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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年5月9日 (11年2月3日 記述を追加)
タイトル ティファニーで朝食を (1958年刊行の小説版です)
作者 トルーマン・カポーティ
このメールマガジンでは、映画女優のオードリー・ヘップバーンが出演している映画を、以前に取り上げております。「麗しのサブリナ」と「マイ・フェア・レイディ」の2作です。
「サブリナ」においては、母親の写真の不在という点に注目し、母と娘の心理的葛藤について考えております。
また「マイ・フェア・レイディ」を取り上げた文章においては、「困っている人」「トラブルを抱えた人」をどのようにサポートするのか?そのような方法論を考えております。原作者としても単純なラヴ・コメとして作っているわけでもありませんし、作品の受け手である私としても、単純なラヴ・コメとして考えてはおりません。

さて、今回は「ティファニーで朝食を」を取り上げますが、今回の文章で考えるのは、オードリー・ヘップバーンが主演した映画の方ではなく、その元になったトルーマン・カポーティの原作の方です。
作者のカポーティについては、彼のノンフィクション・ノヴェルである「冷血」を取り上げたことがありますし、その「冷血」という作品を書く過程を描いた「カポーティ」という映画も取り上げたことがあります。
まあ、「ティファニーで朝食を」という作品を取り上げるのは、色々な意味で、このメールマガジンにふさわしいと言えるでしょう。俗に言う、ミッシング・リンクと言えるかも?

この「ティファニーで朝食を」という作品は、映画版の方はラヴ・コメにシフトしていますが、原作の小説版の方は、ダメダメ家庭出身者ならではの、「いたいたしさ」が顕著に描かれているんですね。
映画版においてオードリー・ヘップバーンが演じた、そのホリー・ゴライトリーの珍妙な行動は、ダメダメ家庭出身の人間がよくやっているもの。
そんな観点から、この「ティファニーで朝食を」という「小説」を考えて見ましょう。

さて、この「ティファニーで朝食を」という作品は、ニューヨークを舞台にしています。若い小説家が語り手となって、ホリー・ゴライトリーの行動を語っていきます。と言っても、時系列的には、ちょっとヒネリがあります。その若い小説家の回想という形で、ホリー・ゴライトリーの行動が語られていきます。
淡い恋心と、心痛む懐かしさ・・・そんな心情が入り混じった「回想」なんですね。

ホリー・ゴライトリーは、自分が本当にやりたいことについて考えることから逃避している。だから、その場その場の断片的な状況判断で突っ走ってしまい、じっくりと現状認識をすることはない。そして、いつも余裕がない。そもそも、ホリー・ゴライトリーが自分の夢として語る「ティファニーで朝食を食べる。」ということだって、実現の可能性はゼロでしょ?だって、ティファニーにはカフェテリアはないんだから、食事のしようがない。いくらお金があっても、ないものはないんだから、無理ですよ。

つまり、ホリー・ゴライトリーの夢も、いわば、「何とかして達成したい。」という確たる目標ではなく、「こうなればいいなぁ・・・」「こんなことがあればいいなぁ・・・」と、ただ漠然と思っているだけ。別の言い方をすると、とにもかくにも自分の現実から逃避したいだけ。夢と言っても、希望(=hope)や目標にはなっていなくて、漠然とした願望どまりなんですね。

ホリー・ゴライトリーは、常に逃避している。
これは、ホリーがよく口ずさんでいる歌の文句で、象徴的に表現されています。

♪ 眠りたくもないし、
  死にたくもない、
  ただ旅をして行きたいだけ、
  大空の牧場を通って。 ♪
  
  ちなみに原文は
  Don’t wanna sleep,
  Don’t wanna die,
  Just wanna go a-travli’
  through the pastures of the sky.
  
