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配信日 08年2月12日
タイトル 「勝」の字
電車に乗って座っていると、座席の前に立っている人が新聞などを読んでいたりしますよね?そんな感じで、私の目の前にスポーツ新聞が登場したことがありました。目の前にあるものだから、「どんなことが書いてあるのかなぁ・・・」とチラっと見たりする。
私としては、別にスポーツ新聞に書いてあることには興味がありませんが、広告欄に面白い広告が載っている。
「美少女フィギュア」とか・・・

「美少女フィギュア」って、いわゆるオタクの方々が愛好するものでしょ?人形の一種ですよね?
まあ、その趣味を持っているのは別にいいとして、そんな趣味の人がスポーツ新聞を読むのかな?広告を打っても、効果がないんじゃないの?
そんなことを考え、視線を移すと、その美少女フィギュアの広告の横にも広告がある。
それは「自分で観音像を作ろう!」なんて文句が踊っている。
いわばプラモデルのように、観音像制作キットとかがあるんでしょうねぇ・・・

入っている部品を、マニュアルにしたがって組み立てていくと、カンタンに観音像が出来上がる・・・そんなものなんでしょう。まあ、そんな趣味の人もいるんでしょうね。しっかし、色んな趣味もあるもんだなぁ・・・
しかし、観音像が好きという趣味の人は、やっぱり、スポーツ新聞を読むのかな?

ちなみに、芸術表現の世界では、モンタージュ技法というものがあります。直接的には関係がないものでも、それを意図的に組み合わせることによって、別の意図を表現する技法です。
上記の美少女フィギュアの広告と、観音像の自作キットの広告がモンタージュされると、別のシーンが浮かんでくる。
観音像を自分で作り上げたオタク青年が、出来上がった観音像に「観音様、萌え・・・」と頬ずりしているシーン。

まあ、罪はない趣味とは言えますが・・・
しかし、後世に残るような仏像を制作した人だって、やっぱり似たような趣味だったのでは?自分の作った仏像に頬ずりするくらいはやっていますよ。一線を越えるような作品を作れるような人間は、一線を越えたヘンテコなヤツに決まっていますって・・・
残念ながら、宗教心とか信仰心や制作技術だけでは、後世に残る作品なんて作れませんよ。
もちろん、一線を越えたヘンテコなヤツが、すべからく一線を越えるような作品を生み出せるのかというと別問題。

オタク青年が、観音様に頬ずりしているシーンを連想し、ニヤニヤしながら、視線を移すと、電車にある中吊り広告に目が行きました。
「勝」とか「勝利」とかの文字が飛び交っている。
あまり目がよくない私なので、「スポーツ関係の広告なのかな?」と目を凝らすと、宗教関係のようでした。

へぇ・・・
最近ではスポーツ新聞に観音様の広告が載っているのに、宗教関係の広告では、勝ち負けの問題が議論されているのかぁ・・・と、不思議な気持ちになりました。

そもそも、宗教って、精神的な問題を扱うわけでしょ?
いわば魂の問題と言えますよね?魂の問題に「勝ち負け」ってあるの?
そのような「勝ち負け」の視点を取り入れると、思考が進むの?信仰心が篤くなるの?

さて、以前にこのメールマガジンで、「大の字」というお題で配信しております。
「自分自身は、本当は小さい人間なんじゃないのかな?ああ!こんなミジメな自分がイヤだ!」と内心ではコンプレックスを持っているダメダメ人間は、そんな自分から逃避して、「オレは本当は大きいんだ!」と無闇に主張したがり、だからこそ、不必要に「大」という字を使いたがるわけ。
「大勝利」とか「大躍進」とか「大革命」とか「大連合」とか、あるいは、作品のタイトルとか人の名前に「大」の字をつけたりする。

逆に言うと、不必要な「大」の字は、コンプレックスの存在を暗示しているものなんですね。まあ、人間は誰でもコンプレックスはあるでしょう。それを自覚して生きていけばいいわけでしょ?しかし、自分から逃避するダメダメ人間は、そのような自分のコンプレックスを直視することができない。だから「自分は大きいんだ!」と感情的に主張するわけ。
しかし、そんなことが「大きい」人間のすることなの?

