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カテゴリー ダメダメ家庭は嘆き節がいっぱい!
配信日 08年3月4日 (10年12月16日 記述を追加)
タイトル ウチの子供が訪ねて来ないわ!
ダメダメ家庭を作る親は普段からグチばかり。
子供に対しても、「オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振った!」そんな感じで常日頃からグチっている。そんなグチばかりの親と、顔を合わせて話をしたいと思っている子供がいるわけもなく・・・
子供もそんな家庭を後にして、結局は疎遠になってしまう。

しかし、グチばかりのダメダメ人間の相手をしてくれるのは自分の子供だけというのも、これまた現実。だから自分の子供を相手に、お得意のグチを存分に語りたいと思っているダメダメな親は、その子供が自分の元に来てもらいたいと思うことになる。
しかし、呼び出された子供としては、実際に話をしても、結局はグチを聞かされるだけということを確認するだけになってしまうだけ。

と言うことで、ますます疎遠になることに。
ダメダメな親としては、子供と疎遠になってしまったので、グチを語る相手がいなくなってしまう。
グチを言わなくても、他に自分でしたいことをすればいいわけですが、ダメダメ人間のしたいこととは、グチを言うこと、それ自体。

グチというものは、自分の被害を語るものでしょ?
しかし、グチを言えないこと・・・それ自体をも被害と考え、ますます被害者意識が増大するばかり。
「グチを語る相手がいないワタシって、なんてかわいそうなの?!」
「ああ!この胸にあふれるこの被害者意識を語りたい!!」

と言うことで、またまた自分の子供をターゲットとすることに。

と言っても、被害者意識が強く当事者意識がないのがダメダメ人間。
そして、そんな人間は、常に恩着せがましいもの。何をするにも自分の被害と考えるので、あらゆることに恩を着せようとするわけ。
子供にグチを言う・・・それ自体も、子供に恩を着せる形でしたいと考える。

子供を呼びつける際にも、
「親子というものは、たまには、会って話をするものだ!」
「時間ができそうだから、オマエに会ってやってもいいぞ!」
「どうして、オマエは帰ってこないのか?」
などと言った、恩を着せる形なり、一般論的な物言いになってしまう。
「オマエとじっくり話をしたいから、たまにはコッチに来てくれないか?」
なんて当人自身の希望をストレートに語った呼び掛けにはならないわけ。

「親子はたまには会ってはなしをするものだ!」という一般論はいいとして、じゃあ、その親本人は自分の子供と会って話をしたいの?
もし、そうだったら、そのよう自分の希望を端的に言えばいいだけでしょ?

結局は、そのように言えないわけです。
この期に及んでも、恩を着せようとするものなんですね。
つまり、「オマエが会いたいと言うから、わざわざ会ってやった。」という自分の持ち出しを主張できる形を取ることにこだわるわけです。

そんな物言いに接して、顔を合わせようと思う人がいるわけもなく・・・
結局は疎遠状態が続くことに。

被害者意識が強く、どんな事態でも自分が受けた被害と認識するダメダメ人間としては、自分の子供相手にグチを言えないという事態を、被害と認識し、その被害を自分の子供から受けたと思うことになる。だから、結局はその被害を周囲の人に語ることになる。
そのような被害を語る相手として「選ばれる」のは、往々にして鈍感な人。
まあ、この私のような人間に対しその手のグチを言っても、手痛い一撃を食らうだけですからね。
一般的には、鈍感で、善意があるような・・・それこそボランティア自慢でもするような、ボンクラな『いい人』が選定されるわけです。
そんな「いい人」を相手に、「ウチの子供が全然訪ねて来ないのよぉ〜」とグチるわけ。

そもそも、ダメダメな人はグチのエキスパートなんだから、その「語り口」も練達の境地。鈍感な「いい人」ごときを、ちょろまかすことなんて朝飯前。
グチ人間の嘆き節にまんまと乗せられ、「その気」になった「いい人」が、疎遠にしている子供に説教することになる。
『おいおい!親を大切にしろよ!親御さんが寂しがっていたぞ!』

まあ、鈍感な「いい人」と言うものは、親が本当に寂しいのなら、そのことを自分の子供に直接に言うことが一番適切な方法であることも、気がつかない。
しかし、親が寂しいのなら、それを直接に子供に言えばいいじゃないの?
そんなやり取りができないような親子なら、子供の側が実際に訪ねてきて顔を合わせても、お天気の話題などの「型どおり」で「フォーマル」なやり取りで終了ですよ。

本当に伝えたいことがあるのなら、直接的に顔を合わせなくても、電話だったり、今だったらメールもあるでしょ?あるいは、昔ながらの手紙でもいいじゃないの?そんな簡単にできるやり取りの積み重ねが、相互理解に繋がり、信頼になっていくんじゃないの?

そんな簡単なこともせずに、周囲のトンチンカン連中にグチっているだけの親の姿に、子供の側は、ますますゲンナリすることになる。
と言うことで、ますます疎遠になってしまう。

と言うことで、グチを語れない親の側は、子供による被害を、ますます周囲に語り続けることに。

このようなことは、以前からも頻繁に触れております。
それこそ、購読者さんからの投稿もありました。あるいは、とある「子育て研究家」の方が、そんなグチを周囲に語っていた実例も、このメールマガジンで紹介したことがあります。
その「子育て研究家」さんも、子供が訪ねてこないのなら、子供に対して手紙でも出せばいいじゃないの?
しかし、その子育て研究家さんは、「正しい子育て」についての本は執筆しても、自分の子供には手紙一本も書かないわけ。

そうして「こんなすばらしい子育ての本を書いている立派なワタシなのに・・・そんなワタシに会いにこないなんて!なんてヒドイ子供なんだ!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、周囲のボンクラ人間を相手に嘆くことになる。

