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カテゴリー 映像作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年1月18日  (10年7月10日 記述を追加)
取り上げた作品 羊たちの沈黙(1991年アメリカ)
制作 A STRONG HEART / DEMME PRODUCTION
監督 ジョナサン・デミ
このメールマガジンでは、映画とか小説などの、芸術作品と言えるものを取り上げ、そこで表現されているものから、ダメダメ家庭の問題を考えることもあります。
その場合には、直接的にダメダメ家庭の問題が扱われているケースもありますし、ダメダメ家庭出身者の行動が描かれている作品もある。
あるいは、「ダメダメな状況から、どのように脱却していくのか?」そんな問題意識が描かれている作品を取り上げることもあります。

当人自身がダメダメ家庭で育ってしまったことは、当人の非とは言えない。だからダメダメ家庭の問題を自覚して、周囲と上手にコミュニケートして、上手にサポートを受ける・・・そのようなことが必要でしょ?
そんなテーマの作品としては、以前にフランスの女流の映画監督アニュエス・ヴァルダさんの「歌う女、歌わない女」という映画を取り上げました。この「歌う女、歌わない女」という映画においては、登場している人物は、全員が、一般レヴェルの人間です。ダメダメ家庭出身者かもしれないけど、まあ、どこにでもいるような人物たち。

しかし、トラブルが起こったり、ダメダメな状況からの改善に当たっては、規格外というか、常識はずれの洞察力を持つ人物の知恵を借りる・・・そんな方法もありますよね?
たとえば、日本のアニメである「蟲師」におけるギンコさんは、一般人には見えない存在である「蟲(むし)」が見える。だからこそ、蟲が引き起こす問題の解決に有効な方法を提示できるわけ。
あるいは、有名な映画「マイ・フェア・レイディ」におけるヒギンズ教授も、一般人が聞き取れないレヴェルの発音の違いが聞き取れ、分析できる。だから、その人の過去なり現在が見通せるわけ。まあ、ヒギンズ教授も常識はずれの洞察力を持っていると言えますよね?ギンコさんも、ヒギンズ教授も、一般人とはチョット言えない。

この手の常識はずれの洞察力を持っている人から知恵を借りれば、直面している事態の把握なり、改善策を考えるにあたっても有効であることは誰だってわかること。
かと言って、その手の常識はずれの洞察力を持つ人間とやり取りするには、ある種の注意点が必要になってくるわけ。

常識はずれの洞察力なので、その現状認識なり原因説明も、当然のこととして、聞く側が事前に予想できるものではない。思いもかけない視点から、そして意外にもシンプルな論理で説明してくるもの。いわば、数学の問題の解決において、すばらしい補助線を引くことによって、その全体像が良く見えてくる・・・そんな事態に近い。そんな補助線は、努力だけで見出されるものではありませんよ。そのような説明を聞いたり、読んだりして、納得し、参考にするのはいいとして、ここで問題が発生する。

他人の問題なり、自分とは直接的には関係ないトラブルについての説明の場合、その説明が、自分とはまったく無縁なものだったら、冷静に聞ける。しかし、自分自身の発想や行動と重なっていたりすると、激しい感情的な反応が起こることになる。
「えっ?そんな考え方が問題になるの?そんな発想って、私もしたりするわ!」「そういえば、そんな行動って、私もやっているじゃないの?」そうなると、説明を論理的に聞くということはできず、感情的に拒絶するようになるわけ。

たとえ、自分とは直接関係ない事案についての説明であっても、自分と重なる面がその説明の中に出てくると、感情的に拒絶してしまう・・・そのようなことは、このメールマガジンの購読者さんだったら、実感として、理解できるでしょ?

激しい感情的な反応が起こるのは、いたし方がない面もあるわけですが、自分自身を制御して、その説明を最後まで聞き通し、考える必要があるわけ。十分に考えた上で、その見解を受け入れないのはいいでしょう。しかし、往々にして人は入り口の段階で拒絶してしまう。それでは、説明を受けても、無意味になってしまうでしょ?

