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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 07年9月21日
タイトル 狂人日記(1918年)
作者 魯迅
さて、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」の文章ですが、将来において、どんな扱いをうけるのかについては、書いている私自身はよくわかりません。現代文学も翻訳者や解説者以上には理解できる私ですし、書いている私自身はそれなりに自信を持ってこれらの一連の文章を書いていますが、理解されるのには結構時間がかかるでしょう。それこそ臨床の実体験に根ざしたフロイトの精神分析学が理解されるのに時間がかかったようなもの。私の文章が博士論文の作成に参考になったとのお礼をいただいても・・・それって、逆に言うと、一般的には理解されにくいということになる。・・・とてもじゃないけど、素直に喜べませんよ。
まあ、現実的には、多くの人が理解できるようになるには、時間がかかるでしょうね。
それに、このメールマガジンは差し障りのあるマターを多く扱っていますからね。
ちょっと時間を置いた方が、冷静に受け取れるでしょうね。

内容的に将来どのような扱いを受けるか、外国語に翻訳されるのかについてはともかく、この文章は意外にも、翻訳しやすい文章だと自分では考えています。英語などに得意の方は、一度やってみてくださいな。
使われている日本語自体は、結構技巧的で、それなりに高度なものですが、その発想自体は、どっちかというと、欧米的。もともとが翻訳調の文章なんですよ。

私個人は、翻訳が的確であればヨーロッパの文章の方が理解しやすい。私にとって「東の果て」となると、ロシアのチェーホフあたりになってしまう。そこから東はもう別の文化圏。とは言え私も日本人ですから、日本人の作品を取り上げたりしています。心情的に違っても、言語圏は共通だし、時代も共通ですからね。現在の日本の問題は、やっぱり理解できる。

だから、私にとって、一番の難物は、東アジアの作品となります。文化圏も違うし、言語圏も違う。
しかし、東アジアの中国、韓国、北朝鮮の問題は、このメールマガジンで頻繁に言及しております。だって、ダメダメの事例には事欠かない。

今回は、東アジアの作品を取り上げながら、考えてみたいと思います。
取り上げる作品は、「狂人日記」という小説。中国の作家である魯迅の1918年の作品。文庫本で30ページもない短編ですから、皆さんも読んでみてくださいな。

ただ、当然のこととして、もともとの言語圏は違っているわけですし、中国の風習というものは、ヨーロッパの風習以上に親しみがない。この点は、私だけでなく、皆さんもそんなところがあるのでは?

1918年というと、まさに中国が清の時代の末期で、時代が大きく動こうとしていたころです。革命前の混沌とした時代の人物を、狂人が持つ「曇りのないまなざし」で見つめ、描写する・・・そのような作品は、それこそロシアのチェーホフの「6号病室」という作品がありました。以前にも書きましたが、その「6号病室」という作品を読んだ革命家レーニンが「コレって、まるでオレじゃん?!」と絶句したというエピソードがあります。
「コレって、まるでオレじゃん?!」とか「これって、まるであの人じゃん?!」って・・・購読者の皆様にとっても、なかなか「なじみ」のある感想でしょ?

この「狂人日記」という作品は、同じ魯迅の「阿Q正伝」よりも、中国独特の風習に対する知識がなくても、読める作品だと思います。むしろ、ダメダメに対する知識の方が有効なのでは?

そんな観点から、魯迅の「狂人日記」を考えてみましょう。

ここでちょっとあらすじを・・・
と言っても、ストーリー自体は、短いもの。
ある人が、被害妄想に陥る。「周囲の連中は、オレを食べようとしている!」
そんな妄想の日記なんですね。

さて、ここで、「オレを食べようとしている。」なんて被害妄想が登場しているわけですが、これは芸術的には、そのものずばりの「食人の風習」を扱っているわけではありません。そこまで突飛な風習だと芸術表現のマターではない。芸術的には、この「食人」の問題は、「人の足を引っ張ること」のメタファーになっているわけ。

