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カテゴリー ダメダメ家庭はいつも否定形
配信日 07年6月15日  (10年9月26日 記述を追加)
タイトル なんとなく消去法
ダメダメ家庭の人間は、否定形の物言いが多い。このことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
「違う」とか「悪い」とか「ダメ」とか・・・
物言いが否定形というだけでなく、発想そのものが否定形なんですね。
「あーじゃない!」「こーじゃない!」「これはイヤだ!」、そして「どうして、わかってくれないの?!」。

そもそもダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。
自分でやりたいことがあるわけではないので、何かを否定するという形でないと、自分の考えを示せないわけ。

だから、そんな否定形の発想がスパイラル的に進行することになる。
「何かを否定することが自己主張だ!」
「あの○○を否定するオレって、なんてすばらしいんだ?!」
ギャグを書いているようですが、韓国人の行動って、まさにそれでしょ?
彼らは、現在だけでなく、歴史的にもずっとそんな感じでしょ?

さて、何かを否定すると言っても、当事者意識がないわけだから、「自分はこのことを達成したい。だから、このような方法を採用しても求める結果が得られそうにないので、今回は、この方法を取らない。」なんて、的確な現状認識と合理的な思考に基づいた否定ではないわけ。とりあえず「目立つ」ものを見て、「これは違う!」と否定。
そして、次に「目立つ」ものを見て、「あれも、違う!」と否定する。

次々と否定して、なんとなく残ったものを、消去法的に、とりあえず「選択」することになる。
しかし、その「選択」と言っても、「自分はこうしたいから」という当事者意識に基づいたものではなく、単に目立っているものを否定し続けた「残り物」なんですね。
だから、逆に言うと、その選択は、当人にしてみれば、「一番考えていない」チョイスであるわけ。だってちょっとでも考えれば、それを否定する人なんだから、否定されずに残っているものとなると、何も考えていないチョイスということになるでしょ?
このことは、何も論理的な説明だけではなく、現実のダメダメ人間って、そんなものでしょ?

たとえば、結婚するという段になった際の選択でもそんな感じ。
結婚という人生の一段階においては、「結婚しない」という選択も、当然のこととしてありますよね?
そもそもダメダメ家庭出身の人間は、自分が一番よく知っている夫婦関係・・・つまり自分の両親が、楽しい夫婦というわけではないんだから、「結婚しない」という選択も、本来なら、検討に値するでしょ?
しかし、そのような「結婚しない」という選択は、「ふつうじゃない」という理由で却下。

ということで、消去法で、「とりあえず」結婚するわけ。
結婚したかったから、結婚したのではなく、「結婚しない」のが、「ふつうじゃない」から、結婚しただけ・・・ダメダメ家庭の人間としては、現実にそんなパターンって多いでしょ?

同じようなことは、子供を作る際にも発生しますよね?
自分が子供が好きとか、子育てによって、自分自身を豊かにしたいとかの当事者意識による理由があればまだしも、ダメダメ人間が取るのは消去法的な発想だけ。
「子供を作らない」という選択は、「ふつうじゃない」ということで却下。
ということで、消去法で、「子供を作る」ことになる。
かと言って、子供がほしい理由があるわけではない。ただ消去法で残ったから子供を作っただけなんですね。

否定形が重なった二重否定。
だから、積極的に肯定しているわけではない。

消去法による思考も、当然のこととして、必要になってくることもあります。
しかし、まずは当人の明確な目標を自覚することが先でしょ?
ダメダメ家庭の人間がやるのは、漠然とした消去法なんですね。
目立つものを次々と消去して行って、結局残るのは、単に一番目立たないものというだけ。
まさに、「不都合なところがない」という「ふ・つ・う」の状態が残るわけ。

考えた上での消去法ならまだしも、何も考えないがゆえの消去法なんだから、その結果がどうなってしまうのか?
そんなことは言うまでもないことでしょ?

このような「なんとなく消去法」は、どちらかというと、漠然としたものです。
何回も書きますが、目の前にある不都合な事態を、「とりあえず」否定し続けているだけ。
もっと積極的な否定となると、あら探しをするパターンとなります。
自分が否定したい対象を、わざわざ、まさに血眼になって探すわけ。
ダメダメ家庭の人間は、積極的とか消極的とかの、その面では違いはあっても、何かを否定するしか能がないことは変わらない。

消極的な否定の場合には、目の前のものを、とりあえず、そして、なんとなく否定する。
つまり、そんな人は、自分なりに考えることから逃避しているわけ。
何回も書きますが、当人の目標があって、その達成までのグランドデザインがあって、その方法論として否定の選択をしているわけではない。目標も、グランドデザインも、当人なりの方法論もない。

自分の判断で選択するのが怖く、日頃から「な〜んとなく」「てきとう」に流れているだけ。だからこそ、当人が判断しなくてはならない事態になってしまうと、パニックになり、逆上したりする。
目の前の不都合な事態を否定することしか能がない人なんだから、「そんなものは見せないで!」と逆上したりするもの。
それこそ、トルストイ描く、「アンナ・カレーニナ」なんて、典型的にそのパターンですし、「こんにゃくゼリー」の根絶なる主張を掲げている人たちも、そのパターン。
見たものを否定するしか能がない人は、選択の場面につながるものを、できるだけ見ないようにしたいわけ。

今回の「なんとなく消去法」のパターンだと、もっとも「目立たない」ものだから、つまり、当人の選択からもっとも遠いものだから、とりあえず、それが結果的に「選択」されてしまうことになる。しかし、もともと、自分で考えた上で判断し選択したわけではないので、結局は、色々と不都合が目立ってくる。そして、その不都合の原因を探そうとして、やっぱり目の前にいる存在をその原因としてしまう。
そうなると、「オマエのために、ワタシの人生を棒に振った!」と、子供を犯人認定し、グチるようになるわけ。
そんなことだから、子供の可能性どころか、命だって否定され、消去されてしまうのも当然でしょ?

(終了)
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発信後記

ダメダメ人間は、当事者意識がない。
このことは何回も書いています。当事者意識がなく、自分で考えないものだから、逆に言うと「ワタシは悪くない!」と言えるわけ。
「だって・・・自分が考えた上で、行動したわけではないんだから・・・ワタシは悪くないわ!」
まあ、論理的にはそのとおり。

しかし、何も考えないがゆえに、上手く行かないわけでしょ?
このメールマガジンで頻繁に書いていますが、「ワタシは悪くない!」と言う人が、そもそも危険人物なんですし、「アナタは悪くないわ!」と、グチに同情する人間も、危険人物なんですね。
R.10/9/26