まあ、そんな感じで「子供が訪ねて来ない。」なんて周囲にグチっている親は、仕事の出来はともかく、親としては重症のダメダメなんですね。
ちなみに、日本を代表する名家でも、子供が訪ねて来ない・・・というグチが登場したりしました。
まあ、前回配信の文章で、ちょっと書きましたが・・・

顔を合わせないとコミュニケーションが取れないような人間は、顔を合わせても、実際はコミュニケーションが取れていないもの。
前にも書いていますが、顔を合わせなくても、それこそメールなり電話でのやり取りを積み重ねていけば、信頼関係が出来上がるわけでしょ?いくら名家でも親子間で国家機密があるわけでもないでしょうし、ちょっとした小ネタでも、やり取りすればいいじゃないの?お互いの現状がわかっているから、話も弾むことになるし、だからこそ、「今度は顔を合わせて話をしようかな?」とも思うもの。

現実的に言うと「あの子は全然訪ねてこない・・・」というグチを間接的に聞いて、それから頻繁に会うようになった親子っていますか?
そんな簡単なことがわからないのが、ダメダメ家庭を作る親というものですし、そんな簡単なことがわからないレヴェル洞察力の人がターゲットとして狙われて、「ウチの子は全然訪ねて来ない・・・」とグチを言われたりするものなんですね。
そんなグチを苦虫を噛み潰した顔で伝聞するような人間は、重症のダメダメか最低のボンクラかのどっちかなんですよ。

そもそも、うまくいっていない家庭というものは、別の言い方をすると「コミュニケーションに齟齬がある状態」とも言えるでしょ?
第3者の口を借りて・・・なんてことは、一番やってはいけないことですよ。
そんなことをすれば、ますますコミュニケーションが混乱するだけですよ。まずは、コミュニケーションをもっともシンプルなスタイルに戻すことが第一でしょ?

第3者の口を借りて・・・という場合には、相手に対して「釘を刺す」類の警告に近いわけ。
もはや相手を敵とみなしているからこその間接的な行為であるわけ。
ワンクッション置くという形で、一応は相手に対して、「逃げ場」を作ってあげているわけです。その逃げ場から、転向して味方になってくれるか、少なくとも敵対しないように要求するわけ。
相手を味方と思っているのなら、直接に話をしますよ。だって、味方というものは、「逃げ場」も必要がない間柄なんですからね。
そんなことは帝王学の基本。
それに「使者」には、「それなり」の人材を当てないとね。
これも帝王学の基本ですよ。

とは言え・・・先日(08年)、その名家さんの親の側が、子供の側に乗り込んで行ったとか・・・その場でどんな話をしたのかはわかりませんが、事態打開には、実際にそれしかないわけで・・・
そのことに気がついたのは、まあ、第一歩としては合格と言えるでしょう。これからどうなるか?注目ですよ。

実際のダメダメ家庭では、「子供が訪ねて来ない」とグチる親は、デーンと構えていて、何もしない。
「訪ねて来ない」のなら「自分から訪ねて行く。」
そんな単純なことができない親であるがゆえに、子供だって、訪ねて来ないわけです。

被害者意識が強いダメダメな親は、相手に会うにせよ、自分の持ち出しというか被害が発生する形を取ろうとする。つまり、「わざわざ会ってやった。」という形を取ろうとするわけ。
だからこそ、自分の側から会いに行くということはしない。
自分の側から会いに行ったら、「わざわざ会ってやった。」とは言えないでしょ?

それに、ダメダメ人間は抑圧的であり、選択の場を恐怖しているもの。
自身が判断して、その行動を選択したという形は取りたくない。
相手側が来ると言っているから、「しょうがなく」「会ってやった」という受け身の形を取りたい。

そして、実際に会ったら、「あ〜あ、忙しいのに、こんな時に訪ねてくるから、なんとか時間を作ってあげたけど・・・」と、いきなりのグチとなる。
そうやって、相手に対して、恩を着せるわけ。

本当に相手とやりとりをしたいと思っているのなら、自分の側からも会いに行くでしょ?
あるいは、伝えたいことがあるのなら、手紙でも書くでしょ?
自分の側からは会いには出掛けなかったり、手紙も出さないと言うことから、その人の被害者意識や、心理的な抑圧が見えてくるわけ。しかし、被害者意識が強く、心理的に抑圧されている人とやりとりをしても楽しいわけがないでしょ?
だから、一時的にやり取りが再開しても、結局は、しぼんでしまうことになる。

そうして、ダメダメな親は、結局は、「ウチの子が訪ねてこないわ〜」とグチることになる。
しかし、実際にその子供と顔を合わせたとしても、どのみちグチしか言わないわけです。
ただ、グチの言葉が変わるだけなんですね。

(終了)
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発信後記

前にも書きましたが、具体的な事例として取り上げた家庭に対して、思想的なり感情的に見ているわけではありませんよ。
お約束に満ちているなぁ・・・と思っているだけ。

お約束であるがゆえに、打開策もあったりするもの。
それこそ「訪ねて来ない」のなら「自分から訪ねていけばいい。」なんて・・・誰でもわかるシンプルなことでしょ?
しかし、ダメダメな人は「子供が訪ねて来ない」とグチを言うことはしても、「子供が訪ねて来ない」という現実を受け入れることができないわけ。
「子供が訪ねて来ない」と自分で「認めていない」がゆえに、周囲に対してグチる。
語ることと、認識することは、必ずしも一緒ではないわけ。

子供が自分を嫌っていて、だから、自分の元に訪ねて来ない・・・
その「苦い」現状認識から、あらゆる打開策も生まれてくるものなんですよ。
R.10/12/16