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カテゴリー 会話のスタイル(発言側)
配信日 07年5月4日 (10年11月17日 記述を追加)
タイトル 減点法の説得力
ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。自分自身がやりたいことなんてそもそもないわけ。だから会話のような場面でも特に相手に伝えたいことなんてものもない。
「て・き・と・う」にやり取りが過ぎればいいだけですし、自分の話に対して相手から突っ込みが入ると、「どうして、そんなことを言うのよ!」「ワタシは悪くない!」って、逆上するだけ。

伝えたいこと、分かってほしいこと自体がないわけですから、会話の評価も加点法ではなく、減点法になってしまう。
「色々と行き違いはあったけど、このことを相手は分かってくれた!」なんてことにはならないわけ。
「はあぁ、ヤレヤレ・・・何事も無く無事に過ぎてヨカッタ!」
まあ、そんなもの。
しかし、やり取りが無事に過ぎたのはいいとして、結果的に、相手は分かってくれたの?合意してくれたの?

無事で過ぎるのが、目的・・・なんだから、そのやり取りの評価も減点法そのもので、「相手から何も突っ込まれなかったから、いい会話だ。」そんなことになってしまうんですね。

このメールマガジンでは、よくダメダメ家庭の人間は「議論のための議論」に終始するなんてことを書いたりしています。そもそも問題意識がなく、解決する問題が明確になっていないんだから、結局は「あーでもない!こーでもない!」で終わってしまいますよ。

そんな「あーでもない!こーでもない!」という議論のための議論なんて、相手に何も伝わなかったから、何も意味がないじゃないの?・・・という考え方もできます。それっていわば加点法の考え方。しかし、減点法の考え方だったら、何も「突っ込まれなかった」から、いいやり取りだった・・・となるでしょ?ダメダメ人間にしてみれば、「それでいいんじゃ!」と、なってしまうんですね。

相手からヘタに突っ込まれると、自分では何もわかっていないことがバレてしまう。
それにダメダメ家庭の人間は、会話の能力がなく自分の考えを説明する能力がない。
誰も突っ込むことがないような「当たり前」の論理を、さも「オマエに教えてやる!」なんて調子で言ったりする。
まあ、その手の人にしてみれば、「反論できないから、その意見に正当性がある。」・・・そのような考え方と言えるでしょう。しかし、その発言に意味があるかというと、全く別でしょ?論理的に完璧だからと言って、その言葉に意味があるというものではないでしょう。

たとえば、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」の内容に対して反論したいと思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、書き手の私は反論されるから、あるいは反対意見があるから、私が書いた内容がダメだとは考えないんですよ。
だって、今までとは違った視点を提示しているのなら、反論はあって当然ですからね。
重要なことは、自分の考えを自分なりの言葉で表現するということ。
それは反論だって同じ。相手の考えを相応に理解した上で、自分の考えを相手にわかりやすく伝えるようにすればいいだけ。意見の違いなんて誰だってありますよ。要はそれをどう伝えるか?という問題でしょ?

逆上メールはダメダメですが、自分なりの考えを、ちゃんとまとめた文章だったら、ダメダメだとは思いませんよ。だって、人の考えは人それぞれですからね。
この私の文章を読んで「反論したい!」と思ったということは、その文章が読み手の思考を呼び覚ましたことになるわけでしょ?それは書き手にとっては、いい文章と言えるわけ。文章を読んで違和感を持った側にとって重要なことは、「じゃあ、どのように反論するのか?」という問題になるわけです。自分の考えを相手にわかりやすく伝えること、あるいは、「これだけはわかってほしい!」ということを自分自身で整理することが必要になるわけ。上手に反論できるようになれば、ダメダメから脱却できているということなんですよ。
それだけ、当人自身も相手も見えているわけですからね。

しかし、ダメダメ人間は、的確な説明による反論ができない。ただ、否定的な感情を相手に投げつけるだけ。否定的な感情を統合し、それを客観的な説明にする心理的な能力を失調しているんですね。
だから、反論と罵倒の区別がつかないことになってしまう。
まあ、実質的には罵倒でしかない自称「反論」を受けても、どうしようもないでしょ?
というか、そんな人が子供を持ったらどうなってしまうのかなんて、それこそ反論の余地もないほどに明確でしょ?

