トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭の人からのメール
配信日 08年5月2日 (11年2月9日 記述を追加)
タイトル 確認の儀式としてのメール (捨てセリフ的メール)
このメールマガジンでは、たびたび逆上メールについて触れたりしております。
幸か不幸か、この私は、いただけるもので・・・・

しかし、それを見込まれて?購読者さんから相談を受けたことがあります。
なんでも、その方の元に、逆上気味の携帯メールを送りつけられたとかで、意味が分からなくて無気味で不安とのこと。「アナタだったら、こんな逆上メールに慣れているだろうから、色々と教えてくれないか?」との依頼でした。

『いやぁ〜、逆上メールのオーソリティにされちゃったよ!』
『しっかし、適切な人選だなぁ・・・』と苦笑い。

私は、自分宛の逆上メールには接しておりますが、他人宛の逆上メールには接しているわけではありません。とは言え、その購読者さんに送りつけられた逆上メールの文面を読んでみると、やっぱり実に似ている。
その手の逆上メールは、逆上メールを送りつける先・・・つまり気に入らない人間に宛てて送っているというより、書いている人が自分自身に宛てて送っている・・・そんな点から見た方が理解しやすいものなんですよ。

「えっ?自分自身に逆上しているの?」
「そんなバカな!」
と思うでしょ?
いえいえ、自分自身に逆上しているわけではありませんヨ。
自分自身を納得させるための、逆上メールなんですね。

気に入らない相手に対して、自分自身の主張を語るというより、「オマエのせいで!」「全部アンタが悪いんだ!」と、メールの相手を犯人認定して、「自分こそが被害者なんだ。」と自分で認定し、「ワタシは悪くないっ!」と自己弁護する・・・その『関係性』を自分で納得させるための、逆上メールなんですよ。
別の言い方をすると、捨てセリフがそのままメールになったようなもの。
まさに「覚えてろよ!今度会った時には、ただじゃおかないからな!」そう言いながら、スゴスゴと逃げ出しているようなもの。
捨てセリフは、言葉としては、それなりに勇ましいものですが、実際には、「ボクが悪いんじゃないんだ!ボクは負けたんじゃないんだ!」と自分に納得させているだけでしょ?

深層心理的には自分自身に宛てているので、メールの形式的な宛先となっている人や第3者がその文面を見ても、「で、いったい何を言いたいの?」「ワタシはどうすればいいの?」と怪訝に思ってしまうのは当然のこと。送りつけられた購読者さんも、慣れていないんだから、パニックになってしまいますよ。

「相手に、このことを、分かってほしい・・・」という思いではなく、「ワタシは悪くない!」それを『自分に』納得させるだけなので、相手のことは何も考えていない。
相手に分かってほしいことがあるのなら、文面ももっと吟味するでしょ?
しかし、相手に分かってほしいことがそもそもないんだから、文面の吟味も何もありませんよ。むしろ、「自分で考える」ことからの逃避の手段としての逆上なんだから、文面を吟味する・・・つまり「それ以上に」考えることそれ自体がイヤなんですね。
この手のメールは、考えることからの逃避としての意味があるわけです。
まさに、「この件はこれでオシマイ!」とするための儀式のようなもの。
儀式をしておかないと、後々まで引きずってしまう可能性もあるでしょ?
自分で考えることが心理的に怖いダメダメ人間としては、某かの儀式で自分を納得させたいわけです。

ただ、「オマエのせいで!!」と、相手を犯人認定しているだけ。
だから、論理的にもメチャクチャ。

それこそ先日配信の文章で触れましたが、私宛の逆上メールで「アナタはアタマがおかしい。」なる表現がありました。まあ、この私の知性に、病的な欠落があると思うのはその人の勝手でしょう。しかし、だったら、そんな「アタマがおかしい」人に宛てて抗議の文章を送っても意味ありませんよ。
そんな行為そのものが・・・アレでしょ?
学校での国語の試験問題だったら、「どうしてこのメールの書き手は、こんな文面のメールを相手に送りつけたのか?」という問題が出来てしまうほどに簡単な心理でしょ?3択問題だったら、偏差値50以上の中学生だったら全員が正解ですよ。それくらいは、逆上メールを送りつけた人も、冷静なら、分かること。

