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カテゴリー ダメダメ家庭の親のキャラクター
配信日 08年3月24日  (10年5月27日,10年10月29日 に記述を追加)
タイトル 親のオーラの不在 (保護者オーラ ,Holding)
以前にこのメールマガジンで、「ムンムンオーラ」というお題で配信したことがあります。
まあ、「オーラ」というものは、文章で伝えることは難しいもの。しかし、なんとなくフィーリング的に感じるものってありますよね?

それこそ、話かけやすそうな人とか・・・
私は道を聞かれることがよくありますが、どうやら、そんな雰囲気なんでしょう。

まあ、道を聞かれるくらいはともかく・・・
今回の文章で、ちょっと考えてみるのは、「親のオーラ」です。

法律上、あるいは、生物上は、その子供の親なんだろうけど・・・なんだか・・・あの人って・・・親の雰囲気がないなぁ・・・
そんな感じを持たされる人っていますよね?

まあ、マトモな親からは、親の電波が出ていて、ダメダメな親からは、そんな電波が出ていない・・・そんなことなら、その電波を測定すれば簡単。親のオーラって、そういうことなの?
しかし、現実はそんな感じで数値化できるものではありませんよ。

しかし、なんとなく感じる、親のオーラの不在。

そんな親は、往々にして、「反応」が違っているわけ。

マトモな親は、子育てにおいて当事者意識がある。
別の言い方をすると、「子供の保護者」として、自分を認定している。
自分が親として子供を守り、サポートする・・・そんな意識があるわけ。本来なら、そんなことは当然のこと。

しかし、ダメダメな親は、子育てというものは親である自分がこうむった被害と考えている。だから子供がどんなに困っていても知らん顔。むしろ「いつになったら、このワタシに迷惑をかけないようになるんだか・・・」と呆れた表情で子供を見るだけ。

そもそも、そんな表情の違いだけで、親のオーラってわかりますよね?

あるいは、近くで子供が遊んでいる。その近くで物音がした。
マトモな親だったら、「あれ?ウチの子に何かあったのかな?」と、その物音の方向を見て心配そうな表情になる。
しかし、ダメダメな親は、そんな物音にも我関せず。相変わらずおしゃべりを続けている。

あるいは、自分の子供が別の子供に悪さをしているようだ・・・ここで早めに注意しないと・・・
別のケースだと、子供がトンチンカンなことを言っているようだ・・・後で色々と説明しないとね・・・とか・・・
あるいは、自分の子供が他人から叱られている。こりゃタイヘンだ!ワタシもスグに行って一緒に謝らないと!
そんな目線とか顔の表情の違いって、現実にあったりするでしょ?

別の言い方をすると、ダメダメ家庭の親は、序列意識に基づいて、子供を「上から目線」で見ていても、「保護者目線」では見ていないわけ。保護者目線ではないんだから、子供は親に支配されていても、保護はされていないわけ。
そんな点が、ちょっとしたことでの反応の違いとして、実際に出てしまうもの。
その反応のズレが、子供にも伝わるわけです。

それに関連したこととなると、メラニー・クラインという学者さんは、「赤ん坊は母親の目を見ているだけでなく、自分を見ている母親の目を見ている。」と記しています。
つまり、赤ちゃんの段階から、母親の「反応」を「見ている」わけです。

生物学でいうインプリンティングというものがありますよね?
ひな鳥が、最初に見たものを親と認識するという習性です。
そのようなインプリンティングは、最初に見たものと言うより、自分からのアクションに対して最初に反応したものを自分の親と認識するわけです。そうでないと、卵の殻を親と認識するでしょ?ひな鳥が最初に見るものは卵の殻に決まっていますよ。
あるいは、集団で孵化したら、お互いを親と認識してしまうでしょ?
鳥だって、そんな事態にはならないように、本能的にできているもの。
自分の鳴き声に反応を示した存在を、自分の親と認識するわけ。このあたりのマターについては、私は専門家ではありませんので、詳細は購読者さんの方でお調べくださいな。

そういう意味では、生物というものは、反応によって、自分との心理的な距離を測る習性を持っているわけ。このようなことを、ある程度、意識的に行うケースについては、以前に「関係チェック」というお題で配信しております。

ダメダメな親は、子供がたてた物音なり、子供の行動なり、発言に一切反応しない。
そんな無反応が「親のオーラの不在」や「保護者オーラの不在」と感じる・・・それは人間の知的判断の問題ではなく、生物の次元ですでに持っている本能的な認識能力なんですね。

子供からのアクションに対して、ダメダメな親は反応しない。だから、子供は距離的には親の元にいる状態であっても、そのことが子供にとっての心理的な安心感にはつながらない。
子供にとっての心理的な安心感を与える親の役割を、ウィニコットという学者は「ホールディング(holding)」と表現しました。ホールディングとはまさに抱え込むこと。
そのホールディングについては、「母親は子供自身が自由に自分を表現し、その中で安心して遊ぶことができるような心的空間を提供し支える。」というもの。それって、今回考えております、親のオーラそのものでしょ?

