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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 07年6月29日  (10年9月15日 記述を追加)
タイトル じゃじゃ馬ならし
作者 ウィリアム・シェークスピア
このメールマガジンで、以前に「キモイオタク」という文章を配信しております。
オタク趣味は趣味として当人の自由ですが、それをどうやって他の人に説明するのか?
相手があることなんだから、その点は個人の問題とは言えないでしょ?

やたら対抗心を持って絡んだり、相手を説得しようとしても、オタクでない人は引いてしまうだけ。
どうせ、趣味にすぎないんだから、「オレもいい歳をして、バカだなぁ・・・」なんて自分で自分を笑えるような人だったら、周囲の人間にしてみれば、『へぇ・・・アンタは、そんな趣味なんだねぇ・・・』と一緒に笑ってオシマイでしょ?
ヘンに勝ち負けの問題にして、熱く語ったりするから、『キモイ!』って、言われるんでしょ?
どうせ趣味なんだから、当人が自分なりの流儀で余裕を持って楽しんでいればいいじゃないの?

さて、そのオタクの世界では「メイドもの」なるジャンルがあるそう。
特に「とりえ」のない少年の元にメイドさんが現れ、「ご主人さま!精一杯ご奉仕させていただきますっ!」なんてやるらしい。
まあ、そんな妄想を抱くのも、当人の勝手でしょう。
しかし、ジャンルが成立するくらいに人気があるということは、ある種の普遍的な人間心理を突いているんでしょうね。だから、別の時代にも同じようなものがあったりするもの。
以前にも書きましたが、そんなメイドものの源流となると、日本の「鶴の恩返し」が、まさにそのものズバリといえます。

さて、オタクの世界では、「メイドもの」がジャンルとして確立している(らしい・・・)ように、同じように確立しているジャンルがあるそうです。
「ツンデレ」と言うらしい。
ツンツンしている高ピーな女の子が、とある男の子・・・それも、あまり目立たない男の子に恋をしてデレデレになる・・・
そんなストーリーなんだそう。

私はオタクの世界には、詳しくはありませんが、どうやらそんなストーリーが、オタクの方々に人気があるらしい。
メイドものの古典として、「鶴の恩返し」があるように、そんなに人気の「ツンデレ」ものにも歴史的な古典があるのでは?
ということで、今回は、シェークスピアの戯曲「じゃじゃ馬ならし」を取り上げましょう。

何もこのメールマガジンでは、文学解説を目的とはしていません。
芸術作品の中で表現された人物なりストーリーの中に、ダメダメ家庭と関係のあるものを取り出し、現実のダメダメ家庭を考えるに有用な視点を得る・・・そんな目的で取り上げております。
シチュエーションを考えるのではなく、その心理を考えているんです。
たとえば、ツンデレはツンデレでいいとして、じゃあ、なぜに「ツンツン」していたのか?
そして、どうして「デレデレ」になったのか?そんな心理も、芸術作品から見えたりするんですね。

今回取り上げるシェークスピアの「じゃじゃ馬ならし」は、イタリアのパデュアを舞台に、高ピーな女性キャタリーナさんが、結婚して、ご主人のペトルーチオさんに、仕込まれて?やがて夫を愛する従順な妻になる・・・そんな話です。
単に従順というだけでなく、自分で考え、対処できる、自立心を持ったいい女性であり妻になっていきます。

この高ピーなキャタリーナさんが、なぜに「ツンツン」していたのか?
この家庭は、母親は死去していて、父親が存命で、あと、キャタリーナさんには妹がいます。
その妹さんは、「じゃじゃ馬」として名高いキャタリーナとは違って、元から、おしとやか。だから、父親は、妹の方ばかりかわいがってしまう。
キャタリーナさんのツンツンには、そんなことが関係しているんですね。

ここでキャタリーナさんの状況を見て見ましょう。

1. アタマがいい・・・キャタリーナさんは、アタマがいい女性です。どんなオトコも言い負かしてしまう。言い負かすことができるものだから、「フンっ!周囲のオトコはバカばかり!」と、ますます高ピーになってしまう。

2. 自信がない・・・アタマがいいキャタリーナさんだけど、父親は妹ばかりをかわいがるし、周囲のオトコも、妹ばかりをチヤホヤする。だから、キャタリーナさんは、本当は自分に自信がない。

3. 構ってもらっていない・・・母親は不在だし、父親は妹ばかりをかわいがる。だからキャタリーナさんは、やっぱりさみしい。

4. 序列が安定しない・・・父親は妹ばかりをかわいがり、周囲のオトコも妹ばかりをチヤホヤするので、姉妹の序列が逆転している状態。だから姉であるキャタリーナは妹をいじめたりする。以前に取り上げた「アルファ症候群」に近い状態になっている。

