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配信日 08年3月14日
タイトル 立場や境遇による視点の違い・・・童話「フランダースの犬」を例にして
昨年(07年)の末の頃に、茨城県の方で、事件がありました。なんでも痴呆症のお婆さんが徘徊してしまい、寒空の中にいたところ、たまたま老犬が通りかかり、その老犬と抱き合っていたために、命を取り留めたとのこと。しかし、その老犬も、お婆さんの命を助けようと思って一緒にいたわけではないでしょう。
「エサでももらえるかな?」と思って人間に近寄って言ったら、何ももらえなかったけど、まあ、めんどうなので、そのままいた・・・そんな感じなんでしょうね。犬には犬の行動原理がありますよ。

なんでも、その犬の名前はウシと言うらしい。模様が牛とよく似ているので、そんな名前になったんだそう。しかし、その犬がウシという名前でヨカッタよ。もし、その老犬の名前がパトラッシュという名前なら、お婆さんはその老犬とともに寒空の下でお亡くなりになっていたでしょう。まあ、日本中にニュースとなって広まってしまうでしょうね。
いや!世界中に広まるのかな?

とは言え、その「フランダースの犬」の話が好きなのは、世界中で日本人だけなんだそう。
日本人はどうして、その「フランダースの犬」の話が好きなのか?その物語の舞台となったベルギーの人がドキュメンタリー映画を作ったらしい。
その人いわく、「日本人には『滅びの美学』があって、そのせいで、ネロやパトラッシュの『滅び』に共感するんだ!」そんなご説のようです。この話はインターネットのニュースサイトに載っていましたよね?

しっかし、『滅びの美学』って・・・
アクの強い文章が並んでいるこのメールマガジンを購読されておられる皆様方にも、子供の頃に「フランダースの犬」の本なりアニメを見て号泣なさった方もいらっしゃるでしょ?あまりに印象に残っているので、パトラッシュという名前や「フランダースの犬」という文字を見ただけで条件反射的に涙ぐむ人もいるかも?こうなると、「フランダースの犬」だか「パブロフの犬」だか分からないくらい。まあ、それくらいに日本人は、あの「フランダースの犬」が好きのようです。

この点は、購読されておられる方だけでなく、書いている、この私も・・・は、さておき、あのラストにおいて強いエモーションを受けた方にしてみれば、それを『滅びの美学』と言うには、抵抗があるのでは?
そもそも、子供は『美学』と言われてもピンと来ない。
日本人に『滅びの美学』があることには異論がないけど、「フランダースの犬」と『滅びの美学』を結びつけるのには、釈然としない・・・そんな方が多いのでは?

じゃあ、世界中で日本人だけが「フランダースの犬」に反応するのはなぜ?
と言うことで、私がアタマの中で検索を掛けることにいたしました。
そして「ピンっ!」と、「ああ!これだな?!」と思ったのがこの言葉です。

『もののあはれ』

この「もののあはれ」という言葉は、江戸時代の国学者である本居宣長が提唱した考え方です。
日本人には、移り行くもの、はかないもの・・・そのようなものに接すると無常の感興が生じる・・・そんなものですよね?本居宣長は平安時代の『源氏物語』にその頂点を見ましたが、その「もののあはれ」という感じ方は、21世紀の日本人にも脈々と残っているもの。
そんな「もののあはれ」を元に「フランダースの犬」を見てみると、見事なくらいにハマルでしょ?