別のところで、ダメダメ家庭の人間は「甘えの体験」ができないことについて書いています。その「甘え」ですが、「甘え」というのは日本固有のものであり、外国にはない・・・なる説明があったりします。甘えという言葉そのものはともかく、甘えというものを、今回考えております「親のオーラ」というか「Holding」の変種のようなものとしてみれば、何も日本人に固有のものではなく、外国の人というか、親が育児をする生物に共通するものであることがわかるでしょ?

安心感なり信頼感の原体験・・・それはどのような文化圏でも必要になってくるわけ。文化圏によって、ものの見方については、変動はあっても、本質は変わらないもの。
ダメダメ家庭の子供は、そんな「ホールディング」体験をしていないんだから、どうしても常に不安になってしまう。
「親の元に戻れば、なんとかなる。」という安心感がないわけ。

だからこそ、「帰る」という感覚がわからなくなる。
ダメダメ家庭の子供にしてみれば、いわゆる自分の家という場所も、心理的な帰還の地ではなく、地理的な観点からみての現住所や旧住所に過ぎないわけ。

自分の大切なものなり、かけがえのないものがある場所だからこそ、「帰る」という言葉となるわけであって、大切なものが何もないのなら、「行く」という言葉になるものでしょ?
リラックスできる場所とか、楽しい思い出とか、昔の自分の写真があるからこその「帰る」ですよ。

つまり、ダメダメ家庭出身者には「帰る場所」がないわけ。
いわゆる自分探しの旅も、帰る場所を求めての旅とも言えるのでは?
あの手の人たちは、「帰るために、方々を旅している」と言えるのでは?
当然のこととして、それは矛盾そのものですよ。だから、結局はそんな自分探しの旅では何も得られない。

帰る場所とは、リラックスできる場所であり、気を使わなくてもいい場所といえるでしょう。別の言い方をすると「ホールディング」された場所。しかし、そんな原体験がないがゆえに、一時的に気を使わなくても済んでいる場所しか得られない。
自分にとっての厳しいこと、不都合なことに、たまたま直面しないで済んでいる場所というだけ。楽しいとかリラックスとかの肯定のスタイルではなく、「今のところは、不都合な事態にはなっていない」という、二重否定的な平衡に過ぎないわけ。

そんな人は、自分が不都合な事態にならないために、先制的に自分の善意を主張し、相手から突っ込まれない状況を作り上げようとする。
相手から突っ込まれない状況であっても、本当のリラックスではなく、あるいは自分の目標が達成できる場所でもない。ただ、逃避に適しているというだけ。

「とりあえず」の居場所を求めようとするが、「今のところは、不都合な事態になっていない場所」というだけなので、ちょっとでも不都合な事態が発生すると、「ここじゃない!」「こんなんじゃない!」と、言い出し、プイっと、トンズラしてしまう。

それこそ、カポーティの「ティファニーで朝食を」におけるホリー・ゴライトリーとか、大相撲の朝青龍さんなんて、まさにそのパターンでしょ?

親のオーラと無縁の環境で育ったものは、帰るという感覚がわからない。
それこそ、
「おかえり!」
『ただいま!』
そんなやり取りが消失しているのがダメダメ家庭というもの。

たとえ、「おかえり」と言語的に言われても、その言葉に心がこもっていないので、「ウン」とかの言葉になって、「ただいま」という言葉にならない。
そんな、やり取りの不自然さ、居心地の悪さを描写した作品は多いでしょ?

だって、子供にしてみれば、「帰った」という感覚が理解できないんだから、挨拶のやり取りも、「形ばかり」のものになってしまいますよ。
ダメダメ家庭の子供にとっては、その手の挨拶というのは、「不都合な事態を発生させない」ための処世術であって、安心感を提供してくれる場所に戻ったことを確認するものではないわけ。

帰るという感覚がわからないんだから、それこそ、学校の同窓会とか、OB会でも、「帰るという感覚」がなく、召集されている感覚に近い。

そして、ちょっとでも安心感を持ったりすると、「こここそが、ボクの居場所だ!」とか「この人こそが、ボクの運命の人だ!」などと入れ込んだりする。
これではストーカー事件も起きますよ。

もし、そんなストーカーさんに会ったら聞いてみなさいな。
「アナタが今まで生きていて、安心感を持った人は誰?リラックスできた場所はどこ?」
しかし、ストーカーさんは、その問いから逃避するために、まさにストーキングをして、相手を凝視することで、そして自分自身から逃避するわけです。
相手を凝視することで、自分の不安から目をそらす。
そして、安心感とは無縁だった、自分の子供時代からも目をそらす。
そうやって、脱出口を自分で塞いで行ってしまって、最後にはドッカーンとなってしまうわけ。
R.10/10/29