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カテゴリー ダメダメ家庭出身者のキャラクター
配信日 08年2月1日 (10年11月18日 記述を追加)
タイトル 極端な潔癖症
備考 潔癖症は、「汚れている」ものを、絶対に受け入れることが「できない」というスタイルで二重否定的な状況といえます。
世の中には、病的なまでにキレイ好きの方もいらっしゃいますよね?
それこそ人の触ったものを、触ることができない・・・とか。
エスカレーターや電車の手すりがダメとか・・・
こうなると、トイレも和式でないとダメとなる。

まあ、他人が触ったものは、確かに何がついているのかわからない。いったん気にし出したら、神経質になってしまう・・・そんなことは現実にあったりするもの。特に昨今では、食品だって色々と厄介なものが入っているくらい。注意するに越したことはないのは確か。

食品の問題なり、病的なキレイ好きはともかく、ダメダメ家庭の人間が陥ったりするのは、男女関係における極端な潔癖症です。
そもそも、ダメダメ家庭の人間は、カテゴリー分類にこだわることが多い。会話の能力がないので、実際のやり取りの経験も少なく、妄想の方が優先されてしまう。個々の存在というよりも、民族とか宗教とかのカテゴリー分類で妄想を発展させてしまうわけ。カテゴリー分類というと、男女の分類なんて、まさにその代表。まあ、そのような男女の違いにこだわるのはいいとして、もともと被害者意識が強く、対抗心が強いものだから、それが過激な地点にまで行ってしまうことになる。

それこそ、芸術の世界でも、女性のヌードもありますし、男性のヌードもありますよね?
あのようなものを敵視したりするんですね。
キライならキライでいいわけです。あんな絵や彫刻は街中に陳列されているわけではないでしょ?基本的には美術館の中にありますよね?そんなところに行かなきゃいいじゃないの?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、自分から逃避している。自分が判断すること自体がイヤなんですね。だから「自分はその手のものがキライだから、そのような場所に行かない。」あるいは、「自分の子供が15歳になるまでは、あのようなものが置いてある場所には連れて行かない。」と言った自分の判断に繋がるような思考ができない。
そもそも「あること」自体がいけないんだ!
そのように考えることになる。
自分が判断しての回避ではなく、判断しなくても済む根絶を志向するわけ。

それこそ、芸術表現の分野だけでなく、このメールマガジンに対してでもありました。メールマガジンだって読んで不快になったら購読しなければいい話ですが、自分で判断したくないので「どうして発行するんだ?!」なんてクレームになってしまうわけ。

自分から逃避しているがゆえに、行動は過激になってしまうわけです。自分から逃避している分だけ、「落としどころ」も遠くならざるを得ない。

逆に言うと、たとえばヌードの絵程度のものにも過剰反応するような人間は、自分から逃避して、対抗心が強く、スグに逆上する可能性が高いわけです。そんな人は、強いコンプレックスを持っていても、そのこと自体を認めようとはしない。だから、別の面でも過激なことをするものなんですね。

その手の事例の、歴史的な代表例として、20世紀の最大の有名人であるアドルフ・ヒトラーがいます。

彼は、酒もタバコもやらない「道徳的な人」であるばかりではなく、死ぬ直前まで、独身であって、その意味でも潔癖。彼自身が潔癖なのは勝手ですが、他人による芸術表現にも介入しました。それこそ、絵画とか、オペラなどにも口を挟んだわけ。ヌードの絵にイチャモンをつけたり、ヒンデミットという作曲家のオペラが、「ワイセツだ!」ということで上演禁止処分にして、モメたこともあります。

本来なら、オペラでヌードが登場しても、一般人には関係ないでしょ?いくらドイツの人でも、多くの人がオペラに頻繁に行くわけでもありませんよ。それに劇場なんて大きいんだから、舞台で女性がヌードになっていても、よく見えませんって・・・
それにオペラの歌手がヌードになったとしても・・・・ヴィジュアル的に・・・でしょ?

政治的に不穏当な表現を取り締まる、ということなら、まだわかりますよ。しかし、たかがヌードの一つや二つ、どうでもいいじゃないの?