主人公が「オレを食べようとしている。」との被害妄想は、「周囲の人間がオレの足を引っ張ろうとしている。」「周囲の人間がオレに『たかろう』としている。」という『被害妄想』のことなんですね。
ちなみに、以前に取り上げた日本のアニメの「ひぐらしの鳴く頃に」においても、食人を使った表現が出てきます。それだけ、その舞台となっている場所が、「足を引っ張る社会」であるというわけ。

だから、この「狂人日記」では、足を引っ張ることや、それに対する警戒心に関する表現が多く出てきます。

それこそ、
「おれを怖がっているようであるし、おれを殺めたいようである。」(小説の記述より)と自意識過剰。
どうして、そんなことをするのかと考えると、
「そうだ、わかった。親たちが教えたんだ。」(小説の記述より)

だから、ある種の陰謀史観。
「みんなで連絡しあって、網をはりめぐらせておいて、否が応でもおれに自殺させるように仕向けているのだ。」(小説の記述より)
そして、
「やつらは仲たがいすると、すぐ相手を悪人よばわりするんだから。」(小説の記述より)とスグに他者を犯人認定する。

足を引っ張りたいものだから、やたら人をけなしたがる。
「兄貴が論文の書き方を教えてくれたとき、どんな善人も少しけなしてやると、マルをたくさんくれたっけ。悪人を弁護してやると『奇想天外』とか『独創的』とほめてくれたっけ。」(小説の記述より)

「おれに勇気があればこそ、やつらはいっそうおれを食いたがる。その勇気にあやかりたりのだ。」(小説の記述より)
マトモな人間をけなせば、それだけ自分が立派だと思っている。

かと言って、そんな足を引っ張るだけでは、自分が成果をあげられるわけもなく、そんな程度が低いもの同士で、お互いが牽制し合って、足を引っ張り合うことに安住するわけ。
「自分では人間が食いたいくせに、他人からは食われまいとする。だから疑心暗鬼で、お互いじろじろ相手を盗み見て・・・」(小説の記述より)と警戒感を相互に向け合う。
そうして、そんなダメダメな環境から脱出しようとする人間を妨害する。
「やつらは親子、兄弟、夫婦、友人、師弟、仇敵、それに見も知らぬ他人同士までいっしょになって、お互いはげましあい、牽制しあって、死んでもこの一歩を踏み出そうとはしないのだ。」(小説の記述より)
何も中国だけでなく、日本のボランティアの連中の活動って、まさにそれでしょ?

当事者意識がなく、自分で考えないものだから、権威者ご用達の「正しさ」にこだわらざるを得ない。
だから、やりとりも、
「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」(小説の記述より)となる。
そんなことだから、歴史を語る際にも、
「この歴史には年代がなくて、どのページにも『仁義道徳』とかの文字がくねくねと書いてある。」(小説の記述より)
となってしまう。

権威主義的で封建的なので、男尊女卑。
だから、
「妹は兄貴に食われた。」(小説の記述より)
なんて、表現になるわけ。
この文言は、実際に妹の人肉を食べたという意味ではなく、妹に与えるはずのものまで兄が取ってしまったという意味なんですね。足の引っ張り合いというか、女の子に与えるべきものも、長兄が取ってしまうわけ。

こうしてみると、実にダメダメのツボを押さえているでしょ?
「この歴史には年代がなくて、どのページにも『仁義道徳』とかの文字がくねくねと書いてある。」なんて、まさに以前に取り上げた韓国の歴史教科書が典型的にそのスタイル。そんな教科書で学んでいるから、周囲の足を引っ張って、人をけなし、人に『たかる』ことしかできなくなってしまう。まさに「人を食べて生きている状態」。

そして、「たかる」先も、「おれに勇気があればこそ、やつらはいっそうおれを食いたがる。その勇気にあやかりたりのだ。」となり、「それなりの」ものが「選定」されるわけ。幸か不幸か、中国は日本にあやかろうとしているんでしょうね。

