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カテゴリー | ダメダメ家庭出身者の状況 | |
配信日 | 08年6月13日 (11年1月4日 記述を追加) | |
タイトル | 先走った目標 | |
このようなメールマガジンを配信しておりますので、お便りも来ます。 よく書いていますが、逆上メールのこともありますし、ちょっとした感想なり意見もある。あるいは、この私に相談されるケースもある。 色々なお便りの文章の中で、一見しっかりした表現の文章の中に、この私が「げっ!このまま行っちゃうとマズイよ!」と思ったりする表現があったりします。 たとえば、その一つとして、「ワタシが親になった時は・・・このようにしたい・・・」 なんて文言があったりします。 まあ、実を言うと、結構ポピュラーな文言なんですよ。 「ワタシが親になった時には・・・」ということなので、まだ親になっていないでしょうし、結婚もしていないでしょう。 当人としては、「将来は・・・ダメダメだった自分の親と違って・・・マトモな親になりたい!」 そんな気持ちなんでしょうね。 こんなことを書くと、『そのような文章の、どこが、危険なんだ?』と怪訝に思われる方がほとんどでしょ? 結果的にマトモな親になれたら、結構なことですよ。 重要なことは、その困難さを自覚した上で、というだけです。 このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」では、ダメダメ家庭に欠落しているものを、具体的に列挙しているスタイルになっております。 ダメダメ家庭には、一般のマトモ家庭には当たり前に存在する「○○」がない・・・そんな記述のスタイルとなっております。 ダメダメ家庭に欠落している、その「○○」をどうやって自覚して、埋めていくのか? そのような問題を提示しています。 その欠落を、自覚し、それなりに埋め終わった後で、つまり、結果的にそれなりにマトモになった後で、結婚して、子供を作り育てるのはありでしょう。しかし、十分に埋め終わる前に、子供を持ったりすると、どうなっちゃうの? 結局は、ダメダメな自分の親と同じことの繰り返しになってしまうんですね。 何回も書きますが、このメールマガジンでは、ダメダメ家庭に欠落しているものを個別に具体的に提示している文章です。だから、様々な読み方も可能になります。 それこそ「マトモ家庭では当たり前に受け取れるものが、子供時代のワタシには受け取れなかった!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、自分の被害者意識を満足させ、被害者としての自分を説明するための文章として利用することも可能です。 利用することが可能です・・・どころか、その点においては、人類の歴史上、トップレヴェルでしょう。 しかし、被害者としての自分を説明できても、そこどまりでしょ? その問題を自覚して、その地点からどうやって、向上させていくのか? あるいは、欠点を認めた上で、自身の尊厳をどのように獲得していくか? 本来は、その問題の方がもっと重要でしょ? この「○○」が欠落しているから→「ワタシって、かわいそう!」 よりも、 この「○○」が欠落しているから→「なんとかして、その○○ができるようにしないと!」 そうやっていくしかない。 あるいは、 この「○○」が欠落しているから→「その○○が、必要でないものに取り組んだ方がいい。」 そのように考えた方が現実的でしょ? それこそ、「ワタシが親になったら・・・」なんて、先走った目標について考えるよりも、 的確な日本語を使うようにする。 相手の話をちゃんと聞く。 人との約束を守る。 何か小さなものでも最後までやり遂げる。 目の前の問題を確実に認識する。 経済的に自立する。 社会常識を身に付ける。 行儀をよくする。 そんなことをやり遂げることが先なんですね。 有名な映画「マイ・フェア・レイディ」でも、そうでしょ? 上流階級の英語をしゃべれるようにするという高い目標を持つことはいいとして、実際にやるのは、 「Hの発音ができるようにする。」 