「大」の字は、そんなコンプレックスとつながっていることがあるんですね。

さて、同じように「勝」の字も、ダメダメの心理につながっているもの。

そもそもダメダメ人間は、自分自身から逃避している。そもそも当事者意識がないので、「自分がどうしたいのか?」ということを考えることから逃避している。だからあらゆる問題に勝ち負けを導入することになる。自分自身を直視するのではなく、勝ち負けの問題にすることにより、「相手に勝つ」という目標を設定するわけ。
相手に勝つという目標なので、自身の問題を考える以上に、相手の問題を考えることになる。
「アイツは、こんな点が気に入らない!」
「アイツは、ここが悪い!」
「だから、アイツに勝つんだ!」

まあ、それはそれでいいとして、じゃあ、「自分自身は何をしたいのか?」という問題には答えられない。答えられないから、なおのこと「相手に勝つ」ことばかりになってしまう。

そうして、することといえば、相手に対抗することだけになるわけ。
何も一部の宗教の問題ばかりではなく、韓国人なんて、その典型でしょ?

前にも書きましたが、本来は宗教なんて、もっとも「勝ち負け」とは無縁の分野でしょ?
「勝ち負け」が話題になるのは、スポーツの分野なり、入学試験だったり、あるいは政治における選挙などだったらわかりますよ。
精神的な領域で、「勝った魂」と「負けた魂」なんて、どうして分類する必要があるの?

しかし、自分の魂から逃避しているので、逆に言うと、勝ち負けの分野に進出したがるわけ。あるいは、必要もないのに争いを起こして、「勝ったか?負けたか?」と議論する。
そうやって、ますます自分の魂から逃避してしまう。

スポーツの世界では「勝ちたい!」と思うのは当然でしょう。そもそもそういうものですからね。しかし、自分から逃避するがゆえに、何でもかんでも「勝ち負け」を導入するようになるわけ。
昨今喧伝されています「勝ち組、負け組」の二極化問題ですが、何も無理に分ける必要はないわけでしょ?「自分が何をしたいのか?」その問題の方が重要でしょ?
勝ち組と言われている人でも、その人がお亡くなりになった後で調べてみたら、プラダのバックが1000本くらい出てきた・・・なんてことになっても、どこが勝ち組なんだか?

もちろん、その人が、プラダのバックを集めることに命を掛けているのなら、それはそれでその人の趣味でしょう。しかし、それは勝ち負けの問題ではないでしょ?ちょっと偏った趣味に過ぎませんよ。美少女フィギュアを集めるオタクたちと大同小異。

自分のやりたいこと、達成したいことを自覚して、その実現のために努力するって、勝ち組、負け組とは直接には関係ないでしょ?
不必要に「勝ち負け」の問題にしてしまうということは、「自分は何をしたいのか?」という問題からの逃避なんですね。

自分からの逃避ばかりしているそんな人が、本当に勝利者なの?
江戸時代の剣豪である柳生十兵衛は、「ワシは相手に勝つ方法は知らんのじゃ、自分に勝つ方法は知っておるがのぉ・・・」と言っていたそう。
自分自身の弱点なり長所を理解している・・・それが、一番重要なことでしょ?あるいは「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。」と言っている古代中国の孫子も、「まずは己を知っておけば、ヒドイことにはならない。敵を知るのはその後でいい。」って言っていますよね?
まずは、自分を知ることが、一番重要なことなんですね。
そして、自分を知るということに、勝ち負けも何もないでしょ?

しかし、ある種の好戦的なダメダメ人間は、何でも勝ち負けの問題にしてしまって、自分よりも相手の方を見てしまう。それだけ自己逃避であることがわかるわけです。
そんな人は、「勝」とか「勝利」とかの文字や言葉が頻発しているもの。むやみに勝ち負けの問題にしてしまったり、「勝」という字を使いたがったりする。
犯罪者の名前に注目すると、「勝」の字のついた名前が結構多いものなんですよ。それだけ、その出身家庭がダメダメとつながっている可能性が高いわけ。

