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カテゴリー 判断と選択
配信日 08年4月30日 (10年10月28日,11年1月25日 記述を追加)
タイトル 一次判断と二次判断の乖離
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。自分で達成したい目標があるわけでもないし、自分自身の問題を自分で解決しようなんて思っていない。「て・き・と・う」に物事を始め、うまく行かなくなったら、「アイツのせいで・・・」と誰かを犯人認定して、その認定した『加害者』を恨んでいるだけ。

しかし、誰かを恨んでいるだけなので、当人としては、いたってラクなもの。
自分では何もしなくてもいいし、当然のこととして何も考える必要もないし、判断する必要もない。
ただ、「アイツのせいで・・・アイツのせいで・・・」と誰かを恨むだけ。

ダメダメな人は、そんな感じで、日頃から自分で判断することから逃避している。そんな人は、何かに接しても、感想どまりで終わってしまって、自分が判断するための材料にすることはない。
「ああ!面白かった!」
「あ〜あ、つまらなかった!」
「フンっ!くだらない!!」

そんな感想を持つのは当人の自由でしょう。しかし、判断することから逃避しているダメダメ人間は、その「感想」の段階で止まってしまうものなんですね。その一次的な「感想」が、自分自身の「判断」という次のステップにつながっていかない。

感想という一次判断と、自分が行動するための二次判断の間に乖離があるわけです。

まあ、一般論ばかりだと実感がわかないでしょうから、実例をあげてみましょう。

私の元に来た逆上メールで面白い表現がありました。
「アナタはアタマがおかしい!」・・・そんな表現です。
まあ、私の文章を読んで、「強烈な印象を受けた」のでしょうね。別にそのような感想を持つのは当人の自由ですよ。もしかしたら、その「アタマがおかしい!」という見解に心から同意なさる購読者さんもいらっしゃるかも?それも、別にいいんですよ。

しかし、そんな「アタマがおかしい人間」に抗議のメールを送っても意味ないのでは?
「アタマが、おかしくない」・・・つまりマトモな思考ができる相手だからこそ、抗議の文章も意味があるわけでしょ?
アタマがおかしい人だったら、抗議の文章の意味も理解できませんよ。
そんなロジックは小学生でも分かりますよ。

本当に「コイツはアタマがおかしい。」と思うのなら、そんな素っ頓狂な文章の存在を、知人に紹介して、一緒になって笑い飛ばせばいい話だけ。
違いますか?
つまり、「アタマがおかしい。」という感想はいいとして、それが自分の行動につながる判断に結びついていないんですね。

あるいは、このメールマガジンの文章に対する感想で「いつ読んでも、くだらない。」なる感想がありました。この文言は、以前に後記で紹介いたしましたが、この事例も、シュールでしょ?
「くだらない」という感想を持つのは自由でしょう。しかし、だったら、もう読まなければいい話ですよ。何も貴重な時間を使って、「いつも」くだらない文章を読む必要はありませんよ。
この事例も、感想と判断が、まったく乖離してしまっている。

何もこのメールマガジンに対してだけではありません。
映画などの感想を書いている人がいて、「つまらなかった。」なる感想の文章をわざわざ書いて公表したりする例もあります。その映画をつまらなく思うのは、当人の勝手でしょう。しかし、「つまらなかった。」とわざわざ公表する必要はないんじゃないの?

ヘタに「つまらなかった。」なんて主張すると、「コイツは・・・あのシーンやあのセリフの意味が何もわかっていない知的レヴェルなのに、上からの物言いをして・・・バッカじゃねーの?」と思われるだけ。公表した感想が当人の誤解に基づいたものだったら、いささかしょうがない点もあるでしょう。まあ、知的な面での問題は誰でもありますからね。しかし、理解できないということを大々的に公表しても、それこそが理解不能ですよ。それは知的な面での問題というよりも、心理の面での問題でしょ?
「つまらない。」と感想を持ったのなら、そんな作品は無視すればいいだけ。それが適切で常識的な判断というものでしょ?