5. 自分で自分が分かっていない・・・自分がどんな人間なのか?どんな美質があるのか?何をしたいのか?何がほしいのか?それらについて、自分でも分かっていないので、「あーじゃない!こーじゃない!」と否定形になるばかり。だから、周囲の人間は、ますます引いてしまうことになる。

ということで、キャタリーナさんは、以下のような状況になってしまう。

1. 攻撃的・・・父親が妹ばかりを構っているので、「自分のことは自分で何とかしなきゃ!」と、普段から余裕がない。だから、その物言いも高ピーで攻撃的になってしまう。

2. 勝ち負けにこだわる・・・自分の存在を主張できるのは、そのアタマのよさだけになっているので、なおのこと「議論で勝とう!」と、より攻撃的になってしまう。

3. 根拠のないプライド・・・自分に本当の自信がないので、弱みを見せないようにと、どうしても虚勢を張らないといけない。だからますます高ピーになってしまう。


さて、そんな感じで周囲にツンツンして高ピーなお嬢様だったキャタリーナ・・・というか、こんな女性は、21世紀の日本でも、現実的に結構いるでしょ?
まあ、このメールマガジンでも・・・ありましたよね?

そのツンツンお嬢様のキャタリーナと結婚したペトルーチオは、どうやってキャタリーナをデレデレにしたのでしょうか?
作者であるシェークスピアに従って、見てみましょう。

1. 美質を認めてあげる・・・キャタリーナさんはアタマがいい。まずはその美質を美質として認めて上げること、それが、第1歩でしょ?ただ、今まで彼女の周囲にいたオトコは、キャタリーナさんにカンタンに言い負かされていた。だから、キャタリーナのアタマのよさを美質として認めることができない。しかし、ペトルーチオは、キャタリーナ以上にアタマがいいので、キャタリーナの才気に富んだ言葉にも的確に反応できる。才気煥発なもの同士でのやり取りが成立し、それがキャタリーナには楽しく思える。キャタリーナにしてみれば、いわば初めて会話が成立したわけです。そして、ペトルーチオはキャタリーナ「キミはアタマがいいから好きだよ!」なんて認めて、ホメたりする。自分の美質を認めてもらえたキャタリーナにしてみれば、「この人は、ワタシの良さを分かってくれるわ!」と思うことになりますよね?

2. 序列の確立・・・ダメダメ家庭の人間は序列意識が強い。だから、序列が不安定だと気持ちまで落ち着かなくなってしまう。キャタリーナのご主人となったペトルーチオは、かなり亭主関白です。しかし、逆に言うと、キャタリーナにしてみれば、序列が安定できて、自分の役割も明確になるので、精神的にラクなんですね。

3. 構ってあげる・・・キャタリーナは父親から構ってもらっていない。そのキャタリーナに対し、ペトルーチオは、無理難題を吹っかける感じで、何だかんだと構うことになる。人から構ってもらえる安心感が得られたので、キャタリーナとしては、周囲に対し無理にチョッカイを出す必要がなくなり精神的に安定することになる。

ペトルーチオは、まあ、キャタリーナの心を満たしてあげたわけです。だからキャタリーナも彼にデレデレになったわけです。何だかんだと言っても、2人は会話をしている。亭主関白で、強圧的で一方的に命令しているだけでは、妻は従順になるわけもありませんよ。

ちなみに、「あの人は、ワタシの良さを分かってくれる!」となるとデレデレになるわけですが、「あの人は、ワタシがかわいそうな被害者であることを分かってくれる!」と認定されると、「入れ込み」「入れ込まれ」状態になってしまう。
プラスの面を認め合えるのなら、いい関係になるわけですが、マイナスの面が共鳴するようだと、危険なんですね。

シェークスピアのような昔の人の作品でも、現代の私たちと同じようなことをやっているでしょ?時代を超えて生き残っている古典作品って、やっぱり力があるんですね。
ただ、何も分かっていない人がツマンナイ解説をするから、多くの人は「この本から勉強しなきゃ!」なんて身構えてしまう。だから、楽しめないし、作者の本当の意図が読み取れない。

まあ、アタマがいい高ピーのお嬢様って、自分自身に自信がないケースが案外に多かったりするでしょ?
なまじアタマがいい分、周囲の人間がアホに見えてしまう。だからコミュニケーションが上手くいかない。だから、周囲の人に対し自分自身を落ち着いて説明することができない。このキャタリーナは幸運にもペトルーチオと出会えたから、デレデレになり、精神的に落ち着くことができましたが、そんな幸運がないケースでは、やっぱり自分の自覚が必要になってくるわけです。そうでないと、せっかくの出会いの機会も見逃してしまうものなんですね。

