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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 07年9月7日  (10年12月22日 記述を追加)
タイトル 泣き言が多い
ダメダメ家庭の人間はグチしか言わない。というか、それくらいしかネタもない。
始終、「あ〜あ、困った!困った!」と言っている。

厳密に境界があるわけでもないでしょうが、グチの親戚と言えるのは「泣き言」。
「ああ!ワタシはもうダメだわ!」
「もうすぐ死んじゃう!」
「生きていても、いいことなんてないわ!」
「ああ!身体の調子が悪い!腰が痛い!」

そんな言葉を聞かされても『じゃあ、いったいどうすればいいの?』となるのは言うまでもないこと。

泣き言となると、往々にして自分の身体の不調を言ったりするものですよね?
まあ、ダメダメ家庭の人間は実際に、身体の調子が悪いことが多い。
そもそもあまり食事に関心がないケースも多く、おまけに普段から精神的に切羽詰っているので精神に余計な負担が掛かっているので、身体もガタガタ。
まあ、「泣き言」も言いたくなるでしょう。

しかし、当然のこととして、泣き言を言って解決するわけでもない。そもそもそんなに重症なら、さっさと医者に行った方がマシ。聞かされる方は医学について詳しいわけではないんですからね。

ただ、「泣き言」を言う人間は、医学的なサポートを求めているわけではない。それくらいはわかっていますって・・・
そんな泣き言人間が求めているのは、コレ。
「ワタシに構ってよ!」

「ああ!ワタシはもうダメだわ!」
・・・『そんなことはないわ!ワタシがついているじゃないの?』
「生きていてもいいことは無いわ!」
・・・『そのうちにいいこともあるわ!』
「あ〜あ、身体がつらい!」
・・・『まあ、アナタって、何てかわいそうなの!?』

このように「構ってもらう」とうれしいわけ。
一度成功体験が得られると、味を占めてしまって、泣き言を繰り返す。

パートタイムで泣き言を聞くはめになった周囲の人間は、気分次第で聞いていればいいからラクなもの。しかし、フルタイムでそんな泣き言を気かなくてはならない家族はどうなるの?

そんな泣き言人間がいると、家族の方が参ってしまうものなんですね。

しかし、日頃から泣き言を言い続けている人間は、もはやその語り口が練達の境地に達することになる。その語り口で、周囲の人間の同情を見事に勝ち取ったりもするわけ。
そんな語り口に乗せられない、マトモな人間は、さっさと避けてしまうから、もう近寄ってこない。
あるいは、『泣き言はいいけど、アンタはどうしたいの?』などと言い出す人間に対しては、泣き言人間の方が避けてしまう。

泣き言を言うしか能のない人間と、同情するしか能がない人間が集まって、大いに盛り上がることになる。
そうなると、その同情するしか能がない人間が、泣き言人間の家族に注意する。

「アンタたち・・・もっとあの人を大切にしなさいよ!」

そんなことを言われてもどうすればいいの?
まったく・・・そんなことを言われた方が泣きたいよ!

泣き言人間は、始終泣き言の繰り返し。
「身体の調子が悪い!」
「あ〜あ、ツライ!ツライ!」
「そろそろお迎えが・・・」
しかし、そんな家庭で、一番長生きするのは、その自称「身体の調子の悪い人間」の側。
現実って、まずはそんなパターンでしょ?

前にも書きましたが、泣き言はグチの親戚のようなもの。
周囲との関わりにおいては、ほとんど同じもの。
グチばかり言っている人間は、そのグチが通りやすいダメダメな環境を求める。
そんな環境であれば、グチも通りやすいし、当然のこととして、泣き言にも同情されたりする。

しかし、グチや泣き言が通ってしまうと、自分の苦境を語ることもできない弱い立場のものにそのしわ寄せが来ることになる。
泣き言ばかり言っているジジババがいる家庭では、往々にして子供の精神がメチャクチャになってしまっている。だって、当然のことでしょ?
家に帰れば、ジジババからの泣き言ばかりを聞かされれば、安住の地なんてありませんよ。

この手のジジババは、「オマエは若くていいねぇ・・・」「やりたいことが何でもできるよ!」と言い出す。あるいは、以前に配信した「オマエは何も苦労がなくて、幸せだねぇ・・・」と言い出すことになる。あるいは、「昔はこんなに苦労があった。今はいいよ。」などとうらやましがる。
しかし、年がら年中ジジババからの泣き言を聞かされていたら、未来への希望を持つどころではないでしょ?もう、心頭滅却しないとその家庭ではやっていけませんよ。
子供が家庭内で自分の困りごとを言わないといっても、苦労を先に語られてしまっているので、子供なりの困ったことが語れないというだけで、その家庭で一番困った状況にあるのは、一番弱い立場である子供なんですね。
そんな日々なので、結局は子供が問題行動を起こしたりする。

そうすると、泣き言人間は、大喜びで泣き言を語ることになる。
「ウチの家庭はどうして、上手く行かないのかしら?」
「あ〜あ、ホントに、生きているってツライことだねぇ・・・」
「ホント、ワタシにも早くお迎えが来てくれないかしら・・・」

まあ、そんな泣き言ばかりの家庭だからこそ、子供に警察からの迎えが来ちゃうわけです。

(終了)
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発信後記

今回のお題とは関係ありませんが・・・
イタリアのオペラ歌手であるルチアーノ・パバロッティさんがお亡くなりになったとのニュースがありました。
と言っても、私は彼をナマでは聞いたことがありません。ティケットも高いしね。
以前に旅行に行った際に、とあるオペラハウスのティケット売り場でティケットを買おうとしたら、明日の公演のティケットは簡単に取れたのに、約1ヶ月先の公演のティケットがソールドアウトだったので、「どうしたのかな?」と思ったのですが、そのソールドアウトの公演の主役が、パバロッティさんでした。
「なるほどねっ。」
「やっぱり彼は人気があるんだなぁ・・・」と思った次第。

一流の歌手は、歌がうまいとかの次元を超えて、ある種のオーラがあるものです。
ただいるだけで、舞台が輝いてくるような感じ。

そんなオーラは、才能はもちろんですし、努力ももちろん必要でしょう。
しかし、命がけの覚悟とか気迫のようなものも必要に思います。

私は以前に、イタリアオペラの歌手のインタビューを集めた本を読んだことがあって、その中にパバロッティさんのインタビューも載っていました。
彼も簡単にあの地位に到達したわけではないわけ。コンクールに何回も落ちて、「これでダメだったら、もうあきらめよう!」なんて思った「最後の」コンクールで受賞できて、下積み生活もあって、あの地位に到達したわけ。

あるいは、別の女性歌手のインタビューもあって、その女性歌手は、父親に「私はオペラ歌手になりたい!」と言ったら、その場でブン殴られたんだそう。
「テメー!勉強が嫌いだからと言って、そんな屁理屈を!」なんだそう。
彼女は勉強がイヤだからオペラ歌手になりたいと思ったわけでもないんですが、親父さんは、そう思っちゃったんでしょうね。誤解で殴られたその女性は気の毒ですが、逆に言うと、「何が何でもやってやる!」と気合が入ったんじゃないの?

自分の表現したいものを表現するために、命がけで舞台に立つ・・・そうでないと、一流にはなれませんし、オーラも出てきませんよ。
殴られるのがイヤとか、あるいは、人を傷つけるのがイヤだとか、そんなキレイごとしか言えないような人間は、表現しても、そこそこのレヴェルで終わっちゃうものなんですね。

もちろん、そのようなことは、オペラ歌手に限らず、表現するものだったら、誰だってそうですが。
R.10/12/22