何ともまぁ!否定形の発想でしょ?
そんな歌を聞かされても、まさにダメダメにお約束の「じゃあ、アンタは、結局は、どうしたいの?」と言いたくなってしまう。

と言うことで、ホリー・ゴライトリーが否定しているもの、あるいは、持っていないものをピックアップして、ダメダメ家庭出身者の問題を考えてみましょう。

1. 苗字の否定・・・ホリー・ゴライトリーのゴライトリーは結婚後の苗字です。彼女は弟と一緒に実家から家出して、家出中に14歳で獣医師に拾われて、そこで結婚して、相手方のゴライトリーの苗字を名乗ることになりました。しかし、そのゴライトリーさんの家からも逃げ出して、ニューヨークにやって来ました。ゴライトリーさんの家では、虐待があったわけでもありませんし、むしろ大切にされていたのですが、それこそ、何となく逃げ出したわけです。しかし、苗字はゴライトリーのままで、旧姓に戻すこともしない。ダメダメ家庭出身の人間は、自分の親から受け継いだものを否定したがる。その最たるものが、苗字です。実際に、離婚した後でも、旧姓に戻らない女性って多いものなんですよ。

2. 名前へのぎこちなさ・・・親から受け継いだ苗字を否定するホリーですが、名前にもぎこちなさがある。自分が飼っているネコの名前も決めようとしない。あるいは近隣の人間の名前を覚えようとしない。そのような名前へのぎこちなさって、ダメダメ家庭出身者の典型的な状況といえます。そもそもダメダメ家庭では、親は子供の名前を呼ばない。だから、名前というものに対して、名前を呼ぶことに対して、どうしてもなじめなくなってしまう。
彼女は、確たる信念があって、猫に名前を付けないのではなく、名前について考えること自体がイヤなんですね。

3. 目標がない・・・ホリーは、それこそ歌の文句のように、フワフワしている。何かやり遂げたいというものがない。

4. 地道さがない・・・目標がないので、自分なりに地道に努力するという発想がない。

5. 当事者意識がない・・・当事者意識がないので、何かうまく行かないことがちょっとでもあると、それを自分で対処しようとはせずに、プイっと逃げ出してしまう。

6. 常識がない・・・親から常識を受け継いでいないので、なんともまあ非常識。人への迷惑などには頓着しない。

7. 余裕がない・・・いざとなったら誰かが自分を守ってくれるという周囲に対する信頼がなく、精神的に安心感がないので、何をやっても余裕がない。余裕がないから、ますます事件に巻き込まれやすい。

・・・まあ、そんな女性。
近くにいると、迷惑しそうな人と言えるでしょう。
しかし、この手の人間は、ある程度の距離を保つと、意外にも魅力的だったりするもの。
その余裕のなさも、別の言い方をすると、切実さや真剣さとも言えるわけだから、周囲の人間にしてみれば、それが魅力的に見えたりする。何とかして守ってあげたいと思う時もある。しかし、当人は自分自身が分かっていないので、一時的に守ることができても、またトラブルを起こしてしまう。

ホリー・ゴライトリーって、まさにそんな人。
だから、ホリー・ゴライトリーは記憶の中に生きる人なんですね。
小説版での「ティファニーで朝食を」が、語り手の「回想」という形になっているのはわけがある。
記憶の中では、実に魅力的。しかし、実際に顔を合わせて一緒に行動すると迷惑この上ない。

遠くにいて実際にやり取りがない人は、その人にいい評価をするけど、実際に近くでやり取りしている人は、その人のことを、あまりよく言わない・・・そんな類の人っていたりするでしょ?
それこそ、田中真紀子さんなんて、そのパターンでしょ?
あるいは、イギリスのダイアナさんだって、それに近いでしょ?
あるいは、日本の歴史上の人物だと、源義経がその典型ですよね?
最近ではボクシングの亀田兄弟がそれに近いのかも?
あるいは、大相撲の朝青龍さんもそのパターンと言えるでしょう。

その手の人って、まさにこのホリー・ゴライトリーのように、「こうじゃない!」と否定形ばかりで、地道さがなくて、余裕もないもの。この点は、以前に配信した「背伸び」のパターンに近い。自分の目の前の現実から目を背け、自分自身を否定して、やたら背伸びをして格好のいいことをしたがる。だから、いつもうまく行かずに、常にトラブル状態。
しかし、余裕のなさが、「愛を求める」「安らぎを求める」表情につながるので、雰囲気的には魅力があったりする。しかし、自分自身が分かっていないし、会話の能力がないので、その人と実際にやり取りすると、困惑することに。