反論自体は結構なことですし、反論があったからといって、提示した内容に問題があるとは言えないわけ。
逆のケースで、反論がない、ありえない・・・という文章を考えてみましょう。
それこそメールマガジンで、こんなメールマガジンがあったとしたら?
第1回配信・・・1+1=2
第2回配信・・・1+2=3
第3回配信・・・1+3=4

メールマガジンがそんな内容だったとしたら?
誰だって、その内容に反論はできないでしょ?
だからと言って、その内容がすばらしく意味があるの?
反論されないから、意味があるとは言えないものなんですね。

むしろ、そんな当たり前のことを、上から「教えられて」も、「なんだい?コイツ?」なんて思うだけ。
そんなものでしょ?

実は、この手の「やり取り」を描写した、古典的名作があります。
ルイス・キャロルの、あの有名な「不思議の国のアリス」です。
その中での、もっとも有名なシーンと言えるチェシャ猫とアリスのやり取りは、まさにこのパターン。
ここで、そのやり取りをちょっと抜き出してみましょう。

アリス「ちょっと伺いますが、ここからどっちへ行ったらいいでしょうか?」
猫『どこに行きたいのか、行きたいところ次第です』
アリス「どこって別に―」
猫『そんなら、どっちへ行っても同じです。』
アリス「―どこかに出さえすれば―」
猫『どこまでも、どこまでも歩いて行けば、必ずどこかに出ます。』

チェシャ猫の言っていることは、論理的には間違いはない、というか完璧でしょ?だからアリスも突っ込みようがない。だからと言って、チェシャ猫の言葉によって、アリスの問題が解決したかと言うと違うでしょ?

ちなみに、この手の「論理的には完璧で、だから反論はできないけど、だからと言って、全く意味がない。」となると、このメールマガジンで頻繁に取り上げております言葉である、
「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」という言葉がまさに典型でしょ?
上記の言葉って、論理的には完璧ですよね?

まあ、ルイス・キャロルも、周囲の人から「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言われて、それこそアリスのように途方に暮れたんでしょうね・・・
ああ!彼の困惑振りが目に浮かぶようですよ。
まあ、ネタになってよかったね!お互いにさっ!

当事者意識がないと、そんな減点法の会話ばかりやってしまう。そして、「誰も反論してこなかったから、受け入れられたんだ!」と勝手に認識している始末。
まあ、一般の人は、そんな無意味な言葉は印象に残らないでしょう。
というか、いったい何が受け入れられたの?
そんな話を聞かされる側は、それこそアリスのように、「だからと言って・・・何の意味があるの?」なんて思って、1分後に忘れているだけ。

この私とか、ルイス・キャロルのようなヒネリのある人間は、そんな「完璧な論理」の発言を、と言うより、そんなことを敢えて言う人間を、ニヤニヤと・・・それこそチェシャ猫のように眺めて・・・ネタ帳にメモメモ。

まあ、皆さんは、そんな性格の悪い人間になる必要はありませんよ。
「反論されたから、ダメ!」「絶対に反論されないようにしよう!」なんて考えているうちは、常に減点法の発想から抜け切れていないということ・・・そのことを自覚しましょうよ!って、申し上げているだけです。

説得力と言っても、減点法的な観点だけで見ると、「間違いがないように」「誤解がないように」という視点だけになってしまう。その究極が無内容となってしまうわけ。
逆に、加点法的な説得力を持たせる方法の代表となると、「たとえ話」というか「比喩的な表現」を使う方法です。
あまり実感がない内容であっても、それまで実感があったシーンと関連つけて説明されれば、実感的にわかりやすくなるでしょ?
しかし、別のシーンで言い換えているわけだから、誤解にもつながりやすい。
それに、別のシーンで言い換えている分だけ、それは現実的にみて意味の差異は発生している。
分かりやすくはなっても、やっぱり完璧に伝わるものではない。