約100年前の中国人を描いた作品ですが、今現在の中国や韓国とまったく同じでしょ?
魯迅は、因習的な儒教道徳の問題を扱ったわけではないんですね。

だって、小説の中にはこんな記述があります。
「4千年来、絶えず人間を食ってきた場所。」
儒教の元締めの孔子は約2千年前の人なんだから、儒教の問題だったら、4千年ではなく2千年という言葉にしますよ。

中国人に、そして韓国人にも脈々と流れるダメダメの問題を扱っているわけ。
彼らは4千年もの間、足の引っ張り合いをやってきている・・・ということなんですね。
まあ、当然のこととして、今もやっているわけですよ。

それはむしろ当事者意識の欠如のほうが大きいわけ。自分でやることがないから周囲の視線が過剰に気になる。だから自意識過剰になってしまう。
自分では何もやることがないので、やることと言ったら他人の「足を引っ張ること」だけ。

こんな状態は、何も中国や韓国の問題だけでなく、日本のダメダメ家庭でもまったく同じでしょ?それこそ「ひぐらしのなく頃に」で描かれている状況とまったく同じ。実際にセリフがよく似ています。あるいは今の日本だと、インターネットの掲示板に入り浸っている人間もこんな感じでしょ?人をけなすことだけが楽しみになっている状態。そして、当然のこととしてヨーロッパでもアメリカでもダメダメというものは共通しているわけ。

「儒教のせいで、こんなふうになってしまった・・・」
なんて言っているうちは、改善なんてできないわけです。
だって、自分がやる必要のあることをちゃんとやる・・・て、本来なら誰だってできることでしょ?それって主義主張とは関係ないでしょ?
「儒教のせいでオレたちがこんな状態に!」・・・と儒教を犯人認定して満足してしまった・・・現在の中国の精神的な停滞って、むしろそんな大元の精神の問題なんですね。
「儒教を止めて、共産主義にすれば、すべて解決!」
そんな考えだから、逆に言うと、何も解決されないわけ。

共産主義にしても、人間の精神は何も変わっていないから、相変わらず「人を食べてばかり」。
中国人でも優秀な芸術家は、ちゃんと見ているわけ。
ただ、現在の中国では「共産主義にすれば、すべて解決!」なんて定説に縛られてしまうので、そんな優秀な芸術家が誕生しなくなってしまう。だからますますダメダメが進行するばかり。

「この歴史には年代がなくて、どのページにも『仁義道徳』とかの文字がくねくねと書いてある。」が、「この歴史には客観的な記述がなくて、どのページにも『革命精神』とかの文字がくねくねと書いてある。」と変化しても、基本的なダメダメの精神は変わらないわけ。

ちなみに、参考としたのは岩波文庫に収録されているものです。
短い作品ですから、皆さんもお読みになってくださいな。

(終了)
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発信後記

昨今、またまた色々と事件が起こってしまって・・・
京都では、自分の父親の首を斧でちょん切ってしまった事件が報道されていましたよね?
なにか、以前取り上げたアニメである「ひぐらしのなく頃に」と関係つけている人もいるようですが・・・

たしか、その「ひぐらしのなく頃に」では、斧を持ち歩いている女の子がいて、父親の女性関係でトラブっている・・・そんなストーリーもありました。
何も作品からの直接的な影響云々ではなく、ダメダメというものは、その基本が同じだと、その「現れ方」も、似てくるわけです。

今回取り上げた「狂人日記」での世界も、現在の中国も、基本的な精神が同じなので、結局は、「現れ方」も似ている。
多くの人は、センセーショナルな表層に目が行ってしまって、本質的な物事が見えないもの。魯迅のような優秀な芸術家は、表層などには目もくれず、本質をつかんでいる。
逆に言うと、そんな優秀な芸術家だからこそ、迫害されちゃうわけですが・・・
 
R.10/11/8