善とか悪などの問題ではなく、ネロやパトラッシュの「はかなさ」「あはれさ」ゆえに、多くの日本人は号泣するんじゃないの?
「フランダースの犬」を日本人だけが好きなのは、「滅びの美学」ではなく、「もののあはれ」という日本人ならではの感じ方が元になっている・・・
私のそんな見解には、100人中100人の方が賛成するのでは?というか、「このメールマガジンは気に入らない内容ばかりだけど、今回初めて、心から賛成できる見解が出てきたよ!」と思う方もいらっしゃるでしょう。

まあ、日本人の方は、そんな見解に簡単に合意するでしょう。
しかし、ヨーロッパ人はそうはいかない。そもそも「もののあはれ」という概念は漠然としている。あいまいでわかりにくい概念ですよ。それに対し、「美学」と明確に規定されると、たとえそれが「滅びの美学」であっても、彼らにも受け入れることが可能になる。だから、「アンタたち日本人が『フランダースの犬』に見たのは滅びの美学なのかい?」と聞いてくることに。

だから、日本人として、「ちょっと違うんじゃないのかなぁ・・・」と思っていても、「美学だ!」なんて明確に言われてしまうと、「そんなモンかなぁ・・・」と思ってしまうもの。

このメールマガジンでは、基本的には子供の目線で物事を書いています。しかし、子供は自分の感じ方を、大人にわかるようには表現できない。だから大人の側の明確な表現に押し切られてしまう。
このようなことは、このメールマガジンで頻繁に書いていますが、明確に言語化されると、それが、不自然でも、あるいは、完全に納得しているわけではなくても、通ってしまうものなんですね。
日本人とヨーロッパ人では、ものの見方も違うし、それを客観的に言語化する能力も違う。
同じようなことは、大人と子供の間にも起こっているもの。

どっちがいいとか悪いのとかの問題ではなく、それぞれの見方があるわけです。

さてさて、その「フランダースの犬」ですが、私は以前より、不思議に思っていたことがありました。ちょっと不自然なシーンがあるんですね。その不自然なシーンというのは、まさにクライマックスといえる最後のシーンです。
「どうして、物語の最後で、ネロとパトラッシュが見る絵がルーベンスなんだろう?」
そんな私の疑問を申し上げると、こう言いたいでしょ?

『オマエはバカか?物語の舞台がベルギーのアントワープ周辺であり、ご当地出身の大画家ルーベンスが重要な役割を果たすのは当然じゃないか?!』
そう思う方もいらっしゃるかもしれませんが、あの物語の舞台は何もアントワープである必要はありませんよ。それこそ舞台を東洋の日本にしてもいいくらいでしょ?どうせ日本人しか読まない話なんだし。

苦悩の果てに死に行くものが、月明かりの元で見上げる絵が、どうしてルーベンスの絵なの?
美術について、ある程度の教養がある方なら、ちょっとヘンと思うのでは?
もっと別の画家にした方が、最後のシーンをより感動的にできるのでは?
たとえば、ベルギーのお隣のオランダの画家のレンブラントの方が、はるかに適切な選択ですよ。
レンブラントの絵が持つ、現世の苦悩と、神へ救済を求める気持ち。おまけに、光を使った明暗を効果的に使っている絵なんだから、月明かりで見ると、すばらしい『絵画的』効果になりますよ。
最後になって、月光がレンブラントの絵を照らす。そのレンブラントの絵を見ながら、ネロが「ああ!神様!このボクをお救いください!」と言いながら、事切れる。

ルーベンスよりレンブラントの絵を使った方が、ネロの境遇を、より「かわいそう」にできますよ。レンブラントはオランダの人だから、プロテスタント系であり、ベルギーというカトリックの国の教会には絵が飾られない・・・そんな理由もあるでしょうが、それだったら、最後のシーンをベルギーの教会ではなくオランダの集会所にすればいいだけ。「フランダースの犬」は、地理の本ではなく、芸術作品なんだから、舞台の場所をオランダに変えることには問題はないでしょ?

