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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 08年3月26日 (10年12月12日 記述を追加)
タイトル 情緒の二面性
このメールマガジンを購読されておられる方で、海外にお住まいの方もいらっしゃるようです。その方より、日本・・・というか、日本社会の問題点についてのご質問やご意見があったことがあります。

その方とのやり取りで、色々と考えさせられました。
日本人とか日本社会とかについてです。

とは言っても、日本人全体と言った形でカテゴリー的に考えるのは、面白くないので、別の視点から考えてみたいと思っています。

日本人は、実に情緒が細やかである。
まあ、民族云々なりカテゴリー云々はともかく、傾向として、そのように言えるでしょう。

今回の文章では、情緒が細やかなことによるプラス方向とマイナス方向という二面性について、考えてみたいと思っています。

情緒が細やかであることは、美質ですよ。
情緒が細やかなので、人とのやり取りでは「言わなくてもわかる。」ということが可能になったりする。
「言わなくてもわかる。」それ自体は、結構なことなんですが、それがネガティヴに進行するケースがあるわけ。

「言わなくてもわかる」人とのやり取りは、実にスムーズなんですが、「明確に言わないと、わかってくれない」あるいは、「言わなくても分かる人かどうかが、まだ判別していない」人とのやり取りが苦手になってしまう。ということで、ある種の排他性を持ってしまうわけです。
日本人が持っている排他性は、人種とか肌の色の問題ではなく、情緒を共有しないものへの警戒感の面が強いでしょ?
肌の色が違っていても、「あの人は我々日本人の感じ方をわかってくれる!」となると、喜んで仲間に入れることになる。現在でも黒人の演歌歌手がいるようですね?

情緒を共有できて仲間に入れる場合はいいとして、逆に言うと、「明確に言わないと、わかってくれない」人とどうやってやり取りしていくのか?その方法論を持っていないわけ。それこそ、ちょっと前に、空港への外資の規制なんて話もありました。情緒が通じない相手とどうやってやりとりするのか?多くの日本人は、それがわからない。だから入り口論として排他的となってしまう。排他的にならなくても、ルールを決め、言葉を使って明確に説明すれば済む話なんですが、「言わなくてもわかる」集団にいると、その経験の積み重ねがない。だから、明確に言うこと、それ自体が苦手になってしまう。

となると、言語の能力が向上しない。

言語というものは、コミュニケーションの道具であるばかりではなく、現状認識の道具であり、思考の道具でしょ?人間は、言語を使って思考しますよね?

「言わなくてもわかる」集団に安住してしまうと、現状認識能力が落ちるばかりではなく、思考力も向上しないわけ。向上しないどころか低下してしまう。それは、空港の外資規制での対応でも見られるように、高級官僚でも同じなんですね。

それこそ、ご近所の井戸端連中も典型的にそのパターンと言えるでしょう。
もちろん、井戸端連中が、そのやり取りにおいては、言語を的確に使う必要はないでしょう。そもそも井戸端会議は、議論を深め、相互が合意していくための「会議」ではなく、単なるおしゃべりの場なんですからね。
しかし、その手の集団においても、ちょっと毛色が変わった人が、新たに登場してきた場合には、その新たな人に対して明確な言語で説明していく必要があるでしょ?
「あなたも基本的にはやりたいようにやればいいけど、この点だけは守ってね!」と言う必要がありますよ。

しかし、「言わなくても分かる」状況に安住してしまうと、そんな簡単な説明もできなくなってしまう。「そのような状況では、相互理解を目的とした議論までは、わざわざする必要がない。」という選択や判断の問題ではなく、そもそも能力的にできなくなってしまうわけ。
だから、相違点を顕在化させるような新たな人間そのものを排除するしかない。
つまり、双方の違いを認めた上で、合意形成していくのではなく、違いの発生自体を排除しようとするわけです。
と言うことで、その集団も、どんどんと閉鎖的になり、その集団が腐ってくる。
情緒をやり取りするようなおしゃべりはできても、客観的な言語を用い、相互理解に基づき、合意を積み重ねていく会話の能力がなくなってしまう。

それに、情緒のやり取りしかできなくなってくると、逆に言うと、個人個人の情緒の自由度がなくなってしまう。だって、言語ではなく情緒が直接的に前に出てくるわけだから、その情緒の次元での相違から抑圧するようになってしまうわけです。
本来なら、個人がどのように思っていようと、それを実際の行動に移さなければいいだけでしょ?
しかし、情緒が前面に出てくると、そのようなことは言っていられなくなる。だから、情緒の段階から抑圧せざるを得ない。
しかし、それは人にしてみれば窮屈なことでしょ?

