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カテゴリー 相談という場におけるダメダメ家庭
配信日 08年1月29日
タイトル 新キャラ投入
ダメダメ家庭の人間は、信頼というものが理解できない。好意と信頼の区別がつかないわけ。
自分自身が、人から信頼されるような人間になろうと思ったりはしない。
それに、「信頼」というものを基準にして、他者を判断することはしない。
信頼とはある種の一貫性がその前提となるわけですが、その信頼というものが理解できず、好意という感情次元で留まっているので、一貫性とは無縁になる。
常に断片的な対応となるわけです。

一貫性がなく、常に断片的となっているんだから、そんな人間は、当然のこととしてトラブルが多発することになる。だから「誰かに相談しようかな?」なんて考えることに。
しかし、そんな信頼とは無縁のダメダメ人間は、誰かに相談する際には、「情報の小出し」をしたりするものです。
自分に都合の悪い情報は隠して、いわば自分が相手から嫌われないようにして、都合のいい情報だけを相手に提示して、事態を解決しようとするわけ。
しかし、事態がよくないから、相談しているんでしょ?
そんなに相談相手が信頼できないのなら、信頼できる別の人に相談すればいい話じゃないの?

・・・そうなんですが、信頼と好意の区別がつかないんだから、そんな発想もできないわけ。それにダメダメ家庭では親は子供のサポートはしない。そんな家庭の子供は「親は当てにできない。」「自分の身は自分で守らないと!」と切羽詰った心情となっている。だから自分の身を守るために不都合な情報はできる限り隠そうとするわけ。
だから、やたら小出しにすることになる。
特に、好意に属する情報は、出来る限り隠そうとする。
・・・そして、だからこそ、信頼を失うことになる。

それこそ、そんな人とのやり取りは、このようなものになってしまう。

「今、こんな感じで困っています・・・」
『じゃあ、今後は、この点から取り組んだら?ここのサポートを受けるという方法もありますよ。』
「実は、ワタシ・・・こんな事情もあって・・・それはちょっと・・・」

まあ、そんなやり取りをすると、『そんな事情があるのなら、最初から言っておけよ!』と思うのは当然ですよね?

このように、後になって「実はこんな事情もあって・・・」と情報の小出しをするケースとは別のパターンがあったりするものです。

連続もののドラマなどでは、視聴率を上げるために、途中から新しい登場人物を登場させて、視聴者の関心を高める・・・なんて方法がとられるようです。
ドラマも中間部になって、進行が中だるみしてきた・・・ここで一発、魅力的な新キャラを投入だ!

まあ、ドラマとかアニメではそんなものなんでしょう。何と言っても視聴率を上げないとマズイものでしょ?
ドラマやアニメはともかく、ダメダメの領域においては、相談という場においても、途中でそんな新キャラが投入されたりするものなんですね。
「実は、こんな事情があって・・・」と同じように、後になって「実はこんな関係者がいて・・・」となるわけ。

「実は、この子の父親は別にいて・・・」
「実は、もう一人兄弟がいて・・・」
「実は、主人には、別の・・・」

イヤぁ!見事な「引き」ですよ。
連続ドラマにおける次回予告のお手本のような展開と言える。あるいは、テレビドラマだと、この状態でCMに入るのかな?
ワクワク,ドキドキ!
次はどんな展開になるんだろう!楽しみだよ!

しかし、ドラマはともかく、相談という場においては、不適でしょ?
相談というものは、そのストーリーを楽しむものではなくて、事態を解決するためのものでしょ?重要な関係者がいるのなら、新キャラとして途中から登場させるのではなく、最初からレギュラーで使ってよ!

それに・・・これらの新キャラが、一癖もふた癖もある濃いキャラばかり。

「その人は、今は行方不明で・・・」
「その人は、2回離婚していて・・・」
「その人の子供は、実の子供では・・・」

そうして、それぞれの登場人物が、複雑に絡み合っている。
聞いていると、「えーとぉ・・・この人は、あの人と、そして、その人と結婚したわけね?この子は、そっちの人との子供なの?そして・・・」と頭の中で系図を作り上げることになる。
しかし、そんな作業なんて慣れていないしなぁ・・・
ああ!こんなことなら、平安時代の皇族の系図で、もっと練習しておくんだったよ!
しかし、あの平安時代の皇族の系図だって、言葉や字だけで説明されても、サッパリわからないでしょ?

何もそのような状況をバカにしているわけではありませんよ。ただ、望ましいことではないでしょ?本人にしてみれば、周囲のキャラはしょうがないけど、それを自覚しないままだったら、そんな濃いキャラの一員になるだけなんですね。

相談の場で次から次へと新キャラが投入されるということは、情報の小出しであって、そのようなことをする時点で、相手を信頼し、自分が信頼に値する人間になる・・・そのような発想がないことでしょ?それに「自分の問題を、なんとか解決したい!」という当事者意識がないことですよね?

信頼というのは、一貫性が背景となっていると前に書きましたが、相談の場においても、一貫した態度が要求されるわけです。その場その場で断片的に対応しているだけということは、そもそも信頼とは無縁であるということ。
それは好意に対応しているわけですが、人間というものは、信頼していない相手に対して好意を抱くことはありませんよ。
ということで、好意を求めているが故に、相手から嫌われることになる。

問題を解決できる人は、相談の場において、最初から、しっかりとした情報を提示できているものです。つまり、一貫した態度を持っているわけ。逆に言うと、そのような意識があるから、的確な現状認識もできるわけでしょ?情報の小出しで満足できているうちは、「じゃあ、今現在はどんな状況なのだろか?」「どんな点が問題なんだろうか?」そんな意識を持って事態を見ていないことですよね?

対応の一貫性がなければ、その相談で事態が改善しないというだけでなく、トラブルが繰り返すことになるのは誰でも分かることでしょ?
それに、相談の場でそんなことをされると、ワクワクドキドキと興味を持つどころか、疲れ果ててもう見る気も起こらなくなるものなんですヨ。

(終了)
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発信後記

東京の杉並区で、公立の学校で塾をするとかのニュースがありました。
そのような活動に対し反対意見があるとか・・・反対意見があるもいいのですが、誰がどんな反対意見を言っているのか不明確。反対すること以上に、そのような腰の入っていない物言いが、一番タチが悪い。

さて、日本では昔から塾がありました。それこそ読み書きとか古典教養のような標準的なものから、「えっ?」と思うような分野ものまで、塾がありました。
以前に「葉隠」(例の「武士道とは死ぬことと見つけたり。」が書いてある本です。)を読んでいたら、意外な塾が登場してくる。
なんと、衆道の塾があったそう。衆道って、男色というか、今で言うとボーイズラブです。

以前にこのメールマガジンで、「命の大切さを教える」というお題の文章において、「命の大切さって、そもそも教えられるの?どんなふうに教えるの?」と疑問を提示したことがありますが、衆道の塾で、何をどんな感じで教えるのか?全然わかりませんよ。想像もできない。それに教えられても・・・できるものなの?

まあ、そんな江戸時代のトンデモ塾に比べれば、公立の学校で学業の塾をオプショナルでつけるくらいは、なんでもないんじゃないの?何もやらなかったら、最後にソンをするのは子供たちなんですからね。色々とオプションをつけること自体はいいのでは?江戸時代より塾をめぐる環境が悪くなるなんて、ギャグですよ。
R.10/12/9