あるいは、ベルギーは以前はスペインの支配下でした。
スペインの画家に、ムリーリョという画家がいます。イノセントで純粋な精神で聖母マリアの絵を描いたりしています。イノセントな精神で描かれた、柔和で慈愛あふれる表情のマリアの絵を見ながら、
「ああ!マリアさま!もうすぐおそばへまいります!」
そう言いながら息絶えるネロ。
このシーンが決まらないわけがない。
ルーベンスより、ムリーリョの方がはるかに適切な選択ですよ。

あるいは、イタリアの画家でフラ・アンジェリコという画家がいます。こちらも、その名のとおりの天使のように清らかな精神をこめて絵を描いた人。
そんな絵を見ながら、パトラッシュと抱き合ったネロが「ああ!ボクたちはもうすぐ天国に行けるんだ!!」

その他、舞台をロシアにして、最後にはアンドレイ・ルブリョフのイコンを見ながら生き絶える・・・そんな光景でも、感動的。

あるいは、宗教的な題材を離れて風景画にする手もある。
ウィーダと同じイギリス人の画家ターナーの絵を使っても、実に効果的。
ターナーの絵を見上げながら、ネロが「ああ!光が!色彩が!ボクたちに降ってくる!!」

素人の私ですら、より効果的にできるんだから、玄人のウィーダができないはずがない。そもそもネロはルーベンスの絵を見ても「とうとう見たんだ!」と言っているだけ。絵についての具体的な感想は出てこない。せめて「なんて迫力のある絵なんだ!」「こんな絵をボクも描きたかった・・・」くらいは言えばいいのに・・・

いずれにせよ、最後に見る絵がルーベンスというのは、不適切。それも、もっと適切な絵があるというレヴェルではなく、「よりにもよって、どうしてルーベンスなの?」それくらいに、不適切なんですね。

このような例だと、それこそ人生最後に聞く音楽が、ベートーヴェンの交響曲とか派手なイタリアオペラという選択は、ドラマの「効果」としては不適切でしょ?それが音楽的に名曲であるとか、崇高な内容があるとか、そのような問題ではないわけ。人生最後に聞く音楽だったら、それこそバッハの「主よ、人の希望よ、喜びよ!」とか、モーツァルトの合唱曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とか、クラリネット五重奏曲の第2楽章とか、あるいは、それこそ日本人好みでフォーレの「レクイエム」とか・・・人生最後にふさわしい、ちょっと静かな作品がありますよ。

そんな疑問を持ち続けて来た私は、その「フランダースの犬」を読み直して見ることにいたしました。
ちなみに、私はアニメの方は見ていません。どうも、ヒューマンドラマの匂いのあるシリーズの一環なので、その面で敬遠しているんですよ。

さて、何回も書いていますが、ネロとパトラッシュが息絶えるシーンにおいて使われる絵が、ルーベンスの作というのは、そのシーンとしては不適切な選択といえます。
じゃあ、作者のウィーダは、どうしてルーベンスにしてしまったの?
皆さんもチョット考えてみてくださいな。

とりあえず、考えられるのが、「フランダースの犬」の作者であるウィーダが、美術についての知識がない・・・だから、有名な画家として、とりあえずルーベンスの名を使ってしまった・・・そんな理由である可能性も、当然のこととして考えられます。それこそクラシックの作曲家として一番有名なベートーヴェンの名前を使った・・・それくらいの感覚。だから「結果的に」不適切な選択となってしまった。ああ!これが「ゆとり教育」の弊害なのか?!

別の考え方として、作者のウィーダは美術についてよく知っていて、つまり最後のシーンにおいてルーベンスが不適切であることがわかった上で、「意図的に」ルーベンスを使っている。
その可能性もありますよね?

さあ!ウィーダは考えもなしにルーベンスにしたの?
考えた上でルーベンスにしたの?

このようなことを判断するにあたっては、本の『読み手』の立場よりも、『書き手』の立場から見た方が結論が得られるもの。皆さんが『書き手』のウィーダだったら、どうしますか?
もし、書き手が、考えもなしにルーベンスだったら、「フランダースの犬」という作品に出てくる画家の名前はルーベンスただ一人になります。だって、他の画家の名前は知らないんだもん。

逆に、考えた上でルーベンスだったら?
不適切なことが判っている上で、意識的にルーベンスを選択していたのなら?
そんな場合には、作品中に別の画家の名前を多く出すことによって、「実は、ワタシは、美術について詳しいのよ!考えた上で、ヒネリを効かせて、ルーベンスの絵を使っているんだから、ちゃんと意味があるのよ!その点は誤解しないでね!」と言えることになりますよね?

