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カテゴリー 自己への抑圧
配信日 07年6月1日  (10年11月26日 記述を追加)
タイトル もらいたがり
「コレ・・・ワタシは、もういらないから、アナタほしい?よかったらあげるわ!」
そんな感じで、人から不用品をいただくことってありますよね?

『まあ、タダでくれると言っているのだったら、とりあえずもらっておくか?』

一般的には、そんな感じで考えたりするもの。ただし、現実には住宅事情もあるわけですから、何でもかんでももらえばいい・・・というわけではありません。
ある種の、判断が、本来は、必要でしょ?
しかし、その判断もラクといえばラクですよね?
だって、もともと無料なんだから、自分が不要になったら捨てればいいだけ。まあ、最近は捨てるにも有料だったりしますが、微々たるお金でしょう。だから基本的には、もらっておいても損はない。

ダメダメ家庭の人間で、やたら人から物をもらおうとする人がいたりします。
「えっ?もう使わないの?じゃあ、これちょうだい!」
それくらいなら、ダメダメとは言えないでしょう。
しかし、ある種のダメダメ人間は、もっと積極的に、自分からものをもらいにいく・・・そんなことをやったりするわけ。

あのご家庭のお子さん・・・もう学校を卒業したんだから・・・もう、机などはいらないんじゃないかな?ウチの子にちょうどいいわ!
そうやって、自分からもらいに行く・・・
そのようなことをやったりするわけ。

どんな家庭でも卒業だったり、引越しだったりのイヴェントはありますよね。家具なり服なりがいらなくなる・・・それくらいはあるでしょう。
ただ、そのようなケースだって、自分から「くださいな!」なんて交渉するものではないでしょ?

しかし、自分から積極的に「クレ!クレ!」と、もらいにいくわけ。それがもっと進行してしまうと、単なる時期的なイヴェントで不要になったものをもらおうとするだけではない。それこそ「あのご家庭のお子さん・・・ご病気でお亡くなりになったそうだわ!じゃあ、服とか、家具などがいらなくなったよね!ぜひとも、それらをもらいたいものだわ!」と、その家庭に、「くれ!くれ!」と交渉するようなことになってしまう。
子供を亡くした親の心情などには何も配慮しない。まあ、配慮したとしても人の気持ちがわからないんだから、結論は同じでしょう。

お下がりの服と言っても、成長してサイズが合わなくなって着られなくなったというのならまだしも、「死んだ子供」のお下がりだったら、それを着る方も、ちょっとイヤでしょ?着る際に、心朗らかとは行きませんよ。
しかし、被害者意識が強いダメダメな親は、「自分がわざわざしてやった」という「自分の持ち出し」に目が行くばかり。
死んだ子供の服をわざわざもらってきて、それを自分の子供に渡して「せっかくオマエのために、もらってきてやったんだから、この服を着るんだ!」と命令することになる。とにもかくにも、周囲の人や、自分の家族の心情などには何も配慮しないわけ。そんな状況だと、子供も自分の感情を抑圧するようになるのは当然でしょ?

そんな家庭環境にいると、現状認識や思考や判断を抑圧していて、結果的に、何も考えずに、「てきとう」に行動してしまうわけだから、現実としてトラブルにもなりますよ。
そんな家庭の子供が結婚後に、ドメスティック・ヴァイオレンスのような事態になってしまって、そんな親が嘆いて言うのが「まあ、どうしてワタシたちがこんなことに?!」「ワタシたちって、どうして、いつも上手くいかないの?!」。

「ギャグを書いているのでは?」なんて思われる方も、当然のこととして、多いでしょうが、現実の例ですよ。ダメダメというものは、それくらいマトモ家庭とは違っているわけ。
ダメダメ家庭では、いい思い出がないので、ものを自分たちの思い出のために取っておくなんて発想は持っていない。ということで、このような、わざわざもらおうとすることを平気でやったりするわけ。
では、「そうまでして欲しいものなのか?」というと、そうでもない。ただ、「無料だからほしい!」というだけなんですね。

前にも書いておりますが、ダメダメ家庭の人間は、人の気持ちがわからない人が多い。子供時代から自分の感情を抑圧してきたので、他者の気持ちも分からないわけ。オマケに被害者意識が強く「自分が一番かわいそうな人間なんだ!」と確信しているので、自分以外の人間については「自分よりも恵まれている」と勝手に認定してしまって、そんな人の気持ちなどには頓着しない。
人の気持ちがわからないがゆえに、外面的に「人に合わせて生きる」ことになる。別の言い方をすると「ふ・つ・う」に生きようとするわけ。
そして、ダメダメ家庭の人間は、判断することから逃避している。自分が判断したわけではない・・・と言う状況にしておきたいわけ。

そんなダメダメ人間にしてみれば、「人からものをもらう」ことは、実にフィットしたことなんですね。だって、「もらう」んだから判断のハードルは低いでしょ?「とりあえず」の精神でOKじゃないの?それに「人からもらう」わけだから、まさに「人に合わせる」ことにつながるでしょ?