しかし、メールの出した方としては、「コイツはアタマがおかしいんだ!」→「だからコイツの文章は読むに値しないし、考慮にも値しないんだ!」→「だから、自分にドンピシャに該当する記述があっても、無視してもいいんだ!」と自分で納得したいわけです。自分に納得させるためには、ある種の行為なり儀式が必要になってしまう。まあ、日頃から日記でもつけていれば、その日記に書けばいいのでしょうが、現実では、その気に入らない相手に対して、メールを送りつけるという行為で、その自己確認の儀式とするわけです。

逆に言うと、強い印象を受けた場合には、何か「アクション」を起こさなければ、あるいは、儀式をして「鎮め」なければ、いつまでも「心に残る」ことになる。自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、それが耐えられない。
まあ、私の文章が、よっぽど心理的なインパクトがあったんでしょうねぇ。
実はその私宛の逆上メールには面白い表現が、まだありました。

> 一行たりとも影響を受けたくなかったので、あまり真剣に読みませんでした。

とかの表現がありました。
まあ、上記の文が、ダメダメ人間にお約束の二重否定表現であることはスグに分かりますよね?「受けたくない」から「読まない」んだから、典型的な二重否定ですよ。
さて、じゃあ、この二重否定を解くとどうなるの?
「影響を受けたくなかったので、真剣に読みません。」
という命題?の論理的対偶を取ると、こうなります。
「読むと、絶対に影響を受ける。」

上記の2つの文章の論理が、基本的に同一なものであることは、数学が不得意だった購読者さんにも分かるでしょ?
まあ、曲がりなりにも文章を書いている私としては、ある意味において名誉なことですよ。
「読むと、絶対に影響を受ける。」文章を書いている人なんて、プロの物書きでも滅多にいないでしょ?読者さんからそんな評価をもらったことがわかったら、プロの物書きさんからの嫉妬を受けますよ。まあ、50年後くらいにはね。

そう言えば、以前に「この文章の書き手は、ワタシを洗脳しようとしている!」なんて言われたこともあったっけ・・・
よっぽどインパクトがある文章なんでしょうねぇ・・・
しかし、書いている私は、そんなつもりはありませんヨ。
私としては、「見えているものを、書いている。」だけであり、その文章によって、読者さんが「見えているものを、見えるようにする。」ただそれだけです。

まあ、現実的には「見たくないものを、見せられてしまった。」ので逆上した・・・そんなところなんでしょうね。
しかし、今まで気がつかなかったものを「見せられた」のなら、それを契機に、自分で考えればいいだけでしょ?
しかし、自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、考えることそれ自体がイヤ。
だから、自分で考えずに済むように、「悪いのはオマエだ!」「ワタシは悪くない!」と自分に納得させる行為というか、儀式をする。
まさに「祓いたまえぇ〜、鎮めたまえぇ〜、清めたまえ〜」という心理となっている。

まあ、逆上メールを送りつけるくらいなら、実害はありません。それに送りつけられても文章のネタになりますからね。
しかし、「悪いのはオマエだ!」「ワタシは悪くない!」と自分に納得させる行為となると、まさに児童虐待がその典型でしょ?

それこそ「子供が懐かないから、殴った!」なる言葉が、虐待している親からよく出てきますよね?
じゃあ、「殴ったら、懐くのか?」・・・と言うものではないでしょ?
しかし、「悪いのはオマエだ!」「ワタシは悪くない!」という関係性を自分自身に確認するためには、そんな「殴る」という行為も、儀式として有効になる。「子供のせいで、うまくいかない。」という関係性を自分に確認するためには、「殴る」という儀式が有効なんですね。
もちろん、このような確認の儀式は、児童虐待ばかりではなく、夫婦間のドメスティック・ヴァイオレンスにおいてもまったく一緒と言えます。
あるいは、家庭内ばかりではなく、学校などでのイジメにおいても、まったく一緒でしょ?