実際問題として、この私に対して相談を寄せられる方もいらっしゃって、それは別に構わないわけですが、やたら「親による被害者」という方向に誘導しようとする人もいるんですね。
かと言って、質問があったその人の親の心理を解説すると、相談を持ちかけてきた人自身が逆上してしまう。
だって、親の心理は、結局は、その子供の心理とかぶっているもの。
「そんな考え方を、ワタシもやっているよ!」
「ワタシもあの親と同じなのか?!」
「大嫌いなあの人と、結局は同じなのか?!」
そんな事態に直面すると、逆上して思考停止になってしまう。

あと、当然のことですが、常識はずれの洞察力を持っている人に対しては、「ごまかし」は通用しません。そんなこと当たり前のことでしょ?
「一を聞けば、十がわかる。」相手に、ウソは通じませんよ。
「この点は、あの人には、まだ言っていないことだから、こんな感じでごまかしてもわからないだろう・・・」なんてその人が思っても、洞察力のある相手は、当人が言ったこと以上に理解してしまっているんだから、バレちゃうものなんですね。

相手に対してどうしても言いたくないことなら、そのようにはっきり言えばいい話。代替する別の情報を出せばいいだけ。しかし、「格好つけて」ごまかしたりしても、事態は解決しないでしょ?「そんなことなら、何しに相談しに来たの?」って話になるでしょ?

そんなバレバレのごまかしに対し、洞察力のある人が「このワタシには、そんなごまかしは通用しませんよ。」と、最初は婉曲的なりジェントルに注意するのにとどまっていても、そのごまかしが続くようだったら、どうなっちゃうの?

噛み付いちゃうんですね。
噛み付くと言っても、ドラキュラのように首筋に噛み付くというわけではありませんよ。言葉でグサっとやるわけ。
「オイ!このワタシを誰だと思っているの?そこいらのボンクラと一緒にするなよ!」
「アナタが、以前は、こう言ったけど、実は、それはウソで、実際は、こうなんでしょ?」
「アナタは、この件について、言おうとしないけど、実際は、こうなんでしょ?」
「過去には、こんなやり取りもあったでしょ?」
「そんな、ごまかしばかりやっているから、こんなトラブルになるんじゃないの?」

相談を持ちかけて来た側が、言いたくないことや隠していることを、相談した相手の側から、反論の余地のないほどに的確に説明されてしまう。まさに噛みちぎられて、無残な姿を残すことに。
「一を聞けば、十わかる。」人に対して、ごまかしは通用しないって、本来なら誰だってわかることなんですが、ダメダメな人は、そんな人に対しても、ごまかそうとして、結局は、噛み付かれてしまうわけ。

常識はずれの洞察力を持つ人の知恵を借りるためには、誠実に接することが重要なんですね。

つまり、常識はずれの洞察力を持つ人の説明を聞くためには、自分自身を見つめる強い心が必要になってくるし、誠実に事に当たる態度が、一般人とのやり取り以上に必要になるわけ。理解力については、特に問題にはなりません。その点については本人にはどうしようもないことですし、それに過大な期待はもともと持たれていませんよ。

長い前置きでしたが、今回取り上げる映画は、ジョディ・フォスターが主演した「羊たちの沈黙」という映画。91年のオスカーを受賞した有名な作品です。有名な作品ですので、このメールマガジンの購読者さんの中にも、実際にごらんになった方もいらっしゃるのでは?

この作品を実際にごらんになられた方が、上に書いた「常識はずれの洞察力を持つ人間の知恵を借りる際の注意点」を読み直していただければ、この「羊たちの沈黙」という映画が、実にツボを押さえていることがわかるでしょ?

ちなみに、簡単なあらすじは以下のようなもの。
女性を殺して皮膚をはぎとるという連続殺人事件が起こる。その捜査をジョディ・フォスター演じるFBIの新人の女性捜査官クラリスが担当する。クラリスは、犯人についての知見を得るために、精神病院に収監されているレクター博士の協力を得ようとする。レクター博士は、天才ではあるけど、生きた人間に噛み付き、人肉を食べるという行動をするので、精神病院に収監されている。捜査する事件と同じような猟奇的な殺人をする人物から、参考になる情報を得ようとするクラリス。レクター博士は、情報の提供の条件として、クラリスがクラリス自身の過去をレクターに話すことを要求する・・・というもの。

さて、映画における設定が、現実における「常識はずれの洞察力を持つ人間の知恵を借りる際の注意点」と、どのように関連つけられているのか、ちょっと見てみましょう。

1. ウソは通じない・・・常識はずれの洞察力を持つレクター博士は、自分を収監している病院の院長が嫌い。だって院長はウソばかりつくから。院長はそのウソがバレていないと思っているようですが、洞察力のあるレクターにはバレバレなんですね。

2. 噛み付く・・・レクター博士は、生きた人間に噛み付くという設定。映画的には、生身の人間に本当に噛み付くわけですが、洞察力という観点では、ウソやごまかしに対して噛み付くということになるわけです。

