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カテゴリー 相談という場におけるダメダメ家庭
配信日 08年7月11日  (10年5月22日 に記述を追加)
タイトル ワタシを慰めて!
『ワタシに構って!』
って、当事者意識がないダメダメ人間は、そんな感じで、周囲の人にアプローチしたりするもの。このことは以前に配信しております。
そもそも当事者意識がないので、自分でやりたいことがない。だから相手に対して依頼する具体的なことがない。だから「ワタシに協力して!」とは言えない。ただ、「ワタシに構って!」と言うしかない。

当事者意識がないから、「ワタシに構って!」となるわけですが、ダメダメ家庭は、当事者意識がないだけでなく、強い被害者意識を持っているもの。
「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
「ワタシよりかわいそうな人って、世の中にいないでしょ?」
そんな自己憐憫で生きている。

『自分では何もすることがないから → ワタシに構って!』
となるわけですが、
『自分はかわいそうな人間なんだから → ワタシを慰めて!』
そんなパターンも起ってくる。

まあ、本当につらい状況の場合もあるでしょう。
それこそ自然災害のようなケースだったり、犯罪に巻き込まれたり、病気になったり・・・
「ワタシの現状はこのような状況です。だからこの点をサポートしていただけませんか?」
そんな感じでわかりやすく説明されたら、『まあ!なんてお気の毒な!さぞ、お辛かったでしょう!』と慰めの言葉も出てくるでしょう。

しかし、現状の説明も何もない段階で、いきなり「ワタシを慰めて!」なんて要求されても、途方に暮れるだけですよ。
客観的な説明を受けた後に、同情の言葉なり慰めの言葉が出てくるのであって、説明も何もないのに、慰めを要求されても、対処ができないでしょ?
どうやって慰めればいいの?
それに、コッチとしては、そんなことをする義理や義務はないんじゃないの?

人との初対面の際に、
「初めまして。○○です。」
『ワタシは△△です。これから、よろしく。』
「あのぉ・・・ちょっとお願いが・・・ワタシを慰めてください!」

そんなやり取りって、シュールでしょ?
シュールだけど、ダメダメの世界では現実なんですね。

「ごきげんよう。ワタシを慰めて!」
『えっ?アナタは困っているの?どんな感じで困っているの?』
「とにかく、困っているのよ!だからワタシを慰めて!」
『で、実際のところ、何に困っているの?』
「そんなことどうでもいいじゃないの?とにかく慰めてよ!」

こんなやり取りを書くと、多くの購読者さんは、「この発行者は、またギャグを飛ばしちゃって!」と思うでしょうが、このやり取りの最大の笑いどころは、それがフィクションではなくノンフィクションであること。

「とにかく慰めてよ!」と言われてもねぇ・・・まあ、この私なら、そんな慰めの言葉くらい「作り出す」こともできますよ。
エスパー級の洞察力と、的確な表現力があるんだから、詳しく説明されなくても、求められた以上に感動的な「慰め」の言葉くらい作れますよ。
しかし、そんな言葉を作る義務はないし、そもそもそんな言葉をもらって、そんなにうれしいの?

そんな安っぽい言葉がほしいなら、ホストクラブにでも行けば、いくらでも言ってもらえるんじゃないの?
お金がないというのなら、自分で録音して、iPod でいつも聞いていればいいじゃないの?
「まあ、ワタシって、なんてかわいそうなの?!」
「ワタシって、なんてお気の毒なの?!」
自分で録音して、再生して聞いていればタダですよ。

そんなに慰めの言葉の需要があるのなら、自動販売機をつくって設置すると儲かるかも?
コインを入れると、「かわいそうに!」「お気の毒な!」なんて機械が応答したりして・・・
お金の額によって、声の調子が変わってくるとか・・・
バカバカしい発想ですが、「ワタシを慰めて!」と要求してくる人間の心理って、これに近いでしょ?