個別の人間に対しメールでいやがらせをするパターン以外にも、それこそインターネットの掲示板が、嫌がらせとして有効に?利用されることも多い。あるいは、ブログを炎上させるのも、相手に分かってほしいことがあるというよりも、「コイツのせいで上手く行かない。」「オレはこいつによる被害者なんだ。」という関係性を自分に確認させる儀式なんですね。逆に言うと、そんなところで嫌がらせに励んでいる人は、自分の子供を虐待しているか、今はまだしていなくても、ちょっとしたトリガーがあると、そんな事態になってしまう人と言えます。
まさに、自分に確認させるために、暴力的な行為をするメンタリティなんですからね。

気に入らない誰かに対する嫌がらせは、「ワタシは悪くない!」ということを、自分に納得させるための儀式になる。
そんな人は、「気に入らない」対象については、シチュエーションによって変遷したりはしても、そのメンタリティはいつまでも変わらない。
不都合な事態になると、自分自身を納得させるために、他者に嫌がらせをし続ける。
それこそ、韓国人の行動も、その典型でしょ?

逆に言うと、逆上メールを送りつけている人と結婚したらどうなってしまうの?そんな人が親となり、その子育てがどんな結果になるの?そんなことはスグに分かることでしょ?だって、都合が悪くなると、スグに誰かを犯人認定する儀式に取り掛かるんだから、処置なしですよ。しかし、そんな人間が出来るのは子作りだけ。そんな人間が自分の相手をさせることができるのは、自分の子供だけ。何回も書いていますが、それが現実なんですね。だからトラブルがますます大きくなってしまう。
しかし、トラブルが大きくなっても、ダメダメな人は、自己納得の儀式のスケールを大きくするだけ。
結局は、「ワタシは悪くない!」と言い続け、そのことを自分に『確認させるための儀式』をやり続けるものなんですね。

このような「ワタシが悪いわけではない。」ということを自分に確認させる行為は、電子メールやインターネットの掲示板のようなハイテク?なものばかりではありません。

別のところで購読者さんから補足文章がありますが、以前に起った栃木県のリンチ殺人事件で「犯人の少年」の母親が、「殺された少年」の母親に対して、クレームの電話をしたそうです。「アンタの子供のせいで、ワタシの子供が殺人事件を起こしてしまった・・・」という抗議のようです。
ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強く、そして、「自分こそが一番かわいそうな被害者なんだ!」という被害者信念を持っていることがあります。
「自分こそが一番かわいそうな被害者」と確信しているので、自分以外の人間の心情などには配慮しない。

しかし、自分に関わる事件があり、いわば加害者に近い立ち位置となってしまいそうになると、「自分こそが一番かわいそうな被害者なんだ。」という設定が揺らぐことになり、それまでの自分のアイデンティティが崩れてしまう。そんな事態を避けるために、「自分こそがかわいそうなんだ。」「オマエの側が悪いんだ!」と自分自身に確認させる儀式をするわけです。その儀式が、電子メールだけでなく、電話のケースもあるわけです。逆上メールを送られても、送りつけられた側は、あっけにとられるだけなのと同じように、自分の子供を殺害した事件の犯人の側からの抗議の電話を受けても、対処はできないでしょ?謝罪の電話ならともかく、抗議というか、「コッチこそが被害者なんだ!」とアピールされても、途方にくれるだけですよ。しかし、電話やメールをした側は相手に対処をして欲しくて、メールなり電話をしたわけではないんですね。ただ、自分を納得させたいだけ。そのための儀式をしているだけなんです。その儀式によって、従来からの自分の被害者信念を疑わずに済ませることができる。