ということで、「フランダースの犬」を何十年ぶりに読み直す前に、「たぶん・・・多くの画家の名前が出てくるのでは?」と予想した上で読み始めました。
すると、やっぱり出てくる。ヨルダーンスやファン・アイク兄弟のような有名どころばかりではなく、テニエやミールスやヴァン・タールのような私も知らないようなマイナーな画家の名前まで出てくる。
つまり、作者のウィーダは美術にかなり詳しいことが判ります。

だから、ドラマの一番重要なシーンと言える最後のシーンにおいて、その情景とマッチしない画家といえるルーベンスの絵を使っているのは、意図的なんですね。

美術に対する教養のある人と、その方面ではあまり知らない人では、文芸作品の見方も変わってくるでしょ?ネロはルーベンスの名画を見たがっていて、最後になってやっと見ることができました・・・というストーリーの意味も、読む人によって違ってくるわけです。そして「読み手」と「書き手」では、作品の見方も違っているもの。

じゃあ、どうして、ルーベンスという不適切な選択を、あえて、したの?
作者ウィーダにとって、ルーベンスにはどんな意味があるの?

では、画家というか芸術家のルーベンスとは、どんな特徴があるでしょうか?

ルーベンスは、実に社交的な人でした。本業の画家の傍ら、なんと外交官までやっていました。彼は実社会において大変な成功を得た人といえます。本業の画家としては、自分が運営する工房で絵画を次々と制作し、それが周囲に絶賛されました。
当時の人が絶賛しただけでなく、今の時代でも、その作品の価値は高いものです。工房で制作していたと言っても、手を抜いて制作したわけではない。その作品には芸術家としての良心がこもっている。
つまり、ルーベンスは芸術家人生と現実人生を、高い次元で両立させた人と言えます。

それに対し「フランダースの犬」の主人公のネロは?
「フランダースの犬」において、ネロは牛乳販売の仕事のかたわらで、絵を描いている。つまりネロは芸術家の卵といえます。作品中で、そのネロが、芸術家人生と現実人生の対立に直面するシーンが頻繁に登場いたします。そしてネロは、いつだって芸術家人生の方を選択し、現実人生を捨ててしまう。

そもそも、彼女であるアロアとの付き合いを、アロアのお父さんであるコゼツさんに禁じられたのは、ネロが貧乏だからではありません。ネロが現実人生に立ち向かわないからなんですね。ネロが自らの牛乳販売の仕事を、どうやって拡充していくのか?そんなビジネスに真剣に向き合っていけば、コゼツさんだって、娘との付き合いを認めますよ。あるいは、そんな仕事に見切りをつけて、コゼツさんの助手になる方法もあるでしょう。ネロはこの世においてどうしたいの?どうするつもりなの?しかし、ネロは、現実世界における将来展望を何も持っていない。
15歳にもなって、マトモに働きもせず、絵を描いている状態だからこそ、コゼツさんも問題にする。

15歳にもなって、現実上のビジネスに真剣に向き合わずに、絵ばかり描いている人間と、自分の娘を結婚させようと思う親の方が異常ですよ。絵を描きたいのなら、まずは経済的に安定してから、趣味として描いていけばいいじゃないか?そんなコゼツさんの判断は、一般人としては常識であり健全なものでしょ?