それだけではありません。
たとえ話と言うものは、使う方も、受け取る方も、その実感について、ある程度の共通的な土壌を持っている必要があるでしょ?
「ああ!それそれ!ワタシもそんな時には、そのように思ったわ!」
「そうなのね!あの人たちがやっている、あのことと似ているのね!」
そんな共通の実感がなければ、たとえ話も上滑りになってしまう。

たとえ話というものは、実感に依存していて、だからこそ、使う側も、受け取る側も、その人の感じる能力に依存してしまう。単なる表現上のテクニックではないわけ。共通の実感があってこそ成立するものなんですね。
しかし、ダメダメ家庭の人間は抑圧的であることが多く、物事を自分で考えたり、折々で感じたりすることが少ない。規格品的な感情を消費することはあっても、折々のシーンを体験することはない。だから、記憶にも残らない。

そんな人にしてみれば、比喩というか、たとえ話で説明されても、余計に分かりにくくなるだけですよ。
抑圧的な人間が、誰かの話を聞くスタイルは、「正しい知識を学ぶ」というもの。
当人としては疑問も持たず、問答無用なスタイルで、権威筋認定のご高説を、ただ消費するだけ。
そんな抑圧的な人間にしてみれば、中途半端なたとえ話には拒否的な反応を示すもの。
逆に言うと、比喩的な表現への感応性によって、その人の精神的な抑圧も見えてくることになる。

たとえば、カルト関係者の話って、宗教や政治など分野に関わらず、比喩的な表現が少ないでしょ?
まさに「オレが言っている正しい話を、とにかく聞いて、従え!」というスタイルでしょ?
それに比べて、宗教分野だと、たとえば、キリストさんの話はたとえ話がいっぱい。
新約聖書は読んでいて、面白い。
「コイツ・・・うまいことを言いやがるなぁ・・・」と、この私が感心してしまうほど。

前にも書きましたが、たとえ話ができるということは、実感的に物事を見て、そして、伝えたい内容が自分でよく分かっているので、別のシーンでも展開できるということ。
それに、「何とかして分かってもらいたい。」という意欲があるということでしょ?

結果として、その比喩的な表現が理解されなくても、「分かってもらいたい」という意欲は必要ですし、そんな意欲もないような人間は、それこそ、支配・被支配の構図を作り、お互いの合意ではなく、命令と服従の関係を作ろうとするもの。
まさに、カルト宗教そのものとなるわけ・・・という言い方をするとわかりやすいでしょ?

まあ、説得力を減点法的に捉えている人は、当たり前のことを、もっともらしく言うだけになってしまうから、当然のこととして人から相手にされない。それこそ、そんな人とやり取りしても、不思議の国を旅するアリスのように「なんなの?いったい?」と思わされるだけでしょ?しかし、そんな人が熱望するのが、「ワタシに構って!」と言うことなんだから始末が悪い。
せめて、チェシャ猫のように木に登って座っているだけなら、害はないわけですが、現実にはそんな人間は、アチコチにチョッカイを出して、「ワタシに構って!」なんてやったりするものでしょ?
しかし・・・周囲の顔の浮かぶのは、やっぱりコレ。
「で、アンタ・・・結局は、何が言いたいの?」

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭は会話不全の家庭であると頻繁に書いています。
言葉が飛び交っていても、内容がやり取りされているわけではない。
論理があっても、意味がないわけ。

ちなみに、本文中で取り上げた、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」ですが、そのような会話不全という観点から読むと、多くの面が見えてくる作品です。
会話の不整合、あるいは、不条理な会話・・・そんなやり取りが頻発しているんですね。
皆様もご興味がありましたら、そんな観点で、読み直してみてくださいな。

ちなみに、ご存知でしょうが、ルイス・キャロルの本職は論理学者です。
論理と意味の不整合について、日頃から考えていたんでしょうね。
ダメダメ家庭の問題の基本的な考え方が頭に入っていると、様々な芸術作品に対する理解も深まる・・・と思います。作品を作るような連中?の考えることって、ダメダメ家庭の常識と一般社会の常識の間にあるギャップを認識することから生まれている場合が多いんですよ。
R.10/11/17