このように「ワタシを慰めて!」と他者に要求する人物としては、以前に集中的に取り上げたバルザックの小説「谷間のゆり」のアンリエットがその典型といえます。
「もう一度、アナタに言って欲しいんです。『お気の毒な!なんてお気の毒な!』って・・・」なんてセリフもありました。
さすがバルザック!すばらしいセリフだ!まったく、バルザックの洞察力は神のレヴェルですよ。
「ワタシを慰めて!」と他者に要求するのは、19世紀のフランスの小説の中にもあるように、ダメダメ家庭の人間には、意外にもポピュラーな事例なんですね。時代や地域の問題ではない。

顔も名前も知らない人からでも慰めがほしい・・・
逆に言うと、慰めの言葉を得ることによって、「自分がかわいそうな被害者なんだ!」と確認してしまって、改善のためのアクションを何もしないし、慰めの言葉を、何もしない大義名分としてしまう。
だから事態がますます悪化して、ますます「ワタシを慰めて!」となってしまう。
顔も名前も知らない人からでも、知恵とか情報を得るのはありでしょう。その知恵を元に自分で考えていけばいいだけですからね。しかし、見も知らない人からの慰めが何になるの?
それに、そんなに慰めがほしいのなら、もっと的確に自分の現状を説明すればいいだけ。
的確な現状説明だったら、相手に説明するのに有効であるだけでなく、自分で対処する際にも役に立つでしょ?

しかし、現実の相談の場などでは、自分の家族構成も言わない段階から、「ワタシを慰めて!」と要求するものなんですよ。
そんな要求を聞かされて思うことは、
「こんな人と結婚した人って、どんなレヴェルの人なんだろう?」
「そりゃ、トラブルにもなるわなぁ・・・」
「何に困っているのか、自分でも分かっていないんだろうなぁ。」
「慰めをもらって、大喜びして、結局は何もせず・・・なんだろうなぁ。」
「そうして、もっともっと事態が悪くなって、結局はドッカーンになるんだろうねぇ・・・」
そんなこと。

しかし、慰めを勝ち取ろうとテンションが上がっている人は、一人でどんどんと盛り上がってしまう。そうして、
「どうしてワタシだけ、こんなことに?!」
と、お約束のグチ。

その「どうして?」に対しての答えは、皆さんもできるでしょう?
しかし、その答えを言う前に、コッチは完全に脱力してしまっていて、何も言えないものなんですヨ。

しかし、逆に言うと、それだけ需要があるわけだから、まさに、商売にできることになる。
上記の自動販売機の例は、まあ、ギャグですが、それを商売として、組織だってやるケースがありますよね?

そう!宗教団体です。
「まあ、アナタはなんてお気の毒なの?!」
「神様は、アナタのことを考えていますよ!」
「きっと、そのうちに幸せになりますよ!」
「アナタは全然悪くないのよ!」

お金をもらって、そんな安っぽい慰めの言葉を提供する。

直接的には商売にしないケースだと、このメールマガジンでよく言及しておりますボランティアの連中がそうですよね?まあ、彼らはそれしかできないんだから、しょうがない。
それに当人が「気の毒」な状況でなくなってしまうと、慰めの言葉しか能がないボランティアの連中は、用済み扱いにされてしまいますよ。だから、彼らとしても、必死で、トラブルが発生している現状を温存して、自分たちの居場所を作ろうとしますよ。

「ワタシを慰めて!」とか、あるいは「ワタシを癒して!」と言っている人に対しては、「まあ!お気の毒ね!」と同情の言葉をかければ言いだけなので、ラクチン。
そして、傷の舐め合いをしていればいいだけ。
しかし、そのようなやり取りには、相互理解は存在しない。
逆に言うと、自己逃避で、会話の能力のない人にしてみれば、そんなやり取りしかできないので、そんな人に惹かれてしまうことになる。

慰めの言葉が悪いわけではありませんが、その前に現状把握が先じゃないの?
困っている人自身が、自分自身の現状を的確に把握した後で、慰めも、改善策も出てくるわけでしょ?

しかし、自分から逃避しているダメダメ人間は、その現状把握からも逃避する。
宗教団体との関わりだと、自分自身の現状が何も分かっていない人が、お布施というか、お金という代価を払い、慰めを提供してもらう。
まあ、宗教団体はそれが商売なんだから、それでいいんでしょうが、現実として、何も改善しないことは子供だってわかることでしょ?
逆に言うと、そんな安っぽい慰めの言葉には注意しないとね。そうでないと自分がどんどんと安っぽくなってしまう・・・これは大人だったら簡単にわかることでしょ?