勝つために努力するよりも、自分が幸福になるために努力する・・・そっちの方がいいのでは?それに自分の幸福について考えることは、相手が必要になるわけでなし、一人で出来るわけだから、誰だってできることでしょ?
とは言え、自分自身の幸福について考えることが「苦く」「つらい」のが、ダメダメ人間。だから、ますます相手を見てしまうわけです。だから結果的にうまくいかず、コンプレックスが増大し、ますます自分から逃避し、相手に勝とうという名目で、その相手を凝視することになる。そうやって、どんどんと自己逃避が進行してしまう。

ちなみに・・・ここまでの文章はかなり以前に上がっていました。
実は最近になって典型的な事件があったんですね。

ちょっと前から、とあるプロ野球の球団で、二重契約問題が騒がれているようです。
外国人選手が問題になっている。
まあ、そのうちの一つのプロ野球チームは、この時期になると、いつも選手との契約問題でモメている。周囲だって呆れているでしょうね。
今回の騒動においては、そのチームの側に「非がない」・・・別の言葉で言うと「悪くない」としても、こう毎度毎度だと、説得力がありませんよ。
そのチームを統括する球団本部長の方が『勝広』という名前のようです。

今回の騒動でのその本部長さんの対応を見ると、「自分たちはどうしたいのか?」そのことを考えることから逃避して、すべて勝ち負けの問題にしてしまい、主張することは「ボクは悪くない!」「アイツが悪いんだ!」「アイツをやっつけろ!」と、見事なまでにお約束状態。
いやぁ・・・まるで、このメールマガジンのために行動しているかのよう!!
ありがたいねぇ・・・

その方も・・・今のうちに自覚しておかないと、もっともっと悪くなるばかりなんですよ。
と言っても、あの年齢だともう対処不能だろうなぁ・・・今後もトラブルが続くんでしょうねぇ・・・
自分の名前に「勝」の字があっても、その名前については、自分で決めたわけではないので、当人としてはしょうがない。だから、自分の実家について、じっくりと考えることが必要になるわけです。

「勝ちたい!勝ちたい!」と思っているから、ダメになる・・・世の中はそんなもの。
実際に、そのプロ野球チームは、昨年は最下位だったでしょ?
自己逃避している人たちが、勝利者になれるわけがないんですね。

(終了)
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発信後記

勝ち負けにこだわることも、勝負の世界では必要でしょう。
ただ、あらゆる面に「勝ち負け」を導入する必要はないというだけ。
あまり「勝」にこだわると失うものも多かったりするもの。勝負の世界においても、現役のプレーヤーとしては成功しても、指導者なり管理者として成功するかどうかは別でしょ?

チョット前から、お相撲の世界で、例のリンチ殺人事件における逮捕者が出て大モメですが・・・
現在の理事長さんも現役としては実績もあったんでしょうが、管理者としては「おバカ」の一語ですよ。「憶測では、ものが言えない。」って・・・『じゅあ、自分で調べたの?』と突っ込まれるのは、本来なら誰でも予想できること。
本人の知能に問題があっても、周囲に優秀なスタッフを入れれば済む話でしょうに。

自分たちの身を守ることばかり考えていたら、結局は周囲から遊離するだけ。そんなことだったら外部から新人も来ませんよ。新人として、相撲の世界に「入れられる」のは、子供の世話がイヤになったダメな親からだけ。まあ、お相撲の世界は「赤ちゃんポスト」ならぬ「デブちゃんポスト」の役割になるんでしょうね。「子供が死のうが構わない。もう子供には関わりたくない!」
そんな家庭からしか来なくなりますよ。だから、ますます事件が多発することになってしまう。

まあ、お相撲の世界がこの世から無くなろうと大したことではありませんが、ダメダメ家庭におけるトラブルにおいても同じこと。トラブルがあったときの対応を見れば、今後どうなるのか?見えてくるものなんですね。
ダメな人間は、トラブルになると、「アナタは悪くないわ!」と言ってくれる人間だけを周囲において、「ああ!ワタシってなんてかわいそうなの?!アナタもそう思うでしょ?」と嘆いているだけ。
スポーツの世界だろうと、離婚のようなダメダメ家庭の問題でも、同じ状況になっているものなんですよ。
R.10/12/10