3. クラリスに過去を語らせる・・・レクター博士が新人のクラリス捜査官に対して、クラリス自身の過去を語らせるのは、自分の過去を客観的に見ることができているのか?自分自身と向き合える精神的な強さがあるのか?その点を見ているわけ。自分の過去を見つめる覚悟がない人間は、自分と重なる発想に接すると、感情的な拒否反応になってしまって、説明を理解するどころではないでしょ?まずは、自分自身の「見たくない」面を見つめられるか?その覚悟を見ているわけです。大学出たての小娘のプライヴァシーなどに関心があるわけではないんですよ。というか、「言わなくてもわかる」レクター博士なんだから、わざわざクラリスの口から聞く必要なんてありませんよ。クラリス自身の覚悟の問題なんですね。

特定の事件なり事案に対して、興味を持つということは、その興味に至る土壌があるということ。それは心理的な共通性であることが多いわけ。
何も猟奇殺人事件だけでなく、それこそダメダメ家庭における相談でも、そんな状況になることが多い。
たとえば、「自分の親はこんなにダメダメだった。」と、この私に散々語る人のケースですが、そんな感じで、被害ばかりを語ったり、「アイツのせいで、ワタシはうまく行かない・・・」と恨みの感情を主張するだけの相談の姿からは、その親との心理的な共通性が見えてくるもの。

そのようなことを、この私から指摘されそうな雰囲気になったら、逆上したり、そそくさとトンズラしてしまう。
結局は、事態は何も解決しないまま。むしろ、スグに逃げ出す習慣が加速するだけ。
まあ、トンズラするくらいならともかく、「どうして、そんなことを言うのよ!ワタシは自分の親を反面教師にしているわ!」と逆上することも多い。

そうなってくると、ヘタをすれば、猟奇殺人事件になってしまいますよ。
本当にシャレになっていない。
自分自身を見つめることができるがゆえに、そして、厳しい指摘にも耐える覚悟があるがゆえに、事態を解決できるわけ。精神的な強さや、覚悟がない人間などは相手にすると、相手をする側にしても、危険なだけなんですね。

心理的な共通性があることは、理解しやすさにつながる場合もありますが、反発しやすさになることも多いわけ。
実際に、この「女性の皮膚を剥ぐ」犯人と、捜査官のクラリスは似たところが多い。
双方とも、過去における家族関係の問題が、現在の立場なり状況につながっている。

捜査官のクラリスは、父娘家庭出身なので、ちょっとファザコン気味。そして母性というものと接するのにぎこちない。父の死や、羊を助けられなかったトラウマから逃げられない。
だから、「自分は変わりたい!」と思っている。

そして、犯人も過去のトラウマにとらわれていて「自分は変わりたい。」と思っている。そしてマザコン気味。だから女性の皮膚を集めて、それをパッチワークして服を作り、母親を再現しようとしているわけ。そしてその服をまとうことにより、母親の胎内に回帰して、「生まれ変わる(re・born)」ことをもくろんでいる。

そういう意味では、心理的には同類同士なんですね。
だからこそ、犯人の心理をクラリスに説明する際には、クラリス自身の心理とかぶることになるわけ。
クラリスがそれに耐えることができなければ、説明の意味がないわけです。
自分が見つめた過去の痛みの分だけ、克服した痛みの分だけ、知恵や情報も得ることができて、前に進むことができるわけ。逆に言うと、犯人は、その自分自身の痛みから逃避して、他者を痛めつけているから、犯罪者になってしまう。

最初の皮はぎ事件の犠牲者の女性も、父と娘の父子家庭。どうやら両親は離婚したらしい。父母娘の3人が写っている写真がありませんからね。そのような「似たもの同士」だからこそ、犯人に「入れ込まれた」のでは?そのような「入れ込む」「入れ込まれる」危険性はクラリスに対してもあったわけ。

生まれ変わるには、女性の皮膚を集めて、母親を再現して胎内帰省ごっこをしても、ダメですよ。
むしろ自分自身を見つめることが先でしょ?
クラリスはそれができたから、前に進むことができた。
ということで、最後にはレクター博士から、お褒めの言葉をもらっている。まあ、天才兼狂人のレクターさんから弟子認定を受けたとでも言いましょうか?

檻の中にて、見てもいないはずの現場の状況を正確に説明するレクター博士なんですが、そのような正確な説明を受けて、クラリスは「コイツ・・・檻の中にいるのに・・・どうして、そこまでわかるの?」という表情を浮かべている。そのような反応は、まあ、一般人としては当然でしょう。すべての人が、レクター博士のような常識はずれの洞察力を持っているわけではないし、努力しても持てるわけでもない。

しかし、意思なり覚悟くらいは持てるでしょ?
クラリスくらいの資質は努力すれば何とかなるのでは?

