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カテゴリー 相談という場におけるダメダメ家庭
配信日 08年2月22日
タイトル 尻尾を隠す
先日(08年)、海で大きな事件がありました。
自衛隊の最新鋭の船と、2人乗りの小さな漁船が衝突した事件です。
何か事件があると、喜んで飛びつくようなまねはしたくはありませんし、そもそもこのメールマガジンは、海上事故についてのメールマガジンではありません。
しかし、事故そのものはともかく、事故後の自衛隊の対応を見てみると、これがまた見事なまでにダメダメ。
ということで、今回の文章では、事故そのものはともかく、事故後の対応について考えてみたいと思っています。あのような光景は、意外にもダメダメ家庭の周辺では、見られるものなんですよ。

今のところでは、その自衛隊側が出してくる情報と、漁船の同僚の漁師さんの主張に齟齬があるようです。漁師さんが集まって会見を開いていました。
「軍艦の側も、漁船のランプが見えたはずだ!」
とか・・・その他にも色々と相違点がありそうですね?

あのようにそれぞれの主張が食い違ってしまうと、皆さんはどっちの側を信じますか?
漁師さんの方?自衛隊の方?

私は・・・漁師さんの方を信じます。
「なぜって?」
だって、漁師さんの物言いがシンプルだから。
もちろん、漁師さんたちは、言葉で仕事をしているわけではないんだから、その物言いがシンプルになるのは、ある意味において当然でしょう。持って回った言い回しなんて、したくてもできないとも言えるでしょうね。
しかし、技巧的な物言いができる人でも、自分が本当に言いたいことがあるのなら、信念をもってシンプルな物言いをするものですよ。あの漁師さんたちにも、あるいは自衛隊のクルーも、船乗りとして、いわば海のプロとして、事実をわかっているはず。そのわかっていることを端的に伝えればいい話。表現の技巧もヘチマもありませんよ。

それなのに自衛隊の側は、絵に描いたような「持って回った」言いまわしでしょ?「見えてないとは言えない・・・」「監視していないとは言えない・・・」「わかっていなかったとは言えない・・・」なんて、二重否定表現のスタイルばかり。
本来なら、「自分たちは、あの漁船を、何時何分に認識して、○分後に上司に連絡して、☆分後にはこのような対応をとって、△分後には、別の対応をとって、直前には、こんな処置を取ったが、結局は衝突してしまった。」と言えばそれでいいじゃないの?というか、他に言いようがあるの?

自衛隊の側の発表を聞いても、「で、結局は、アンタたちは、実際はどうしていたの?」ということが何もわからないでしょ?「ボクは・・・悪くないんだ!」って言っているだけでしょ?
しかし、「悪くないんだ!」と言っているだけの状態であることが、色々と教えてくれるもの。

現実的には、様々な状況証拠から、外堀が埋められてしまう。
それこそ、「当直の交代の時間の影響なのでは?」とか「船の傷から、漁船の側面に直角に突進したことがわかる。」とか・・・
こうなると、それに対する説明のために、「尻尾を捕まれないように」、「もって回った」言い回しを、さらに重ねることになり、ますます怪訝に思われてしまう。

何も、このメールマガジンで自衛隊の問題を追及するつもりはありませんよ。
実に似た状況になってしまうのは、ダメダメな人から相談を寄せられた場合です。

ダメダメな人は、誰かに対して相談を持ちかける場合でも、事態を解決するつもりで持ちかけてくるわけではないんですね。
ただ、グチを言いたいだけ。「ワタシをかわいそうな人だと認めてほしい!」というだけ。あるいは、ただ、構ってほしいだけ。そんな人だから、相談という場において、自分のグチを語ることになる。
「ワタシは何も悪くないのに・・・どうしてこんなことに?!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
逆に言うと、「ワタシは悪くない」という説明につながらないような、自分に都合が悪い情報は、カットされてしまうわけ。

まさに「尻尾を隠した」状態で、相談の場に臨むことになる。

しかし・・・
そんな「尻尾を隠した」状態の不自然さって、スグにわかるもの。
それこそ「あの時には、アナタはどうしてそうしたの?」「その時には、どんな現状認識をしていたの?」「この時には、このような選択肢もあったのでは?」なんて質問が返されることになってしまう。

本来なら、『自分は、その時には、このような考えで、このような選択をした。結果的には、こうなったが、できればこうしたい。どうすればいいでしょうか?』そんなスタイルで相談に臨まなければ、何も解決しませんよ。

