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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない体験,境遇
配信日 07年6月26日 (10年10月13日 記述を追加)
タイトル 季節感
「最近暑くなりましたねぇ・・・」
『ホント、ワタシは汗っかきで、困っちゃうわ・・・』
・・・なんて、季節のネタは、会話の端緒としては、いわば王道のようなもの。
ネタとして手ごろな軽さで、相手も答えやすく、会話のきっかけとしてはちょうどいいネタと言えるでしょ?

いきなり、仕事の話とか、子供のトラブルの話とか、宗教の話とか、政治の話から会話を始めようとするよりも、穏当ですよ。
まあ、「儲かりまっかぁ?」なんて物言いも・・・「一緒に、経済の話をしようよ!」という意図があるわけでもないでしょ?実際には、ちょっとした挨拶でしょ?
まずは、挨拶として、季節ネタなどの、お気楽な話題から始める・・・それでいいじゃないの?

それはそれでいいとして、重要なことは、その端緒から中身の話に持っていくことでしょ?
しかし、ダメダメ家庭は会話不全の家庭。
言葉は飛び交っていても、中身のやり取りが発展していかない。

そのことについては、このメールマガジンで、頻繁に書いています。
そもそも、「自分が言いたいこと」が自分でもわかっていないんだから、会話が発展しようがありませんよ。
それに、その「自分の言いたいこと」「わかってほしいこと」を表現するための、ちょっとした「小ネタ」のようなものも持っていない。
それこそ、最初に取り上げた季節のネタですが、「暑い」とか「寒い」とかの、いわば温度ネタは何とかなっても、季節ネタだと、もっと色々なものがあるでしょ?

それこそ、季節の食材なんてもののありますよね?
秋にはサンマとか・・・夏にはスイカとか・・・秋の果物とか・・・
野菜だって、季節によって旬というものがある。
しかし、ダメダメ家庭の人間は、そのレヴェルの季節ネタになると、とたんに対応できなくなるわけ。

だって、そもそもダメダメ家庭は食事に関心がない。
このことについては、以前にも配信しております。
食事全般に関心がないんだから、季節の食材で料理を作ろうなんてことは考えませんよ。まあ、暑い時には、そうめんとか、かき氷とかそんな冷たいものを食べるとか、お正月にはオモチを食べるとか・・・それくらいのレヴェル。
しかし、そのようなことは厳密な意味の季節の食材とは言えなくて、温度ネタのヴァリエーションのようなもの。
ダメダメ家庭の食卓は、基本的には、年中同じなんですね。
だから、季節特有の食材なんて、わからなくなるのは当然。
極端な話になりますが、毎日の食事がコンビニ弁当とレトルトカレーとカップラーメンの日々だったら、季節の食材などはまったくイメージできないでしょ?

季節に関わることと言うと、食事に関することばかりではありません。ある種のイヴェントに属することも起きますよね?

しかし、ダメダメ家庭では、そんなイヴェントとは縁がない。
家族そろって、どこかに出かけるなんてことはしない。
春に花見とか、夏になったら海に行くとか、秋に紅葉狩りに行くとか、冬になったらスキーに行くとか・・・
あるいは、七夕祭りとか、お雛祭りとか、七五三のようなものもしない。
そのような典型的なイヴェントだけではなく、たとえば、お祖母さんの命日にお墓参りとかのイヴェントもない。
そんなイヴェントがないんだから、季節ネタも集まらないでしょ?

イヴェントがないだけでなく、そもそも家族の会話自体がないんだから、季節にちなんだ会話なんてありようがない。
そんなダメダメ家庭の人間は、季節に関することと言うと、結局は「暑い」とか「寒い」とかの、温度ネタだけになってしまうわけ。
温度ネタには対応できても、それ以上はダンマリとなってしまう。

あるいは、ダメダメ家庭はオシャレの楽しみとは無縁であることは別のところに書いております。何事も「ふつう」志向のダメダメ家庭は、服装においても、周囲の人の服装に合わせて、目立たないことを志向することになる。だから、季節によって服装が変化すると言っても、周囲の人の服装の変化に「つられて」自分の服装を変えるだけ。
季節の変化をダイレクトに意識するのではなく、あくまで間接的なんですね。
そんな人に合わせてばかりで服装を選んでいるんだから、服装と季節感も心理的には結びつくことはない。
だから、情緒的は印象もなく、記録には残っても、結局は記憶に残らない。