「エイという発音ができるようにする。」 「敬語が使えるようにする。」 そんな小さなことの積み重ねでしょ? そして、その「小さな」ことが、いかに難しいことなのか! しかし、ダメダメ家庭の人間は、その「積み重ね」の発想がない人が多い。 「そんな小さなことが何になるのよ?!」と文句を言うばかり。 イライザの場合だと、「ああ!早く上流階級の言葉が身につかないかなぁ・・・」と願望を言うだけのようなもの。 「マイ・フェア・レイディ」でのイライザはヒギンズ教授の厳しい指導があったから、何とかなったわけですが、現実ではヒギンズ教授のような存在はいない。現実に存在するのは、善意しか能がないフレディのような輩ばかり。今で言うとボランティアの連中。 そんなボランティアの連中は、イライザが上流階級の英語をしゃべれない原因については、色々と指摘したりする。それこそ、社会のせい、時代のせい、親のせい、あのオトコのせい・・・と、犯人探し。しかし、とにもかくにも、ちゃんとした英語をしゃべれるようになることの方が重要でしょ?「アナタは悪くない!」もいいわけですが、そんな同情の言葉で、その人が向上するの?何ができるようになるの?幸せになるの? 「ワタシが親になったら・・・」 なんて将来の目標について考えるのもいいわけですが、その前に存在する大変な困難をどれくらい自覚しているのか? 欠落しているものを自覚するとともに、それを獲得する困難も自覚する必要があるわけです。 その自覚がないと、ドツボにはまるだけ。 そもそも、約束を守らないような人間だったり、日本語が怪しい人間と結婚するような人間も、同類でしょ?そんなダメダメ人間同士が親になったら、子供をちゃんと育てられるの? まずは、自身が自分なりの尊厳を獲得し、精神的に独り立ちすることが先でしょ? 「マイ・フェア・レイディ」におけるイライザが「当たり前」の英語を習得するために大変な苦労をするように、ダメダメ家庭出身者も「当たり前」の人間になるためには大変な苦労をするもの。 そして、その苦労は、「生まれながらにして」マトモな人には理解されない。 「生まれながらにして」マトモな人が、その苦労を理解できないのは、しょうがない。 しかし、ダメダメ家庭出身者はその困難を理解し自覚する必要があるわけです。 先走った目標を語られると、ビビってしまうのは、『その困難さがわかっていないのでは?』と思ってしまうからです。 そんな懸念が単なる杞憂だったらいいわけですが、その言葉を書いた人の、その後を見てみると残念ながら杞憂とは言えない。 まあ、「ワタシが親になった時には・・・」という文言を使う人は、例外なく約束を反故にする人なんですよ。 まさに、「悪いのは全部、ワタシの親のせいなんだから、ワタシが約束を守らないくらいは、大したことではないし、許されるべきなんだ!」そんな考えになっているわけです。 何も、そのような文言を書かれた方を評価し批判するつもりはありませんよ。 今からでも、その困難さを自覚して、地道なことの積み重ねをするしかない・・・というだけです。 社会的に当たり前に存在するものは、当たり前の存在であるがゆえに、その欠落が意識されないケースも多く、そして、意識されたとしても、それを補完する手段がないもの。 しかし、早めに認識して、何とかしないと、どんどんと事態が悪くなるばかり。 それこそ、当たり前に存在するものがなかったケースとして、最近(08年)話題になっているものがありますよね? そう!『戸籍』です。 まあ、いくらダメダメ家庭出身者の方々でも、一般的には戸籍くらいは持っている。 しかし、それすらないケースがあったとか・・・ 結局は、そんな家庭で生まれた子供は、その親と同じように無戸籍になってしまう・・・ そのような事例が、最近、ニュースで登場していますね? なんでも当事者の方が、そのような戸籍のない人に対しての配慮を、行政機関に求めて活動しているんだとか・・・ 確かに子供には罪はない。その親だって、『事情』があるでしょう。 しかし、その問題について、子供が生まれてから、ワイワイ騒ぐのではなく、生まれる前に対処する必要があるでしょ?