それに、その人自身が安っぽいままというだけでなく、いわば危険人物でもあるもの。
「自分への慰め」なり「自分への癒し」を要求する人の心理としては「自分こそが一番かわいそうな人間なんだ!」という確信がある。
だから、自分以外の人間がチヤホヤされていると、怒り出し、その人に絡むようになる。
「もうっ!そんな人より、ワタシを癒してよ!」「ワタシの方が、もっとかわいそうなのよ!」

単に「ワタシに構って!」だったら、それなりに構えばいい。
しかし、「ワタシを慰めて!」「ワタシを癒して!」となると、単なる当事者意識の欠如ではなく、被害者意識が背景に加わっている。「ワタシを癒して!」「ワタシを慰めて!」との要求は、「ワタシの被害を認め、それに対し補償せよ!」という要求と同じなんですね。
「そんな人の被害よりも、ワタシの方がもっと大きな被害をしたのにぃ・・・」そんな心理になっている。

そんな人だから、他者の窮状にはまったく配慮しない。
他者の困難を見ても、「フンっ!あれぐらい、たいしたことじゃないじゃないか?!ワタシの方がもっとかわいそうなんだよ!」と被害者競争をするだけ。
そんな人の周囲では、その人自身がトラブルを起こさないまでも、その周囲の人がトラブルを起こしたり、あるいはトラブルに巻き込まれたりするもの。
それこそ、以前に取り上げた「長崎の小学校6年生の殺傷事件」での被害者の父親の手記なんて、典型的にこの「ワタシを慰めて!」「ワタシを癒して!」と言った調子でしょ?

あの事件の性格を考えれば、それはいたし方がない面もあるでしょう。
しかし、じゃあ、残された息子さんはどうなるの?
あるいは、その子供たちの母親が死去された際にも、そんな対応だからこそ、子供が事件に巻き込まれるわけでしょ?

慰めを求める要求に対して、ヘタに慰めの言葉を与えたりすると、危険なだけ。
慰めの言葉を与える側もヘタをすれば人間的に安っぽくなってしまう。あるいは、そんな要求をする人の周囲の人間の窮状が深刻化してしまい、事態を悪化させるだけ。

そんな安っぽい慰めの言葉は、プロである宗教団体にでも任せればいいんですよ。
どうせ、慰めの言葉を求める側も、与える側の双方とも、他には能がないわけですしね。

(終了)
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発信後記

「ワタシを慰めて!」なんて言い出すのはサスガに重症のダメダメになるわけですが、軽症でも、それに似た心理はあるわけです。ダメダメ人間は被害者意識が強いので、その被害を認めてくれない人は周囲から排除してしまうわけ。だから、自分に甘い人たちだけを周囲においてしまう。
だから、どうしても閉鎖的というか排他的になってしまうものです。

先日より、お騒がせになっております、九州の大分県での教員のワイロ事件ですが、まあ、程度問題は別として、教員の分野だったらあるでしょうし、特に地方ではあるでしょうね。
ただ、大分県は、常軌を逸するレヴェルだったのでしょう。

前々から噂に・・・なんて言われているようですが、「なんとなく怪しい。」・・・って、わかりますよね?
周囲に教育関係者がいない、いかにもコネがない人が教員採用試験に合格すれば、それが逆にコネの問題の反証になります。そんな人の割合が高ければ、疑念を持たれませんよ。
合格者が何らかのコネのある人ばかりだったら、当然のこととして疑念を持たれるでしょね。

被害者意識は、どうしても閉鎖的な精神を生んでしまう。
そして、自分が一番かわいそうな人間と思っているので、他者には配慮しない。
そんなダメダメな精神があれば、大分県のような問題も起きますよ。

地理的な閉鎖性というか、交通の不便さは、我慢することができても、そのような心の閉鎖性というか排他的な精神は、部外者には耐え難いもの。
だから、当然のこととして、他の地域からそこに来る人はなく、ますます閉鎖的になってしまう。だから産業も発展せず、産業というと、公務員と土建業者だけになってしまう。
土建業者は談合だし、教員も談合。
だから、ますます、排他性が強くなり、ますます、他の地域から人が来なくなる。

教育の談合となると土建業者よりも、罪が重いでしょう。将来ある子供の可能性を摘み取りかねないわけですからね。

大分県がどうなろうと、自分たちで選んだ結果なんだから、まさに自己責任でしょう。
しかし、そのような被害者意識による排他性は、ダメダメ家庭でも顕著に見られるもの。逆に言うと、そのような排他性は、その集団の内部にある被害者意識の存在を暗示しているわけです。
R.11/1/18