自分の子供によって殺害された被害者の親への抗議の電話も、逆上メールを送りつける行為も、「懐かない」という理由で、子供を殴ったりするメンタリティと共通しているわけです。その手の行為は、相手を弾劾する儀式によって、思考停止を獲得しようとしているわけです。逆に言うと、ちょっとした逆上メールを出す行為も、そのまま突き進んでしまうと、誰かをレイプして、「オマエがオレを誘ったんじゃないか!」と言いだし、レイプの被害者を弾劾するようなことをしたり、あるいは、子供ができてしまったら、その子供を虐待する可能性も少なからず持っているわけです。

ダメダメ人間は、自分で考えることを恐怖し、思考停止を求めている。それだけでなく、相手というものが見えていない。そんな人は、自分を納得させるための儀式を行うことで、認識や思考から逃避しようとする。自分を納得させるための行為なので、その相手なり、周囲の人にしてみれば、その意図がさっぱり分からないのは当然のこと。
そんなことをする人自身が危険というだけではなく、そんな人が子供を育てたらマトモに育つわけがないでしょ?
ということで、まさに栃木県の事件を発生させる心理的な土壌となってしまうわけです。

(終了)
***************************************************
発信後記

このメールマガジンではたびたび韓国人の行動に言及いたしますが、別に「民族的な偏見」があるわけではありません。このメールマガジンの文章をまとめる際には、できるだけ実例を多くあげて記述したいと思っているので、手っ取り早く実例が見つかる韓国人の行動が役に立つんですよ。

もちろん、すべての韓国人がダメダメと申し上げているわけではありません。ダメダメの実例を探しに、韓国の新聞の日本語サイトを見たりしますが、たまには、実に「マトモ」な見解も載ってあったりする。朝鮮日報の柳論説委員は、実にマトモ。
「アタマでっかちではダメだ!」「目の前の現実をしっかり見ようよ!」
と、私と同じことを言っている。たいしたオヤジだよ。

ちょっと前にその柳論説委員の文章で脱北者の手記に言及しておりました。
手記を書いたその脱北者は、北朝鮮で活動する赤十字の人たちの姿に腹が立ったんだそう。

このメールマガジンでは、赤十字とかユニセフのようなボランティアの人たちのことをボロクソに書いております。北朝鮮で「援助」をしている赤十字の人たちも、困っている人たちを本気で助けようと思っているのなら、食料を援助するだけではダメでしょ?

「ああ!この人たちは、なんてお気の毒なんだ!」
「そんなお気の毒な人たちに援助しているボクたちって、なんていい人なんだ!」
と、自己認定していてもダメでしょ?もっと目の前の現実を直視する必要があるでしょ?
目の前の厳しい現実から目を背けて、「通りのいい」善意をこれ見よがしにアピールするなんて、心が貧しいの一語ですよ。

しかし、そんな心の貧しい、ダメダメな人間だからこそ、「人に恵んでやる」という儀式を通して、「ボクっていい子だよ!」と認定したいわけ。
その脱北者の方も、そんな赤十字の連中の「心の貧しさ」を直視したからこそ、脱北する覚悟ができたのでしょうね。真剣に生きている人は、見せ掛けの善意の胡散臭さに、いずれは気がつくもの。

もちろん、そんな『目の前の厳しい現実から目を背けて、「通りのいい」善意をこれ見よがしにアピールする』人は、朝鮮半島だけの存在ではありませんよね?
日本で、ちょっと前に「芸人」の北野たけしさんが、ある人に対して、そんな文句を言っていたようですが・・・
まあ、その手の「ボクっていい子でしょ?」の押し売りに、胡散臭さを感じないようだったら、感性が干からびていますよ。

そんな干からびた感性の人は、ただ感性が干からびているだけではなく、日頃から目の前の現状を見ていないというか、見ようとしないわけ。
現実を直視することで、「ワタシはいい子」という認定が崩れてしまうことが怖い。だからこそ、ますます権威筋認定の「通りのいい」行動をしたがる。

そういう人は、逆上傾向もあるものです。自分を「いい子」と見せるためには、何をしでかすかわからない存在。ホント、現実的には危険な存在なんですよ。
R.11/2/9