キライならキライでいいわけですし、女性に対する恐怖感やコンプレックスがあるのなら、それはそれでしょうがない。要はそれを自覚して、必要に応じ改善していけばいいわけでしょ?
しかし、自分から逃避しているので、そんな判断はしない。

と言うことで「ケシカラン!」とか「ワイセツだ!」と、大騒ぎすることになる。まあ、今だったら「セクハラだ!」という主張はおなじみでしょ?そんな大騒ぎが、自分の被害者意識には心地いい。
オマケに、「ワイセツだ!」という主張に対しては、表立って反論できないもの。だからそんなクレームが実際に通ってしまって、「自分が被害者である」ことが認定される。その成功体験に味をしめてしまって、同じようなクレームを繰り返す。

そうやって、騒いでいると、同類が寄ってきて、ますます大騒ぎとなる。
そんな騒ぎの中で、自分たちの過剰なまでの潔癖さこそが、一般常識と遊離しているという感覚がなくなってしまう。だから、更に大騒ぎ。
そのような騒ぎの根底にあるのは判断の場に対する恐怖心なので、いったん燃え上がったら、着地点がない。恐怖が恐怖を呼んで暴走してしまう。
そんな流れは、まさにナチの流れそのものでしょ?

男性でも女性でも、極端な潔癖症って、要は自己逃避なんですね。
自分から逃避している分だけ、他者の問題に口を突っ込む。そして自分が考えなくても、判断しなくても済むようにしたいから、根絶なんてことを言い出す。自分が判断していないものだから、結果的にうまくいかなくても、「ワタシは悪くないっ!」「だって、ワタシがそうしたわけじゃないんだから・・・」と、いつもの自己弁護。

オペラのエロティックな表現への干渉と、ユダヤ人の根絶って、発想の根底は共通しているわけ。
心が弱い人間であるがゆえに、「イヤなら避ける」なんて、当たり前の判断ができないわけ。そんな人間と一緒に「道徳的な活動」なんてやったりすると、後世の歴史ではどう評価されちゃうのか?

倫理的なり道徳的な活動であるがゆえに、『人道』からは遠い・・・政治だけではなく宗教の周辺でも、そんな事例はいっぱいあるでしょ?
まあ、その手の「道徳的な活動」に熱心な人って、どのみち、一緒にいて楽しい人ではありませんよね?まあ、楽しくないだけなら、いいのですが、現実的には危険な存在なんですね。

(終了)
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発信後記

本文中でヒトラーに言及しておりますが、ヒトラーというかナチスの主張のスタイルは、それほど突飛なものではありません。

「アナタたちは悪くない!」
「アナタたちは、○○による被害者なんだ!」
「悪いのは全部○○のせいだ!」
「その○○をやっつけろ!」

彼らがドイツ人に語りかけたことは、そんな調子。
その○○にユダヤ人とかヴェルサイユ条約が入ったりするだけ。
その○○に該当するものを、別のものにすれば、今だって、実にポピュラーな物言いでしょ?いわゆる市民団体とかボランティアの連中の物言いなんて、まさにそれでしょ?

本来なら、マトモな人は、そんな物言いに「胡散臭さ」を感じるもの。
しかし、精神的に疲れ果てた状態だったり、もともと人を見る目がなかったり、自分で考えることから逃避しているような人は、そんな物言いにすがってしまう。そして「ああ!ワタシってなんてかわいそうなの?!」と麻薬のようなひと時。

逆に言うと、ボランティアの連中も、そんな心の弱い人間をターゲットに擦り寄っていくことになる。「ワタシたちは困っている人を助けたい!」って、ご高説は立派ですが、結局はその人の尊厳を傷つけてしまうだけ。尊厳なんて、個人が一人で獲得するしかないでしょ?その自立した個人が必要に応じて協力し合えばいいだけ。
しかし、ダメダメな人間は、自分自身から逃避するばかり。だからカテゴリー分類に安住して、対抗心を膨らませるばかり。
まあ、ナチスは極端な事例ですが、「あの手」の行動をしている人は、今でもいっぱいいるわけです。

「まあ、アナタって、なんてお気の毒!」『まあ!アナタはワタシのことをわかってくれるのね?!』そんなやり取りは、まさに麻薬のようなもの。結局は、その人の人間性が壊れていくだけ。この私にメールされる方の中で、そんな感じで、もうラリっているような状態の人もいたりします。
そんな人は、「もっともっと強い」同情の言葉を求めていくわけ。シャレでもなく本当に麻薬と同じなんですね。
R.10/11/18