ちなみに、この「じゃじゃ馬ならし」では、仮装ということが重要な要素です。
キャタリーナと結婚するペトルーチオも、結婚式には、わざわざみすぼらしい格好をしてくる。あと、主人と召し使いが、衣装を交換したりするシーンもあります。あと、登場人物が身分を偽るシーンもあります。
あるいは、そもそもこの戯曲自体が、一種の劇中劇のスタイルになっています。
何重もの仮装に彩られているドラマなんですね。

その何重もの仮装の中から、真実を見出す眼力。
これが、このドラマの本当のテーマといえます。じゃじゃ馬女性を仕込む「女房教育」のドラマではありませんよ。
キャタリーナさんは、当人自身も気がつかないうちに、心の仮装をしていた。ベトルーチオは、キャタリーナの心の仮装から、真実の心や美質を解き放った。キャタリーナは、自分自身の覆いから解放されたゆえに、それをしてくれたベトルーチオに、デレデレになったわけです。

このような点は、現代とまったく同じでしょ?

シェークスピアだと、「空騒ぎ」でも、アタマがいい女性が、アタマがいい男性にデレデレになる話でしたよね?まあ、不幸にも?アタマがよく生まれてしまった女性は、やっぱりお相手の男性は、それ以上にアタマがよくないとダメ。
お相手が制限されてしまうといえるでしょう。

ちなみに、シェークスピア本人は、年上の女性に手を出して、できちゃった婚でした。このような点も現代と共通といえるかも?
たぶん、奥さんも、かなりアタマがいい女性なんでしょうね。結婚前は高ピーだったのかは、チョットわかりませんが、その可能性が結構高いのでは?まあ、モノを書く人間は、何でもネタにしちゃうものなんですよ。
ちなみに、シェークスピアの最後の作品といえる「テンペスト」の中に、「結婚前に相手とそのような関係を持ってしまうと、婚姻の神からの恩寵が受けられないぞ!」と若い婚約者たちに警告するセリフがあります。まあ、このあたりもシェークスピアの実体験が反映しているのでは?奥さんと色々とあったんでしょうねぇ・・・

オタクの世界ではどうなのかは知りませんが、「何のとりえもない、ふ・つ・う」の男の子が、高ピーなお嬢様にデレデレになってもらえる・・・のは、残念ながら現実的ではありません。
やっぱり男の子の側にも、求められるものがある。
ダイヤの原石を見つけ出し、それを磨き上げる。
そんな能力が求められる。

実際に、この「じゃじゃ馬ならし」のキャタリーナに対し、「特に何の問題もない」「ふつう」の「やさしいだけの」オトコの子だったら何かできるでしょうか?

キャタリーナに簡単に言い負かされて、キャタリーナとしては、ますます「フンっ!オトコなんてバカばっかり!」となってしまうだけでしょ?
自分の能力の使い方が自分でも分からなくてツンツンしている人間を、「うならせたり」「ハッとさせる」ような、鋭い指摘をすることができ、相手を感服させることができれば、相手がアタマがいい分だけ、やり取りはラクになる。そうなれば、デレデレになってもらえるかも?やさしいだけのオトコの子では、この手のツンツンの女の子に対しては対処ができないんですね。

洞察力などの能力の問題はあるにせよ、現状から一歩踏み出す勇気と覚悟を持っていないと、心の仮装から人を解き放つことはできませんし、相手側の勇気や覚悟を引き出すこともできませんよ。

女の子も、そんな能力や意欲のある男の子だからこそ、光り輝くことができるわけでしょ?
男の子の方も、「ボクにデレデレになってくれる女の子はいないかなぁ・・・」なんて、受け身の姿勢で、単に妄想しているだけではデレデレになってもらえませんよ。普段からそれなりに努力しないとね。

(終了)
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発信後記

こんなメールマガジンの文章でも、曲がりなりにも文章を書いているので、「これは神の配剤か!」と思うような瞬間が多くあります。
何でも日本で首相をされた宮沢さんがお亡くなりになったそうで・・・
実は、宮沢さんの顔を思い出していた、ちょうどその時に、そのニュースなので、ビックリしました。

別に私は宮沢さんとは関りがありません。実はジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」のDVDを見て、その中のヨーダさんが宮沢さんにソックリなので、思い出しちゃったんですね。

実は、近いうちに「スター・ウォーズ」のエピソード1〜3を取り上げようと思っています。
人を育てるということについて、実に示唆的な作品なんですね。監督のルーカスも、その点に十分に配慮しながらドラマを作っていることがわかります。

皆さんも、見ておいてくださいな。
どこのレンタル・ショップにも置いてあるでしょうし。
R.11/2/15