この手のキャラクターとなると、トルストイ描くアンナ・カレーニナもまさにその典型と言えるでしょう。アンナさんも、ホリーも常に断片的であり、目先のものに食いついて、そしてトラブルになり、大騒ぎとなってしまう。そんなキャラクターを「自身の感情に正直」とみなすボンクラさんもいらっしゃるようですが、断片への過剰なこだわりは、逆に言うと、「どんなことがあっても、やり遂げたい」ものの不在なんですね。
彼女らは、断片的な感情はあっても、全身を貫く情熱は持っていない。
貴族の夫人であろうと、ニューヨークのオバカさんであろうと、自己逃避という点からみると、彼女らは実に共通性が高いでしょ?
アンナも、ホリーも、現実社会ではお騒がせキャラにすぎないわけです。
しかし、それゆえに、離れた位置から見ると、印象に残ることになる。

記憶の中で魅力的な人は、残念ながら、現実のこの世界ではうまく生きられない。
しかし、ダメダメ家庭の出身者だったら、記憶の中に生きるのもアリなのかも?
この「ティファニーで朝食を」の作者であるトルーマン・カポーティ自身が、その後どうなったのか?
それを併せて考えると、記憶の中に生きるという状況は、示唆的でしょ?

この手の人間は、安住とは縁がない。「ただ、旅をして行きたいだけ」と言っているわけだから、言葉の上では、その安住の地を求めていないとも言えますが、深層心理的にはその安住を強く求めている。強く求めているからこそ、「ここじゃない!」「こんなんじゃない!」「もっといいところがあるはずだ!」と現状を否定してしまう。
この手の人は、「帰る場所」を求めて彷徨っている。
彷徨いの中で幻影のように現れた、「帰る場所」や「安住の地」に飛びつく。
しかし、所詮は幻影なので、その幻影が終わってしまったら、別の「帰る場所」を求めて旅立つ。
そんな行為が、ますます安住から遠いものにする。
ホリー・ゴライトリーだけでなく、田中真紀子さんも、ダイアナさんも、そんな感じでしょ?たぶん、カポーティ自身もそんなところがあるのでは?

カポーティによる小説版の最後は、こんなセンテンスです。
『ともかくホリーにも、どこか安住の地があってほしいもんだ、と私は心に祈った。』
ホリーはともかく、カポーティ自身は、安住の地があったのかな?
あってほしいと、私も思いますよ。

その安住の地がどこなのか?
結局は、思い出の中じゃないの?
そんな人は、現実の世界から立ち去り、思い出の住人となって初めて、その人の美質を認めてもらうことができる。

現実ではなく、思い出の中だけで生きられる人間。
残り香だけが実体になっている人間。
ホリー・ゴライトリーは、はっきり言ってオバカさんなんだから、まあ、それもいいでしょう。どうせ自覚があるわけでも、出来るわけもないんだし。
しかし、オバカではない田中真紀子さんやダイアナさんは、ちょっとツライ思いをすることになる。

そして、天才であるトルーマン・カポーティはどう思うの?
トルーマン・カポーティ自身としては、現実の自分には、まったく安住がなく、思い出の中だけに安住があるという『自分自身』を自覚して、何を考えるんだろう?
その自覚が、生きているうちに芽生えたのなら、どうするんだろう?

ボンクラは何も考えなくてもいいんだから、ラク。
しかし、天才は、ものが見えすぎてしまい、ラクじゃない。
「自分は、思い出の中だけで、生きられる。」そんな自覚は、生きているうちには芽生えてほしくないもの。生きているうちには安住がないという認識こそが、安住から、より遠いものにしてしまう。

だからこそ、その安住の地があってほしいと、この私も思うんですよ。

(終了)
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発信後記

この「ティファニーで朝食を」は文庫本で150ページほどですので、簡単に読めると思います。週末にでも読んでみてくださいな。
ちなみに、今回の訳や新潮文庫から採っております。
文庫には、翻訳者さんによる「解説」も載っていますが・・・
まあ、お暇でしたら、その文庫版の「解説」と、今回の私のメールマガジンの文章を比べてみてくださいな。
私が以前に後記でちょっと触れましたが、「理解のためには、問題意識の共有が必要である」、ということが実感できると思います。
もちろん、翻訳の方は字面を追うのが仕事なんだから、しょうがないけど・・・
R.11/2/3