まあ、その手の否定的な見解を、「わざわざ」公表する人が内心では言いたいことって、往々にしてコレなんですね。
「ボクはこんな作品に共感するような、悪い子じゃないんだヨ!」
いわば自己主張というより、自己弁護に近くなっている。

映画とかメールマガジンの文章などに接した際において、感想と判断が乖離してしまっているくらいは、実害はありません。
そんな領域は、趣味に近い面もある。もともとオバカが許される領域ですからね。しかし、そんな感想と判断が乖離しているような人は、趣味の世界だけでなく、現実においても、やっぱり素っ頓狂なことを言っていたりするもの。

一次判断と二次判断が乖離してしまうことが日常化すると、それこそ石原東京都知事の「ババァ」発言に対して「読むたびに、怒りの感情が巻き起こってきた!」なる抗議の発言となり、裁判を起こすような事態となってしまう。読んで腹がたったのなら、もう読まなければ済む話だし、そんなに腹が立ったのなら、次回の知事選挙で対立候補を立てるのが、腰の据わった判断ですよ。

このような乖離は、かなり以前に、このメールマガジンで配信した「ダメダメ家庭の人間は結婚前の問題点について、結婚後にグチる。」ことについての文章でも触れております。
それこそ、
「ウチのお父さん(=夫)は、結婚前からだらしない人で、本当に困ったものだったわ!結婚しても全然直らない!いつになったら、そのだらしなさが直るのかしら?」
そんな感じのグチになってしまう。

結婚前の時点において、「あの人は、だらしない人。」と、いわば一次判断したら、自分の行動のための判断は、「結婚しない。」というチョイスを取るのが一番マトモでしょ?そんなことは小学生でも分かること。
しかし、当事者意識がなく、普段から自分で判断することから逃避する人間は、一次的な感想が、自分の判断に結びついていない。

まあ、結婚前から「だらしない」くらいならまだしも、現実的にはもっとシリアスなケース・・・それこそ暴力のようなケースもあります。
それこそ「夫は結婚前から、ワタシに対して暴力を振るった。結婚後も、その悪癖はなおらない。ホントに困ったものだわ!」なる嘆きを、実際に聞いた方もいらっしゃるのでは?
まあ、ホントに困ったものですよ。どっちの側もね。

しかし、そんなグチを語るドメスティック・ヴァイオレンス(DV)被害の女性に同情したりする人もいたりする。そのような「同情する」人は、それこそ「ババァ」発言に対して、抗議の裁判をする人たちと共通しているでしょ?
一次的な感想が、二次的な判断に結びつかない人たちなんですね。
その手の人は知識なり学力はあっても、判断するための知性なり思考力は持っていない。
自分の判断のために、知性を使うのではなく、自分で判断することから逃避するために、持っている知識を使うだけ。

評価と行動の乖離となると、否定したものに対して継続的に関わるような事例ばかりではなく、肯定したものから距離を置くようなパターンもあったりする。
それこそ11年に話題になった恵まれない子供たちに援助の品を送るタイガーマスク運動があるそうですが、それに対し否定的なら、無視すればいいだけ。しかし、絶賛しているのなら、その人もやればいいだけですよ。

しかし、その手の人は、その手の運動をシンプルに肯定し、自分の行動に取り入れるのではなく、「否定している人を叩く」という二重否定のスタイルでしょ?「あんなに立派なことをやっている人を評価しないなんて、ケシカラン!」という調子でしょ?
そうやって、「肯定という名目」で、否定しているものを叩き続けることになる。
そんな姿は、「読めば読むほどくだらない。」と言っている人とメンタル的には共通しているわけです。

当事者意識があれば、自分の目標の達成に役に立つものに接するようになる。
役に立ちそうなものにアクセスするという流れになる。
この場合は、一次判断と、二次判断が乖離することはない。
しかし、ダメダメ人間は、当事者意識がなく、被害者意識ばかり。
だから、自分の被害に繋がるようなものに接しようとしてしまう。
イヤなものや、自分を否定するような存在に、わざわざアクセスする。
だからこそ、周囲から見ると、一次判断と、二次判断が乖離するように見えることになる。被害に繋がるようなものと、わざわざ接するわけだから、当然のこととして、トラブルになる。

感想だけは色々と持っても、それを自分の判断には生かさない。自分の判断に生かすのではなく、断片的な感想の状態で、得意気に公表するだけ。
そんなダメダメ人間がすることは、あら探し。
「あの○○のせいで、うまくいかない!」そんなロジックを作ろうとする。そのために、他者の「あら」を探し回る。
だからこそ、「この人と関わると、自分を被害者として認定できる!」と思えるものに、「わざわざ」近づいて行ってしまう。

「不快」な文章を一生懸命に読んだり、「不快」な人と一緒にいようとする。
そうして、実際に不快になって「コイツのせいで、うまくいかない!」「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、いつもの嘆き節。
そんな流れも、「嘆きを並べること」これ自体が目的と見れば、すんなり理解できるようになるでしょ?

