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カテゴリー レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年2月8日
タイトル 中国の歴史教科書(時代による、記述の変化について)
さて、前回配信の文章において、中国の高校における歴史教科書を取り上げました。
今回の文章は、その続きです。
中国だって、漢や唐などの立派な時代があるのに、教科書で記述されているのは、ダメダメな時代の比重が高くなっている。

じゃあ、どんな感じでダメダメになっていったのか?
記述のスタイルなり、記述そのものから、ダメダメの進行がどんなところに現れているのか?見てみることにいたしましょう。

『状態の変化』
1. 芸術家の不在・・・漢でも唐でも、立派な時代には、世界的な文化人や芸術家が輩出している。
時代が進んでくると、芸術家が輩出しなくなってしまう。実際に元や明や清で活躍した芸術家って思い浮かばないでしょ?あるいは、その時代の芸術作品って思い浮かびますか?まあ、以前に取り上げた「狂人日記」の魯迅くらいですよね?それ以外は、時の権力者に媚びる「タイコ持ちの御用ゲイジュツカ」くらいしかいない。この点は、今の中華人民共和国でも全く同じでしょ?

2. 閉鎖的・・・それこそ唐の時代では周辺国から留学生も受け入れていました。外国にも開放的だったわけ。まあ、それだけ自国に自信があるわけ。しかし、それこそ唐の時代以降は、留学生ってあまりなくなるでしょ?遣明使とか遣清使なんてありませんよね?日本からだけではなく、その他の国からの留学生も来なくなる。閉鎖的であるし、実質的には、学ぶものがない状態。閉鎖的だから、唐の時代には起こらないような外国人排斥運動が起こったりする。この点も今の中華人民共和国も全く同じ。

『記述の変化』
1. 「大」の字が多くなる・・・以前にも書きましたが、「小さい」人間ほど「大」の字を使いたがるもの。この中国の歴史教科書だと、時代が進むにつれて、大の字が多くなってくる。それだけ、人物が小さくなってきているわけ。

2. 「反」の字が多くなる・・・対抗心が強い人間は、「何かに対抗する!」という形でしか自分自身を認識できない。だから、反対の「反」という字をよく使うことになる。「反○○」とかのスローガンが飛び交うことになるわけ。それだけ、対抗心だけが支えとなっているような、心の貧しさが見えてくるわけ。それこそ「唐」の時代だったら、何かに対抗するなんて記述は出てこない。だって世界で一番の国家なんだから、対抗するも何も相手がいないじゃないの?それが帝王というものでしょ?

3. 感情表現が多くなる・・・本来なら、歴史書の記述は、事実を正確に書く・・・それが基本でしょ?激しくとか、情熱的にとか、愛国心を持ってとか・・・それは、ドラマには有効でしょうが、歴史の教科書には、不適ですよ。しかし、この中国の教科書では、時代が経つにつれて、そんな感情表現が多くなってくるわけ。感情表現が多いのはいいとして、逆に言うと、具体的な成果がない。だから読んでいてサッパリわからない。

4. 二項対立・・・対抗心が強く、自分自身で考えることをしない人間は、あらゆることを二項対立的に見るようになる。「敵vs味方」、「正義vs悪」・・・物事を見るにあたってそんな単純な発想しかできなくなってしまう。しかし、だからこそ、芸術家も輩出しないし、成果もあげられないわけ。この教科書では時代が経つにしたがって、そんな二項対立的な見方が中心になってきます。

5. 唯我独尊・・・二項対立なのはともかく、正しいのは常に中国であり、中国共産党・・・これがこの教科書のパターン。まあ、この点は中国は独裁国家なんだから、いたし方がない面もありますが、逆に言うと、生徒が何も考えなくなるわけ。しかし、唐の時代では、「唐」の側が常に正義などと言った表現になっていません。逆に言うと、だからこそ発展したんでしょ?

