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カテゴリー 弁解と謝罪
配信日 08年6月11日 (10年10月27日 記述を追加)
タイトル 病人だから許される!
よく事件があったりすると、犯人の精神状況が問題になったりしますよね?
「犯人は、その時は精神耗弱の状況にあった・・・善悪の判断ができない状態だった・・・だから犯人は悪くないんだ!」
・・・な〜んて、弁護の言葉が、いわばお約束。

しかし、善悪の判断ができないような人間だからこそ危険と言えるのでは?
善悪の判断ができないから、倫理的に見て「悪くない」とも言えるのかもしれませんが、「処罰はともかく、じゃあ、一般社会から隔離してよ!」と思うでしょ?

いずれにせよ、善悪の判断ができないような人間の責任を問うても、確かに難しい。
その後の「扱い」は別として、その人本人に対しては、何も言われないもの。だって、言ってもわかる人というわけではないんだし・・・
つまり、状況的には、「許して」もらえるわけ。

まあ、実際に精神に疾患があるようなケースなら、そんなこともありでしょう。
しかし、ダメダメ人間も似たようなことをやっているものなんですね。
「ワタシはかわいそうな被害者なんだから、周囲の人に何をやってもいいんだ!」
そのように確信していて、実際に周囲に迷惑をかけて、人からクレームを付けられると、「だってぇ・・・だってぇ・・・そんなことくらいいいじゃないの?ワタシはこんなにかわいそうな人間なのよ!」と開き直るわけ。

その人の行動なり発言に対して、人から注意などがあったりすると、お約束のように「ワタシは、かわいそうな被害者なんだから・・・」と反論したりする。
それこそ、平気でウソをついたり、相談の場においては、情報の小出しをしたり、自分が合意した約束など平気で反故にする・・・あるいは、人とのやり取りにおいて、粗暴な言葉を平気で使ったりする。
そうして、「そんなことをしてはダメ!」なんて怒られると、お約束のように、「ワタシは、こんなかわいそうな人間なんだから・・・」「ワタシこそが被害者なんだから・・・」と反論して、勝手に納得してしまう。

それこそ、日本でフェミニズムの闘士として活躍されておられる女性なんてその典型でしょ?あるいは、韓国人もそんなパターンですよね?
あるいは、国家としての北朝鮮が、絵に描いたようにこんな行動パターンでしょ?

たとえ実際に、その人が「かわいそう」な境遇だとしても、そんな感じでスグにウソをついたりするような人間をマトモな人は相手にしませんよ。
だってウソをつくような人間とやり取りする意味がないじゃないの?どうせ、その言葉だってウソの可能性も高いわけだから、そんなウソの言葉を元に判断しようがないでしょ?

病人だから「許してもらえる」かもしれませんが、だからと言って、「相手にしてもらえる」ことにはならないでしょ?「自分はかわいそうな病人なんだから、他人には何をやってもいい。」・・・そう主張する人の相手をしようとするマトモな人はいないでしょ?もし、いたら命知らずの無鉄砲者ですよ。

しかし、そんな『自称』かわいそうな人間に限って、「ワタシに構って!」と周囲にチョッカイを掛けて来たりするもの。相手にされないと、「ワタシはかわいそうな被害者なんだから、相手をしてよ!」と主張する。
そうして、お約束のようにトラブルになって、相手から文句を言われて「だってぇ・・・だってぇ・・・」と拗ねるだけ。そうして、そんな人が唯一主張するのが、やっぱり「ワタシはかわいそうな・・・」「そのことをわかってほしい!」と言うことになってしまう。

結局は、相手をしてくれるのはボランティアのような、病人を相手にする人間だけになってしまって、健全な社会からますます遊離してしまうだけ。
あるいは、まさにその手の病人の巣窟といえるインターネットの掲示板に入れ込んでしまう。