その子供だってコウノトリが勝手に持ってきて、いつのまにか置いていったわけではないでしょ? まずは、自分の戸籍問題を解決してから、次の段階に移る必要があるでしょ? 法律な不備も、もちろんあるでしょう。 しかし、それだったら早めに対処しないとね。 そもそも、そんな無戸籍の女性と、何も考えずに一緒になり子供を作ってしまう男性も、精神的には同類ですよ。当事者意識がなくて被害者意識が強いもの。そんな会話不全の人間同士で、一時的にグチで共鳴しても、結局は修羅場になるばかり。 そうなると、まさにドメスティク・ヴァイオレンスのような事態になって、夫から逃げ出した女性が、コッソリと隠れて子供を産むことになる・・・その子供の戸籍は、どうなるの? サスガに国籍の問題はレアケースでしょう。 現実に多いのは、登校拒否とか引きこもりのケースです。 引きこもりが長いのに、その事態を直視せず、「次はこの学校に行こうかな?編入試験はどうしようか?」とか、「次には、どの会社に就職しようか?」などと考え、周囲の人に相談する。 しかし、相談された側も、途方に暮れるだけですよ。 まずは、「どうして登校拒否になっているのか?」「どうして引きこもりになっているのか?」その自覚が必要でしょ?そして、その問題に対して必死に対処しないとね。 しかし、現実逃避のダメダメ家庭では、親も子も、「時代が悪い。」とか、あるいは「インターネットの影響だ!」とかのモンキリの言葉で、事態を直視するのを流してしまう。 しっかし、そんな感じで、事態を認識することを流すからこそ、流せない事態に対処できず、引きこもりになってしまうわけでしょ? ダメダメ家庭の人間は、自己逃避。自分が直面している現実から目を背けてばかり。だから往々にして、先走った高邁な目標を掲げることはできたりするもの。というか、遠くの目標を語ることで、自分の直近の問題から逃避するわけです。そんな人は、目の前の困難さは何も認識していないので、結局は、事態が何も改善しないものなんですね。 むしろ、「こんな立派な目標を持っているワタシなのに、うまくいかないのはコイツのせいだ!」と、他者を犯人認定して、勝手に報復するだけ。 そして「自分が一番かわいそうな人間なんだから、他の人のことなど、どうでもいい!」なんて思っている。その「その他の人間」には、当然のこととして自分の子供も含まれてしまう。だから、言葉の上ではかっこうのいいことは言っても、子供のことなどは、真剣に考えない。 それこそ、無戸籍の連鎖だって、そんな心理的な背景があるわけです。 子供には罪がないのは当然ですが、そんな親に育てられてしまったら、子供も、将来的に罪を犯すことになってしまう。 将来の先走った目標ばかりを語るがゆえに、メチャクチャな将来になってしまう・・・ 皆さんの周囲にも、そんな人って、実際にいたりするのでは? (終了) *************************************************** 発信後記 本文中で言及しております、映画「マイ・フェア・レイディ」ですが、この映画については、以前に配信しております。 一般の方々は、映画関係者の方々を含めて、どんなドラマも、ラヴコメとしてしか受け取ろうとしないもの。 しかし、作品を作った側は、もっと色々なことを考えて作品を作っているもの。 その色々なことって、往々にして、作者の目の前で実際に起こっていることなんですね。 この「マイ・フェア・レイディ」の原作であるバーナード・ショーの「ピグマリオン」でも、その作品のテーマなんて、21世紀の我々の目の前で実際に起こっていること。 会話の不全状態。 脱却への覚悟。 積み重ねの重要さ。 そして甘い言葉で人をダメにするボランティア。 逆に言うと、自分の目の前のことを認識できないような人は、芸術作品も理解できないわけ。だからこそ、ありきたりなラヴコメとみなしてしまい、人に解説する始末。 しかし、そんな『解説』よりも、目の前に起こっている現実そのものの方が、芸術作品を理解するためには、役に立つものなんですよ。 |
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R.11/1/4 |