そんな周囲の常識なり善意は、ネロにも分かる。しかし、ネロは現実人生よりも芸術人生を選択してしまう。ネロは生きるために絵を描くのではなく、絵を描くために生きているだけ。ネロは周囲の人を、まったく恨んでいない。しかし、善人に「ありがち」なキャラクターと言える「信心深さ」を持っていない。つまり、ネロはいわゆる善人ではない。ネロはそもそも現実世界に価値を見出していないだけ。ネロにしてみれば、現実人生と、芸術人生は、まったく相反する状態となっている。
・・・だからこそ、その両立の中に生きた芸術家ルーベンスに憧れを持つわけです。

ネロが最後に、ルーベンスを見るのは、ルーベンスの絵そのものというより、現実人生と芸術人生の両立の象徴なんですね。ネロはその両立に憧れ続け、そして最後にその絵・・・つまり両立に到達し、そして、それは夢のようにはかなく終わってしまう。
原作では、ネロは15歳です。つまり分別はできる年齢といえます。いわば少年ではなく青年の年齢です。その年齢の人が、分かっていて、現実人生を捨ててしまっている。らんぼうな言い方をすると、ネロは破滅型のティーンエイジの芸術家といえる。だから「もののあはれ」というより、「滅びの美学」に近く、それよりも「破滅の美学」に、もっと近い。

「もののあはれ」を描きたいのなら、あるいは、かわいそうな少年の話にしたいのなら、ネロの年齢設定を12歳以下の年齢にして、そして最後に見る絵をレンブラントにしますよ。
そんなちょっとした設定で、作者の意図が分かったりするもの。

とは言え、このような「読み」ができる人はそうはいないでしょう。文学研究者ふぜいでは無理でしょうしね。
そもそも一般的には、ルーベンスが不適切であるということも言われない。
ルーベンスが不適切であることは、美術に対する教養があれば分かるでしょうが、この作品中で頻繁に現れる、現実人生と芸術人生の対立の構図は、一般人の方は、教養ある方にも理解できないかも?

ちなみに、この「フランダースの犬」を今回読み直す際には、岩波少年文庫に収録されているもので読みました。その本には同時収録で、「ニュルンベルクのストーブ」という作品が掲載されております。この「ニュルンベルクのストーブ」においても、現実人生と芸術人生の対立がテーマとなっています。こちらの作品では、主人公は、最後にはその両立を成し遂げることができます。バイエルンの王様のおかげで、両立することができるわけです。この作品に登場するバイエルンの王様ルードヴィッヒは実在する王様で、芸術家を援助した王様でした。しかし、ルードヴィッヒ自身は、歴史上有名な破滅型です。彼を描いた有名な映画もありますよね?
芸術家を援助した王様のルードヴィッヒ自身は、現実人生と芸術人生の対立の中に破滅していきました。

「フランダースの犬」も、「ニュルンベルクのストーブ」のジャンル的には童話になるのかもしれませんが、作者はどんなジャンルでも、自分自身を反映させるもの。
なんでも、作者のウィーダは、最後には困窮の中で、お亡くなりになったとか。
だからダメダメということではなく、それを分かった上で、その選択をする例もあるわけです。

『どうして?』
多くの方が、そう思われるのは当然です。

「ニュルンベルクのストーブ」の最後の文は、こんなもの。
「普通の人には見えない景色を見、普通の人には聞こえない声を聞くことこそ、詩人や芸術家の才能というものなのですから。」
いやぁ!ウィーダさんもタイヘンだねぇ!
彼女も、見えてしまうだからしょうがないんですよ。何も見たくて見ているわけでもないし、聞きたくて聞こえるわけでもない。それに周囲の人に説明しても「ふつうの人には見えないし、聞こえない」んだから、どうしようもない。だから、どうしてもルーベンスではなくネロのような状況になってしまう。
しかし、だからこそ、ルーベンスの作品というより、芸術家としてのルーベンスの「あり方」に憧れることになる。

芸術的なフィーリングがない一般の人と、そんなフィーリングがある人とでは、同じ作品に接しても、やっぱり見方が違うもの。

日本人なりヨーロッパ人なり、大人なり子供なり、その分野の教養のあるなし、書き手の心理がわかる人と読み手に徹している人、あるいは芸術的なフィーリングがあるなし・・・色々な立場によって、ものの見方が違ってくる。
まあ、あまり特定の見解を押し付けてはダメですが、細かい部分部分を見てみると、作品の作り手の意図が見えてくるものなんですよ。見いだされた意図に賛成するしないは、当人の自由ですが、不自然な表現にも、それなりの意図があることが多いものなんですね。

