしまう。

本来は、異物を完全に排除する必要もなく、その距離感なり、あるいは選択の可能性を持っていればいいだけ。
しかし、抑圧が進んでしまうと、対象との距離感を確定するための認識や判断、そして、自身が選択をすることが心理的に怖くなってしまって、「何も考えなくてもいい」状態を欲してしまうわけ。
「あの○○のせいでうまく行かない!」という犯人認定の発想になり、その犯人認定対象の○○が「エロティックな表現物」だったり、あるいは、逆の方向となってサヴォナローラになるだけ。
何回も書きますが、異物が存在することが問題なのではなく、異物との距離感の問題なんですよ。
逆に言うと、過剰なまでの清廉潔白さとは、距離感を確定させるための、心理的な能力なり、会話の能力の欠如を示しているわけです。

現実的に考えると、ワクチンのように、異物に対する免疫を作っておいた方がいいわけでしょ?
少量の異物に慣れることによって、免疫を作っておいて、小さな衝撃を積み重ねれば、大きな異物が来ても、対処できるようになるものでしょ?
無毒状態だと、ちょっとの異物で大きな衝撃となってしまう。

自分自身なり、自分たちが、どの程度まで異物に慣れているのか?対処できるのか?それは自覚しておいたほうがいいわけ。
そのためには、自分自身の現状を理解するとともに、目の前の現実を認識しておくことが必要になってくるわけ。
しかし、それができないがゆえに、それこそナチスのように「根絶」なんてことを掲げてしまう。

ナチス云々は国家的なレヴェルになってしまって大げさですが、異質のものに対する閉鎖性というものは、「嫁姑問題」でも発生したりするでしょ?どんな場所においても、割と頻繁に発生したりするわけ。一般的な状況においても、寛容の精神がなく、元からの同質性にこだわる人っていたりしますよね?そんな人は、その物言いも問答無用でしょ?自分以外の流儀を認めることができないわけ。
逆に言うと、自分の問答無用の物言いが成立する人間しか受け入れないわけ。
寛容の精神って、自分が自分自身に課し、そして、自分が他者に対して要求するものが明確だからこそ持てるもの。ダメダメ人間には縁がない発想なんですね。

何も韓国人がどうのということではなく、他者に配慮する精神、そして違いを認める精神を「持っていない人」を受け入れることは、その集団の尊厳なり、集団として持っている配慮まで壊してしまうことになってしまう。
寛容の精神に敬意を払う人だけを受け入れることは、決して不寛容ではないわけ。

「他者をどう受け入れるのか?」「他者に何を要求するのか?」その問題は、「自分自身が何を求め、必要としているのか?」その問題と不即不離でしょ?
自分から逃避するダメダメ人間は、その問題からも逃避するために、そもそもが同質の人間しか受け入れようとしない。そんなダメダメな人間に限って、他者に対しては「自分への寛容」を求めるもの。しかし、そんな人は他者に対して寛容ではない。ただ理念としての寛容を叫んで、周囲に要求するだけ。寛容を声高に主張する人に限って、自分には甘い・・・そんなものでしょ?

国家レヴェルだと、ナチスがまさにそんな調子だったでしょ?今だったら韓国なり北朝鮮が、まさに、その典型。その手の集団に対して、あまりに寛容だと、まさにとんでもない事態になってしまうわけ。
1916年のグリフィスの映画の時点で人々がしっかり考えていたら、ナチスが引き起こした悲劇だって防げたのでは?せめて今からでも、寛容ということについてじっくり考えてみる・・・のも意味があることなのでは?
この不寛容の問題は、何も国家レヴェルの問題というわけではなく、家庭なり地域の問題だってまったく同じなんですからね。


(終了)
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発信後記

無原則な寛容が、決して寛容につながらないことの典型的な実例が、関西で、ありましたよね?
JRの電車の中でのレイプ事件。周囲の人たちは「寛容」にも、見て見ぬ振りだったとか。
舞台がJR西日本ですので、そもそも電車の中での痴話ゲンカが日常茶飯事なのかもしれません。
他の乗客も「ああ!痴話ケンカをまたやっている!」なんて思ったのかも?

しかし、そんな状態も、重症のダメダメですが・・・
そんな阿鼻叫喚が常態化している電車に乗っちゃダメでしょ?というか、その犯人も常習犯だったそうですから、そんなレイプ事件も、日常茶飯事なのかな?それだったら、電車が発車する前にアナウンスしないとね。
『近頃、車内では置き引き、盗難、レイプ事件などが発生しております。ご乗客の皆様も、身の回りにご注意ください。』とか・・・

今回の事件が、どの程度の騒ぎだったのか?私にはわかりかねますが、その気になったら、携帯メールを使って連絡する方法もあったわけですからね。
他の乗客は、騒ぎの際には「ああ!若いモンは元気があるなぁ!」なんて思ったの?「そんな若いモンを暖かく見守るのがワシらの務めじゃ!」とでも思ったのかな?

そういう意味では、他の乗客は、実に「寛容の精神」を体現していると言えるでしょ?
しかし、結果的に成立したのは、寛容とは無縁の世界ですよね?
ナチスだって、そのようなワイマール共和国の「寛容さ」が背景にあったわけです。

高邁な理念を叫んでいるだけでは、いい社会は実現しない。
もちろん、家庭だって同じでしょ?
R.10/7/7