情緒が高いことはいいことと言えますが、言語能力が低くなってしまうは問題となるわけ。
しかし、言語能力は認識能力と直結しているがゆえに、言語能力が低いことを認識すること自体が難しい。だから、どんどんと言語能力が低くなってしまう。

言語能力が低い集団の周囲に、言語能力が高い人が来たりすると、混乱状態になり、片方はより一層情緒ばかりになり、言語的な人間は、「アイツら・・・何をわけ分からんことをやっているの?」となるだけ。と言うことで、単なる混乱がトラブルにまで発展してしまう。
情緒だけでやり取りをしてきた集団は、違いを認めた上での合意形成をする能力自体がなくなってしまっているから、発生してしまったそのトラブルも解決できない。
そもそも、片方の言語能力が高くても、もう一方の言語能力が低ければ、言語能力が高い側がいくら丁寧に説明しても、その説明を理解する能力がないということ。だから、言葉では解決できない。

言わなくてもいい、考えなくてもいい・・・それは、ある意味においては、すばらしい社会とも言えるわけですし、問題が発生することが少ないともいえるでしょう。しかし、いざ問題が発生してしまった場合の対処の能力が低い・・・そのように言えるわけです。
情緒が細やかなのはいいとして、それに甘えてしまっては、ダメになってしまうんですね。

それに情緒が細やかなので、人に配慮する。人の気持ちなり情緒にも配慮するわけ。
「人を気持ちを傷つけてはいけない。」なんて、親切心を持って、周囲の人に配慮するわけ。
それは、それなりに美質と言えますが、「人を傷つけてはいけない。」という名目の元で、現実を直視しようとはしないケースも多い。物事を突き詰めることなく「なあなあ」で済ませてしまう・・・そのようなことって、現実にあるでしょ?

いざ問題に直面したら、言語を持って認識し、理解し、判断し、打開していく必要があるわけです。
細やかな情緒は結構ですが、「それだけ」では対処できないんですね。

それに、情緒に安住していると、情感までには到達しないもの。
日本でも江戸時代の芸術は、意外にも、情緒を超えて情感まで到達しているものがあったりします。たぶん、江戸時代の人間の方が死に近いからでしょう。「メメント・モリ(死を忘れるな!)」であるがゆえに、永遠に到達できるもの。だからこそ、その言葉にも重みがある。
情緒とまりの人の言葉は軽くても、情感まで到達すると言葉が重いんですよ。
自分の存在を規定するような深い情感だからこそ、それを言葉として残そうとするので、言葉自体の力も強くなる。
逆に言うと、その人の言語能力の低さは、その人が薄っぺらい情感しか持っていないことなんですね。一本筋が通った情感とは無縁になっている。
情緒というのは所詮は断片でしょ?そこに安住していたら、その人の行動に一貫性などは生まれませんよ。そして、そんな人は外部からは理解されませんし、当然のこととして信頼もされないでしょ?

実は、海外の方からのご質問は、捕鯨問題における日本政府の対応が意味不明との話でした。
日本においては、政府でさえ、言語化された規律ではなく、ある種の「情緒」で運営されている・・・そう考えると、その意味不明さも、理解しやすいわけ。
言語ではなく情緒なんだから、どうしても主観的で主情的なものになってしまう。当然のこととして海外にお住まいの方には理解不能ですよ。ヨーロッパの思考の根本は、以前にも書きましたが「はじめに言葉ありき。」なんですからね。言葉で説明できない「情緒」なんて、どうやって理解したらいいの?

今(08年)、日本で首相をされている福田さんですが、一般的にKY(空気が読めない)なんて言われているようです。しかし、違うんですよ。彼は空気を読もうと必死なんですね。その読む対象の空気が、彼の身近な世界に限定されると言うだけ。彼は、自分の身近ではない人たちの空気は読む気はない。彼は、空気を読む気はあっても、言葉を聞く気はない。それが彼から離れた世界の住人にしてみれば、空気が読めないとなってしまう。
本来なら、言葉でもって、現状を認識し、理解し、説明する必要があるわけですが、彼にはそれがないでしょ?

情緒が細やかなのは、美質なんですが、「それだけ」では、ダメダメになってしまう。情緒だけではダメダメな問題が見えないし、理解もできないし、解決もできないわけ。
一見、美質といえる情緒の問題ですが、別の面から見ると、ダメダメにつながってしまう・・・そんなことにも考慮したほうがいいんですね。

(終了)
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発信後記

本文中で言及した、今現在の日本の首相をされておられる福田さんですが・・・
一連の対応を官房長官が「問題ない」とおっしゃっていました。

その「問題ない」という言葉が、ダメダメにお約束の「悪くはない」と、実質的に同義語であることはすぐにわかること。
まあ、何もやっていないし、何も考えないんだから、その言動に「問題ない」のも、論理的に正当ですよ。

しかし、そんな人は、「いても、いなくても問題ない」ということになる。というか、日銀総裁が、まさにそんな感じの扱いとなってしまいましたよね?
ダメダメって、その言葉を聞くと、スグにわかったりするものなんですよ。
R.10/12/11