「最近、暑くなってきたわねぇ・・・もう夏ねぇ・・・」
『そうそう!ワタシは子供の頃には、今頃になると、○○なんて、よくやったものよ!』
あるいは、
『この時期になると、△△がおいしいのよね!』
そんなやり取りにはならない。

ちょっとした季節ネタの多さって、それだけ実家で体験してきたことが反映されるわけ。
それに、その手のネタって、学校で学ぶものではないでしょ?
家庭の出来具合が、如実に反映されるわけです。

季節ネタが、どれくらい続くことができるのか?
そんなことからでも、相手の人の実家のダメダメさがわかったりするものなんですね。
実際に、このような季節感にちなんだ問題を入学試験に使っている学校もあるとのこと。
まあ、私立の学校だと、ダメダメ家庭の子供の入学はできるだけ避けたいでしょうから、そのチェックの意味があるんでしょうね。受験する側も、お受験対策として、季節ネタの習得に励む親御さんもいらっしゃるそう。

ただ、前にも書いていますが、季節ネタというのは、体験に付随するものであって、個別に学ぶものではないでしょ?

しかし、ダメダメ家庭においては、どんな分野においても、体験という感覚自体が薄いわけ。
ダメダメ家庭においては、何事も消費するという感覚に近い。

自分たちなりに計画して、実行し、その結果として情緒的に強い印象が残るというよりも、既存の、そしてありきたりのものを消費するだけになってしまっている。
実行するイヴェントも、体験というよりも、いわば消費するだけなので、付随するエピソードもない。
学ぶことによって季節ネタを習得したダメダメ家庭の子供は、季節ネタと言っても、所詮は既製品的な季節ネタとまりであって、子供の心に根差した実感のこもったものにはなっていないわけ。
前にも書いていますが、マトモな季節ネタは、各種の体験に、あくまで付随しているもの。メインとなった体験が子供の心に与えた情緒的な影響と、不即不離なんですね。

端午の節句でちまきを食べたとかの類型的で既製品的なものではなく、家族全員で鯉のぼりを上げても、風が吹いてこなくて、いつまでも垂れ下がったままで残念だったとか、途中で雨が降って慌てたとかのネタの方が実感があるものでしょ?
あるいは、家族でのお墓参りの時に、子供時代のワタシは、お墓の近くで咲いていたコスモスの花を見ていました・・・とかの話だと、より実感が出てくるでしょ?

まあ、見る人が見ると、そんな季節ネタの実感具合によって、その家庭のダメダメ具合なんて、スグにわかってしまうものですよ。
逆に言うと、受け身の立ち位置で既製品的なものを消費するだけのダメダメ家庭においては、この季節ネタは意外にも敷居は高いわけ。
このことは、何も小学校のお受験の問題だけでなく、それこそ、結婚相手の品定めにおいても十分に使えるものです。

だから、ダメダメ家庭出身者の中で、自分の季節ネタの弱さをなんとなく感じている人は、その点を相手から突っ込まれないように、型通りの、「ふつう」の季節ネタを早めにだしておくようなことをするもの。提出されるネタは、まるでその季節の挨拶状のひな形として、書籍などにおいてお勧めとされているような典型的で既製品的な、そして非の打ちどころのない季節ネタ。
しかし、定型的な挨拶文における季節ネタならともかく、ちょっとしたフランクなやり取りにおける季節ネタで価値があるのは、その「まとまり」ではなく、実感のレヴェルなんですね。実感のこもったネタだからこそ、話が弾んでいくわけでしょ?

季節ネタの種類の問題というよりも、その実感具合において、マトモ家庭とダメダメ家庭の差は出てしまうもの。
それは、日々の時間を体験してきたマトモ家庭と、ただ消費するだけだったダメダメ家庭の差に対応しているわけです。

(終了)
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発信後記

特に事件がなければ、次回は古い文芸作品を取り上げます。
お気楽に読める文章に仕上がっていると思いますので、まあ、ホントにお気楽に読んでくださいな。
R.10/10/13