クラリスは、「絶対にこの事件を解決するんだ!」という強い意志がある。
そして、自分自身を客観的に見つめることもできる。
そして相手に対しても、ごまかしをせずに誠実である。

これって、何も猟奇殺人事件の解決に必要な資質というわけではないでしょ?我々の目の前にあるダメダメ家庭の問題を解決するにも必要な資質なんですね。

この映画ですが、精神病院に入院させられているレクター博士の考え方は、意外にも理路整然としていて、一番、現実に根ざしている。レクター博士の考えって、上記のように考えると、実に筋道が通ったものでしょ?まあ、私にとっては親しみやすいキャラ。

この「羊たちの沈黙」という映画はサイコホラーなどと言われたりするのかもしれませんが、見る人が見ると、爆笑コメディにも見えるわけ。コメディというものは、現実をいつもと違った視点で見ることによって笑いを取るもの。「そう言えば、前にもこんなことあったなぁ・・・」と思ったりすると笑えるでしょ?常識はずれの洞察力を持つ人が、ゴロゴロいるわけでもありませんが、その手の人とのやり取りは、まさに現実的に、この映画で描かれているとおりなんですよ。

たとえば、レクター博士に対し「犯人の名前を教えてくれ!」なんて聞いたりしていますが、いくらレクターさんでも、それは無理ですよ。レクターさんが言えるのは犯人の心象風景。
「名前を教えてくれ。」と言っている程度の認識だからこそ、解決できないわけ。
犯人の心理を読み解く・・・そんな発想にいたれば、意外にもカンタンに理解できるものなんですよ。これは残虐な事件の心理だけではなく、ちょっとした日常のダメダメなトラブルでも同じ。

「この人の発想の根本は何なのか?」
「何を切望しているのか?」
多くの人は、そんな根本的な面に発想が行かず、即効的な回答を求めてしまう。

一般人というものは、問題の本質を見ようとせずに、すぐに解決策を求めてしまう。だから問題が解決しない。
しかし、芸術家などの洞察力がある人は、解決されていない問題点を明らかにしようとする。だから、解決への知見を提供できるわけ。

他者の問題を解決できる人は、自分を見つめることができる人だけ。
そして、人の知恵を借りることができる人は、自分で考えることができる人だけなんですね。

(終了)
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発信後記

この文章は、もっと後に配信する予定でした。関連する時事ネタが起こってしまったために、今回の配信へと前倒しいたしました。前回も映画作品を取り上げましたので、2回続けて映画作品にするのは本来は避けたかったのですが、ドンピシャの時事ネタですからね。

さて、本文中にも書きましたが、この「羊たちの沈黙」における犯人は、女性の皮をはいで、それをパッチワークにして服を作り、それをまとうことによって、胎内帰省願望を象徴化しているわけです。あと「蛹から、殻を破って飛び立つ」存在である蝶を象徴的に用いることで、自身の「生まれ変わり」の願望を表現していたわけ。
まあ、芸術作品なんだから、ちょっとはヒネリがある。

先日起こった青森の事件では、犯人の青年は、母親の腹を切って、そこに人形を入れたとか・・・
その報道を読んだ時には、不謹慎ですが、笑ってしまいました。
母親のお腹の中に人形を入れるという行為が、ヒネリも何もないほど直球に、胎内帰省願望を意味していることは、誰だってわかること。

この手の胎内帰省願望は、母親に対する憎悪というよりも、自分自身に対する不満や憎悪があって、だからこそ「自分は変わりたい」「生まれ変わりたい」という切望につながるわけ。

本来なら、「生まれ変わる」ためには、自分自身を見つめること・・・別の言い方をすると、「自分自身に入っていく」ことが必要になるでしょ?ところがダメダメな人は、「自分は変わりたい!」と願望を口にするばかりで、自分自身からは目を逸らす。自分から目を逸らす人間は、他者を犯人認定して、自分を納得させようとするもの。

犯人の行動も、ちょっと視点を変えると、簡単に理解できるでしょ?青森の警察は犯人の精神鑑定をするとかしないとか・・・青森の警察の連中は見事なまでにボンクラだねぇ・・・
精神鑑定が必要なのはどっちなんだか?

ということで、皆さんもお時間がありましたら、この「羊たちの沈黙」をご覧になってみては?
「見ないと噛み付くのか?」って?
そんなことはしませんよ。私はレクターさんのような顎の力はないもん。
R.10/10/1