相談においても、ダメダメな人は、「あーでもない、こーでもない。」と否定形が積み重なって、ウダウダとした話をしてくるもの。まさに今回の自衛隊のコメントとそっくりなんですね。当人としては、自分たちの「尻尾を隠している」つもりなんでしょうが、尻尾を隠す努力は、尻尾があるから発生するもの。尻尾がなければそんな努力は不要ですよ。だから「尻尾を隠す努力」そのものが、尻尾の存在を証明し、そしてその努力そのものが、新たな尻尾となってしまう。
まさに「ウソにウソを重ねる」状態になってしまうわけ。

こうなると、「何を言っているのか?自分でもわからない。」なんて状態になってしまう。
そうこうしているうちに、どんどんと外堀を埋められてしまって・・・
ますます「尻尾を隠す」努力に必死になることに。

私のレヴェルだったら、かなり早い段階で、その尻尾に気がついてしまいますが、「ウソにウソを重ねる」レヴェルになってくると、一般のレヴェルの方でもカンタンに気がつく状態になる。
皆さんもたまに思うことがあるでしょ?
「おいおい!あれでバレていないとでも思っているのかなぁ・・・」
「本人は、バレていないと思っているのなら、そのことについて触れたらマズいだろうし・・・」
「あ〜あ、コッチとしても、どうやって、あの人と話をすればいいんだろう?」

子供相手にクリスマスのサンタクロースの話をしているのなら、まだ可愛気がありますが、大人相手だとねぇ・・・騙された振りというのも、疲れるし、虚しいもの。

一緒にいると、妙に気を使うので、そんな「尻尾を隠す」人と一緒にいるのは、苦痛になってしまう。だからマトモな判断ができる人は、そんな人から離れていってしまい、結局は、同類のダメダメ人間が寄り集まることに。
結局は、大きな尻尾を持つ同類同士で、誰もがその尻尾が見えるのに、一言も尻尾について触れない日々。ということでますます正常な感覚が喪失してしまう。

尻尾があるのがダメダメというわけではなく、尻尾を隠す努力がダメダメなんですね。そんな人は、尻尾を隠すことそれ自体が目的となってしまうので、何も達成するものがない。
尻尾という、ある種の否定的な存在を、「隠す」という更なる否定形にして、二重否定となっても、やっぱり肯定にはつながらないわけ。
「悪くはない。」ことを主張する努力は、結局は二重否定であって、その人の存在を肯定したものではない。

もって回った言い回しをしている自衛隊よりも、シンプルで決然とした物言いをしている漁師さんたちの方が肯定の精神にずっと近いわけです。事態の改善のためには、強い信念のこもったシンプルな物言いが必要になってくるわけ。そんなことは本来なら誰だってできることでしょ?

不思議なもので、自衛隊の幕僚長よりも、漁師の「おとっつぁん」の方々の方が威厳や風格があるでしょ?「さすが・・・普段から命を張って仕事をしている人たちだなぁ・・・」って私などは思いますよ。幕僚長の物言いには、そんな気概がないでしょ?
信念がない人には、威厳なり尊厳なりに到達するわけもない。もって回った言いまわしが、あるいは、尻尾を隠す努力が、尊厳につながるわけがないんですね。

(終了)
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発信後記

自衛隊は、実質上は軍隊でしょう。その法律的な面はともかく、軍人はいわば侍でしょ?
もっとその気概がほしいもの。
以前にちょっと触れましたが、有名な書物である「葉隠」に、こんな記述がありました。
「○○公は、いざとなったらスグに戦場に赴けるように、寝る前には褌(ふんどし)を締めなおして寝たものだ。」
侍たるもの、そんな意識が必要だと、書いてあるんですね。
理屈をこねくり回して、宮仕えに安住する侍を、「そんな侍が言う武士道は、上方風の軽薄な武士道である。」と書いています。

まあ、褌云々はともかく、軍人だったら、危機感を持たないと・・・その人自身が死んじゃいますよ。ちなみに、その「葉隠」は、精神論を説いているわけではありませんよ。自分にとっての最大の現実は、まさに自分自身である。という全く持って当然のところから出発しているわけ。
そういう意味では、「我思う、ゆえに我あり。」のデカルトなり、あるいは20世紀の実存主義哲学に近い考え方。

しかし、ダメダメになると、自分にとっての一番の現実である自分自身から逃避してしまう。まあ、だからこそ、「規則を守っているんだから、ボクは悪くないんだ!」なんて物言いになってしまうわけ。
逆に言うと、そんな物言いをする人は、自分自身から逃避しているんですね。
R.10/12/10