一般社会から見捨てられてしまって、そんな人がグチるのは、やっぱりお約束の言葉。
「ああ!どうしてこんなことに?!ワタシはただ『ふつう』の生活をしたかっただけなのに・・・」。

ワタシは「ふ・つ・う」の・・・も何も、そんな人は自身で、「自分はかわいそうな病人」などと別のところで言っているじゃないの?身体的な病気なら、自覚した上で、快癒してマトモになることもあるけど、精神的なダメダメは、「味を占めてしまって」そんなことを繰り返すばかり。

自分の欠点というか、問題点というか、まあ、病気を自覚した場合には、その病気を何とかして治していこうとマトモな人は考えるわけですが、病人であることに安住して、むしろそれを積極的に主張していこうというパターンもあるわけ。
ダメダメな人間がどっちなのかはわかりきったことでしょ?
だから、ずっと病気のまま。
病気だとボランティアの連中に構ってもらえ、インターネットの掲示板では同病相哀れむ状態を獲得でき、同情の言葉も得られる。
これはダメダメ人間にしてみれば、実にオイシイこと。

だから、ダメダメ人間は、
「ワタシは、ふつうの・・・」と主張し、
「ワタシは、病人なんだ!」とも主張する。

いったいどっちなのさ?
そんな人の相手をしている方が病気になってしまいますよ。

もちろん、そんな人の相手をする周囲のマトモな人は、まあ、いないもの。
周囲に対しては、「ワタシは病人だから構ってほしい。」と言いたいのでしょうが、そんな危険人物は、現実としては、「アイツは病人だから隔離しなきゃ。」となるもの。
敢えて関わろうとする人がいるとしたらボランティアのような「同病」の人間だけ。しかし、ボランティアは最後までは付き合ったりはしないもの。だから、そんな人の相手をするのは、結局は、自分の子供だけになってしまう。

そうして、自分の子供に、自分の被害を語り続ける。
「オマエを育てるために、ワタシの人生を棒に振った!」
そうして、「子供を育てるために、こんなにイヤな思いをしたんだから、オマエには何をやってもいいんだぞ!」「オレはかわいそうな被害者なんだから、人にどんなことをやってもいいんだ!」と高らかに主張し、子供に教育する。

そんな言葉を聞かされ続けると、そりゃ、秋葉原でドッカーンとやるようなことになっちゃいますよ。
逆に言うと、あんな「大きな」事件も、カンタンに予想できるものなんですね。

ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がなく、被害者意識だけがある。
何事においても、やらされているという被害者感覚であり、当然のこととして自分の子供を育てることも、親である自分が背負わされた被害として認識している。そして、その被害を子供に主張し続ける。
自分を被害者としてしか自分を説明できない。つまり病人であるとしてしかアイデンティティがないわけ。
だから、ちょっとのことで、「ワタシはかわいそうな・・・」との病人主張になってしまう。
スグにそんな弁解をする人ということは、その当人その人が危険人物というだけでなく、そんな親によって育てられている子供も危険をはらんでいるわけです。

そして、そんな人たちからは適切な距離を取る必要があるというだけでなく、そんな状況から子供を救い出すには、まずは、そんな親から引き離すしかないわけ。
しかし、子供をそんな親から引き離そうとすると、その親の被害者意識が爆発することになる。

そんな親は「ワタシは病人なんだから、周囲の人間には何をやってもいいんだ!」と思っているわけですが、だからこそ、「ワタシは病人なんだから、子供を持ってもいいんだ!」「こんなかわいそうな人間なんだから、子供を持つくらいのことはいいじゃないの?!」というロジックになっているわけ。
そんなロジックは、その人なりのロジックとしては成立しても、結果的にトラブルになるのは確実でしょ?
そんな親によって育てられたら、それこそ秋葉原の事件を起こすのも、不自然なことではないでしょ?