6. 下を見たがる・・・人間のレヴェルが落ちてくると、逆に、自分より下の存在を必死で探すようになるわけ。だから、時代が経るにつれて、ダメダメな人物についての記述が多くなる。しかし、そんな下ばかり見ているダメダメな人間が成果をあげるわけもなく・・・結局は、自分より下を見て安心するだけ。だから、ますます成果が上がらなくなるわけ。

7. 下を教えたがる・・・前回にも書きましたが、中国では「漢」とか「唐」などの立派な時代もあるのに、どうしてダメダメな時代に比重を置くの?しかし、ダメダメというものは、「以前はこんなにヒドかったんだよ!」「別の政権だと、こんなにダメダメ!」なんてことしか言うことがない。このような点は日本のダメダメ家庭も全く同じでしょ?自分たちをシンプルの肯定するのではなく、「他はもっと悪い」という二重否定的になってしまうわけです。

8. 被害話が多くなる・・・まあ、漢とか唐の時代は、世界に覇を唱えていたわけですから、自分たちが被害を受けることはない。しかし、時代が経つにつれて、他国から攻められたとか、そんな被害話が中心になってしまう。だから、「やられたから、やりかえす。」そんな話ばかり。今の中国共産党って、政党自体がそんな発想でしょ?

9. 洗脳・・・本来は、こんな感情表現ばかりで、客観的で具体的な記述がどんどんと減少してくる教科書は、違和感を持つはずですが、その点は意外にも考えてある。適宜演習問題があるのですが、この演習問題が「効いて」いるんですね。以前に洗脳について書いた際に触れましたが、洗脳に当たっては、「自分の書いたものを正当化したい」という心情が影響しているものです。演習問題によって、生徒に「書かせる」ことによって、洗脳が進むように設計されているわけです。実際に、その問題も、「どうして、このことが正しいのか?説明しなさい。」なんて設問もあったりする。「どうして正しいのか?」って、異常な設問でしょ?しかし、洗脳が進んでいると、まさにそんな設問を渇望するようになっているわけ。そうして、「正しさ」を証明するような情報だけを得ようとする・・・生徒を洗脳させるためには、この教科書はよく出来ているわけです。記述がどんどんと主観的になっても、洗脳が進んでいる状態で読めば違和感がないわけです。


このように、中国の歴史教科書は、記述してある内容がダメダメになってくるのと同時に、その記述のスタイルのダメダメも進行しています。
それこそ漢や唐の時代を説明する記述が、どこかのセミナーで中国史の講義を聞いている感じだとすれば、20世紀の中国の歴史を説明するスタイルは、休日の渋谷の駅前で、右翼が大音量で「がなりたてている」雰囲気。
自分の被害を感情的に怒鳴っているだけ。「何を言いたいのか?」サッパリわからない。
あの手の右翼って、そんなものでしょ?

以前に取り上げた、韓国の歴史教科書は、最初から最後まで右翼の街宣スタイルだったのに対し、中国の歴史教科書は、最初の頃は、文明国の歴史教科書の範疇だったのに対し、時代を経るごとに、街宣スタイルになってしまう。

「何を語るのか?」「何を語らないのか?」に注目すると、語る人のダメダメが見えてくるのと同時に、ダメダメな人は「どのように語るのか?」そんな点もダメダメなもの。自分が相手に伝えたいものが自分でもわかっていないので、やたら感情を込めてしまう。
しかし、そんな感情表現ばかりの「語り」を聞いても、「結局、何が言いたいの?」「バッカじゃねーの?」と思うだけ。

逆に言うと、語りたいものがちゃんとある場合には、語るスタイルも、それなりの水準は保っているわけです。
ダメダメな語りのスタイルは、内容のなさの証明なんですね。
中国の歴史教科書は、そんなダメダメの進行について教えてくれる、実にありがたい教科書といえるわけです。

(終了)
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発信後記

ちなみに、私としては中国人を非難しているわけではありませんよ。
こんな教育の最大の被害者は中国の子供じゃないの?と申し上げているだけです。

ちなみに、この中国の歴史教科書は色々と参考になります。
教科書には共産党政権下での不祥事が載っているのですが、軍隊に納入した医薬品が不純物が入っている粗悪品で、その医薬品を使った兵隊が沢山死んでしまって、その商人が死刑になったとの記述もあったりします。
まあ、食料とか医薬品に混ぜ物をするのは、中国の伝統であることが、歴史教科書に記述されているわけ。ホント、参考になりますよ。

そんな粗悪な品物の犠牲者が中国人だけだったら笑って済む話なんですが、昨今ではそうは行きませんからね。
R.10/12/10