そんな「クレ!クレ!」と言ってばかりのもらいたがりの人間は、自分で考え判断することは苦手。子供のためと称しものをもらうのはいいとして、では、
「そもそも自分の子供がどんな子供でいてほしいのか?」
「自分の子供がどんな大人になってほしいのか?」
そんなことを考えることから逃避している。
だから、自分たちのお金を使って、じっくり考えて、何かを買うことをしたくない。自分が判断することから逃避しているわけ。

判断から逃避しているそんな親は、周囲の人には「くれ!くれ!」と言うのに、自分の子供へのプレゼントなどは、無かったり、「て・き・と・う」だったりするわけ。
常に受け取る側なんですね。

ものをもらうのは、「いらないからあげる。」と言われたら、その時に、自分なりに判断してもらえばいい話でしょ?
しかし、普段は「て・き・と・う」なダメダメな親は、このような「もらう」時は積極的に行動したりする。「なぜに、そんな時だけ主体的なのか?」というと、「自分がどうしたいのか?」を主体的に考えなくても済むから・・・逆説的な言い方ですが、現実はそんなもの。
それに、もらったものが使えなくても、言い訳がしやすいでしょ?
「まっ、どうせ、無料なんだし・・・」
つまり、日頃から弁解ばかりしているダメダメ人間には、非常にありがたいわいけ。

お亡くなりになった方のものをもらおうとするレヴェルにまで進行してしまっている人は、希少価値でしょうが、やたらものをもらいたがる人っているでしょ?
あるいは、無料のイヴェントには、異常に熱心な人がいるでしょ?
「えっ?あそこは、今は無料なの?だったらスグに行かなきゃ!」なんて、普段は興味もないのに、そんな時だけ、熱心に出かける人もいますよね?
それこそ、遊園地などの施設でも、無料になると目を血走らせて、出かけるわけ。
なんでも、韓国とか中国ではおなじみの光景のようですが・・・

無料だと、それだけ、熱心になるということは、それだけ、「自分自身ではどうしたいのか?」考えたくないんですね。自己判断や自己責任から逃避しているわけ。
「もらいたがり」というものは、そんな自己逃避の症状なんですね。経済的に貧しいと言うより、心が貧しいわけ。

だから、この手の「もらいたがり」の人は、「捨てる」という判断も苦手なことが多い。
「必要か?必要でないか?将来的に使うのか?その予定がないのか?」
そんな認識なり判断をしないわけ。

「無料でものをもらえるのに、それをもらわない。」というマイナスに過剰に反応して、必要もないものをもらおうとするように、いったん自分のものにしたものを、「捨てる」となると、そのマイナスに過剰に反応してしまう。
だから、捨てられず、まさにゴミ屋敷のようになってしまう。
ゴミ屋敷状態まで進行していないまでも、やたら、ものをもらおうとする人ほど、必要のないものをいっぱい抱え込んで、「ああ!場所がない!困った!困った!」と言っているものでしょ?

ものをもらいたがる人も、ひたすら捨てられない人も、逆説的になりますが、ものの扱いが軽いわけです。ものに関係した思い出とか、託す思いと無縁になっている。物品そのものに対して思い入れがあるのではなく、「ものの出入り」に過剰に反応しているわけ。
思い出と無縁なので、写真はほとんどない。
ものをもらいたがったり、捨てられない人は、写真はほとんど持っていないことが多いんですよ。山ほどのモノがあっても、家族の写真がほとんどない・・・それがゴミ屋敷というもの。

あるいは、託す思いとは無縁なので、子供については、ネグレクトに近い状況になっていたりするもの。
そもそも、死んだ人間の「お古」を自分の子供に着せようとする時点で、かなり異常でしょ?それだけではなく、自分の子供についても、家にある物品と同じように、「なんとなく」いるだけの状態になっているわけ。そこに、認識や判断が存在しないわけです。

ものをもらうことは、もらったものがダメであっても「無料」なので自己弁護しやすい。
そもそも自分が選択して得たものではないので、それが使えなくても、気分的にラク。
もちろん、そんな「ダメモト」から始めて、自分で何かにチャレンジすればいいのですが、ダメダメ人間は「ダメモト」状態に安住してしまうわけ。ダメモトで安住するから、まさにダメダメになっているわけでしょ?

そうして、そのことについて、指摘されると、やっぱり言うのはコレ。
「だって・・・どうせ無料なんだし・・・」
「ワタシが選んだわけじゃないのよ!ワタシは悪くないわ!」

逆に言うと、そう言いたいがための、「もらいたがり」なんですね。

(終了)
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発信後記

今回のお題には、関係ありませんが・・・
今週の月曜日には様々な事件がありました。大臣の自殺だけでなく、芸能人の方が病院で「事故死」なさいました。
ダメダメ家庭を考える際には、「言っていること」から考えるよりも、「言われていないこと」から考えていった方が、理解しやすい、と、このメールマガジンで頻繁に書いています。

あの芸能人だって、本当に事故死なら、病院の管理責任が問われるわけですから、病院の謝罪会見があるのがスジ。そんな謝罪会見がないことから見えてくるでしょ?
しっかし、あの芸能人の本名は、いかにも幸が薄そうな名前でした。
彼女も色々とあったんでしょうねぇ・・・

しかし、アーティストは、どんな生き方、死に方をしたかということより、どんな作品を残したのか?その点が重要。
そういう意味では、アーティストの評価は、「言っている」ことだけを考えればいいわけ。
ファンの方も、あまり大騒ぎをすることなく、残された作品を、もう一度、聞いてみる。
それでいいのでは?
R.10/11/26