このメールマガジンで言及しております子供の行動も、子供なりの意図なり、元になる体験があったりするもの。それを大人として、上からの論理で分かろうとしても無理というもの。むしろ、その子供の立場に自分をおいてみると、分かったりするものなんですよ。

今回は「フランダースの犬」を例示して考えて見ましたが、よく『作品をどのように受け取ろうと、観客や聴衆の自由だ!』なんておっしゃる方もいます。
まあ、確かに法律的には自由なんですが、そんな人の『見解』とやらを聞いてみると、やっぱり「つじつま」が合わないことが多い。「もし、作者がアナタが言っている考えで作品を作ったのなら、この部分は、このような設定にするのでは?」などとこちらが言ったりすると、相手は黙ってしまって、やり取りは終了してしまうことになる。

まあ、作品に接していると、「あ〜あ、この部分は同族にしか分からないだろうなぁ・・・」と思ったりする箇所も多いものなんですよ。
そんな時は、「・・・というか・・・いつのまに、自分は同族になっちまったんだ?!」とアタマを抱えることになってしまうものなんですが。

ウィーダの「フランダースの犬」を考える際にも、何も文学研究者の解釈論に参加するつもりはなくて、私としては、ただ「ウィーダの心そのものが見えて、ウィーダの心の声が聞こえる。」だけなんですよ。あるいは「ウィーダが見ているものが見えて、ウィーダが聞こえているものが聞こえる。」だけ。
まあ、それが同族というものなんでしょうね。

(終了)
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発信後記

さて、この「フランダースの犬」における主人公ネロは、原作では絵描き・・・つまり芸術家志望の15歳の青年です。
芸術家志望の青年となると、よくいうボヘミアンという言い方がありますよね?
ボヘミアンとなると、パリなどの大都会に住んでいるものですが、ネロはいわば「田舎のボヘミアン」という位置づけとなっているわけです。
そう見ると、作品中の設定もすんなり理解できるでしょ?

ボヘミアンというと、あらゆるオペラ作品中で、もっとも人気の高いオペアといえるプッチーニの「ラ・ボエーム」というオペラがあります。パリのボヘミアンたちの哀歓を描いたオペラ。
あるいは、ロック好きの方は、イギリスのバンドであるクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を思い出す方もいらっしゃるのでは?

「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞で描かれている心理と、この「フランダースの犬」におけるネロの心理は、実に近い。
ご興味がありましたら、今回の私の文章と合わせて、読み直してくださいな。
「ボヘミアン・ラプソディ」では、ガリレオとかフィガロなんて名前が出てきますが、ガリレオもフィガロも、現実社会の権力者と、自分の信念との「あつれき」に直面した人間の象徴なんでしょうね。

まあ、心理が近いからといって、「ボヘミアン・ラプソディ」の作者のフレディ・マーキュリーが、ネロのように15歳でお亡くなりになる・・・ということはありませんでしたが・・・
ただ、やっぱり似ているでしょ?

逆に言うと、「フランダースの犬」も、「ボヘミアン・ラプソディ」も、その受難の覚悟が示されているわけです。そんな作品は、他の作家にも結構あったりするものなんですよ。
その作家にとっての芸術家宣言のような作品。
往々にして、そんな作品は、「中期の冒頭」にあったりするもの。初期の習作や模索を経て、自分自身の能力や使命を実感して、「自分は、現実人生よりも、芸術人生を選ぶ。」そんな宣言がこもった作品を作るわけ。

受難を覚悟し、宣言したんだから、やっぱり受難になってしまう。
そんな受難は、芸術家にとっては「Anyone can see 」で「 Nothing really matters」なのも、昔からなんですね。

☆ 次週からは月曜日、水曜日、金曜日の週3回の配信にいたします。ですから、次回は17日(月曜日)の配信予定です。
次回は、短い文章にする予定ですので、その面ではご安心を。
R.11/1/15