そんなロジックを臆面もなく主張されたら、どんな感じでやり取りをすればいいの?
周囲の人としても、ただ、脱力するだけでしょ?だって、何も言い様がありませんものね。
周囲の人はまだしも、堂々と「ワタシは病人」と主張する人間の子供は、親に対してどんな対処をすればいいの?
しかし、自称「かわいそうなワタシ」さんは、トラブルになっても、「ワタシはかわいそうな被害者なんだから、これくらいはいいじゃないの?」と相変わらず弁解ばかり。
これがギャグではなく、リアルで起こっている・・・それがダメダメ家庭の現実なんですね。

(終了)
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発信後記

今回のお題に近い内容は、頻繁に配信しております。
まあ、実際にこんな情景を体験した人もいらっしゃるのでは?

本文中でも言及しております、先日の秋葉原の事件ですが・・・
やっぱり秋葉原という場所の特殊性を抜きに考えても、理解はできないでしょう。
20世紀の秋葉原はともかく、21世紀の秋葉原は、実に特殊な繁華街なんですね。
首都圏以外に在住するオタク系のダメダメ家庭出身者にとって、秋葉原は、いわば宗教的な救済の場所・・・まさに聖地に近いものなんですね。

21世紀の秋葉原が、東京の他の繁華街・・・たとえば、渋谷とか新宿とか六本木とか銀座とかと違っているのは、秋葉原は、「日常と非日常」が交差している・・・という点です。
秋葉原は、日常性の中に、非日常性がある場所といえるわけ。
そもそも3次元世界と2次元世界が交差しているし、
デジタルとアナログが交差している。

地元の人間にしてみれば、秋葉原は、基本的に電気街であって、そこに行ってもテンションが上がるわけでもない。むしろ渋谷とか六本木の方がテンションが上がりますよ。しかし、たまにしか行けない人間にしてみれば、秋葉原は六本木とか銀座や渋谷以上にテンションが上がってしまう・・・そんな人間のテンションの二極化もある。
渋谷も、六本木も、銀座も、歩いている人のテンションは、同じレヴェルだけど、秋葉原は、近隣住民が持っている低いテンションと、来訪者のハイテンションの格差が大きいわけ。
低いテンションとハイテンションも交差しているんですね。

そのような異質なものの何重もの交差によって、何とも非日常性が立ち上っている。
だから、日常と非日常も交差することになる。
いわば、秋葉原は、宗教的な縁日のようなものであって、日常性の土台の元に、華やかな非日常性が現れることになる。実際に、週末は、そんな様相を呈していました。

その場所の持つ非日常性は、近くにいる人にはわかりにくい。だって日常的に行けるわけだから、非日常を実感できない。しかし、滅多に行けない人にしてみれば、行くことが非日常になるがゆえに、秋葉原の非日常性の魅力が高まってしまう。

非日常性を特徴として持つがゆえに、日常において抑圧されている人間にしてみれば、なおのこと魅力的に映る。
しかし、日常的に、「非日常」が存在する・・・なんて、やっぱり矛盾していますよ。そんな状態は、いずれは、破綻するもの。

微妙な均衡の上で、かろうじて成立していた世界も、圧倒的な力の前では無力。
ウィーンで議論していたヨーロッパの外交官も、ナポレオンの脱出の報の前には、まったく無力だったようなもの。
縁日が常態化した秋葉原の姿も、うたかたの夢のように、たった一度だけ・・・

非日常を日常化するのは困難としても、それを一気に永遠化する方法はあります。
まあ、「生贄」。
犠牲によって、その場所が、「聖なるもの」に一気に変容する・・・宗教的な儀式において、そんな手法はおなじみでしょ?

今回の犯人がそんな文化人類学的な発想を持っていたとは思いませんが、饗宴と犠牲は、不即不離の関係にあることが多いもの。

日常と非日常が交差する街で、生と死が交差したわけですが、その事件が発生する前の、あんな狂騒的な宴の日々をナマで見ることが出来たのは、ラッキーだったと言えるのかな?本当に、あんな日々は、うたかたの夢のように、たった一度だけでしょうからね。
R.10/10/27