ということで、自己逃避のダメダメ人間にしても、深層心理的には、まさに感想と行動はつながっているもの。自分が深層心理的に望んでいた不幸な状態を、実際に獲得することになる。
まさに、以前に紹介したアメリカの詩人エミリー・ディキンソンが言うように「予定していた苦しみを、自ら選んで」嘆きの声を上げることになる。
ただ、深層心理的なつながりなので、当人は自覚がない。
求めていた不幸を味わいながら、他者を恨むことで、ますます不幸になり、ますます嘆きの声を上げる。

ギャグのような例と思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭の周囲では、頻繁に見られるものなんですよ。

(終了)
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発信後記

インターネットのニュースサイトに載っていましたが、ヨーロッパのオーストリアで、自分の娘を地下に監禁し、レイプし続けた男性の話がありました。
さすがに、そのレヴェルだとダメダメどころじゃない。
ホントにアタマがおかしいレヴェルですよ。
その地下で生まれた子供は、生まれて以来、ずっとその地下の牢の中だったとのこと。

ちなみに、このメールマガジンを購読されておられる方で、ムダに教養がある方は、その話を聞いて、19世紀に起こったガスパル・ハウザー事件を思い出されたでしょう。
ドイツのバーデン・バーデンで起こった事件で、まさに生まれて以来、10年以上の間、ずっと地下牢に監禁されていた青年の事件です。
この事件は、王族の継承権が絡んだ事件であろうとされておりますが、詳細はわかっておりません。このガスパル・ハウザー事件については、哲学者のフォイエルバッハのお父さんのフォイエルバッハ氏による本もありますし、ドイツのウェルナー・ヘルツォーク監督による映画もありますから、ご興味がありましたら参照してみてください。

そのガスパル・ハウザー事件は、19世紀の事件ですが、17世紀のスペインの作家カルデロンによる戯曲「人生は夢」でも、父である王によって、王子が生まれてすぐに監禁される・・・というストーリーを持っています。まあ、17世紀のスペインの戯曲の流れのとおりに、実際のガスパル・ハウザー事件が起こったわけ。

ちなみに、その17世紀の戯曲「人生は夢」を、オーストリアの作家であるフーゴ・フォン・ホフマンスタールが20世紀に「塔」という戯曲に翻案したしました。
ご興味がありましたら、連休中にでも、読んでみてくださいな。

生まれてすぐに監禁という状況が、実際に起こってしまうと、とてもじゃないけどシリアス過ぎますが、フィクションだと色々と考えることができます。
生まれてすぐに、父親によって監禁という状況は、「子供の可能性を摘み取ってしまう親」のメタファーであり、そんな状況から「どうやって苦難に満ちた自分の過去を清算していくのか?」そんな問題意識につながっていきます。そして、そんな過去を持ったものが、「未来に向けてどうやって、自分の尊厳を獲得していくのか?」そのような課題につながっていくわけ。

昔も今もダメダメ家庭の問題は存在し、同じような課題が存在しているわけです。
以前にも引用したことがありますが、その「人生は夢」の冒頭にセリフにこのようなものがあります。監禁されている王子が言うセリフ。
「ああ!無惨な!情けない!この世に生を受けてより、いかなる過ちを犯したかどでこんな仕打ちを受けるのか是非にもそのわけが知りたい。最大の罪はこの世に生まれてきたことにあるのだから、この身の犯した罪は百も承知だ。・・・」

21世紀のオーストリアの地下牢の子供たちも、まったく同じ心境でしょうね。
そこまでのレヴェルだと、滅多にありませんが、レヴェルを下げると、日常的に起こっていること。
子供の可能性を摘み取り、尊厳を奪っていく親は、残念なことにポピュラーです。
そして、そんな状況からの簡単な解決などは、どんな時代でも、存在しないもの。
だからこそ、時代や地域が異なった芸術家が、同じような問題意識で作品を作ったりするわけ。

ちなみに、本文中でアメリカの詩人エミリー・ディキンソンに言及いたしましたが、カルデロンの「人生は夢」の中のセリフは、たびたび引用しております。
それは「嘆きを並べるのはまことに心楽しいものだから、自ら求めても嘆けとか・・」というセリフ。
ダメダメな人は、不幸な境遇を自ら求めて、そして心楽しい嘆きの声を上げる・・・
そんな人も、時代や場所を超えて、ポピュラーな存在でしょ?
R.11/1/25