トップページに戻る 配信日分類の総目次へ
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 08年7月23日
タイトル 「塔」のイメージ (父親的なもののイメージ)
なんでも日本の女性漫画家集団にCLAMPという名のグループがあって、その人たちの作品には、いつも東京タワーが出てくるんだそう。
へぇ・・・東京タワーねぇ・・・
もうすぐに役目を終えようとしている東京タワーですが、その人たちにしてみれば、何かこだわりがあるんでしょうね。

さて、以前にこのメールマガジンで、フランスの映画作家のフランソワ・トリュフォーについて書いたことがあります。トリュフォーの作品には、いつもエッフェル塔が出てきます。まあ、トリュフォーはパリ生まれなんだから、塔となると東京タワーと言うわけにはいかない。
やっぱりご当地のエッフェル塔になるでしょう。

さて、トリュフォーについて書いた際にも触れましたが、そのような塔は、ある種「父親」の存在と関係しているものと言えます。そもそも塔はその形から男性につながる。
それだけではありません。道に迷った時に、自分の位置を確認したりする・・・いわば、「安心」とか「頼りになるもの」の象徴としての塔の意味もあるわけ。まさにその場所の主柱のような存在と言えるわけです。エロティックな意味で男性につながり、精神的な意味で父親につながる・・・それが「塔」というもの。
トリュフォーの作品「大人はわかってくれない」の冒頭におけるエッフェル塔は、まさに「道に迷って自分自身を見失った時に、自分の位置を確認する」存在の象徴です。
トリュフォーは母子家庭の出身です。
そんな「塔」の描き方から、彼の内面に存在する「父親的な存在への憧れ」が見えてくるわけ。まあ、トリュフォーは母子家庭出身なんだから、安心というか頼れる存在がほしかったんでしょうね。

日本の漫画家集団も、いつも東京タワーがいつも登場してくるということは、その中心人物が、母子家庭の出身者であることが推定されるわけ。

母子家庭の出身者は、塔を、比較的、好意的に描くもの。
トリュフォーも決して「鬱陶しい」存在としてエッフェル塔を登場させてはおりません。
父親を知らないがゆえに、父親的な存在に憧れを持ち、塔という大きな小道具を作品の中で使い続ける・・・そうなって来るわけ。

さて、母子家庭の出身だったら、逆に言うと、父親とのやり取りはないわけだから、父親に対する嫌悪感は持ちようがない。
しかし、実際に父親がいたら、「いつも仲良く」と言うわけには行かない。たまには衝突もあるでしょう。

特に、ダメダメ家庭を作る父親は権威主義的であり、問答無用でありと、子供にとっては鬱陶しい存在となることが多い。だから父親に対して嫌悪感を持ち、父親への憎しみを持つようになるわけ。
と言っても、現実に父親を殺すケースは滅多にないもの。

ということで、父親の代替としての塔が、ネガティヴな意味で使われたりするんですね。
何も芸術作品の問題ばかりではなく、それこそ鳥取の大学生が「東京タワーへの爆破予告」で逮捕されましたが、それは父親への憎悪への代替としての塔への攻撃となるわけです。

あるいは、芸術分野においては、子供を監禁する父親・・・なんてシチュエーションで塔が使われたりするもの。
まあ、古典ドラマだったら、結構あったりするでしょ?
王様が「オマエは息子によって殺される!」なんて予言を受けたので、自分の息子である王子を監禁してしまう・・・そんなシチュエーションを持つ作品をお読みになった方もいらっしゃるのでは?
そんなシチュエーションだと、往々にして「塔に監禁」となるわけ。実際には、地下室に監禁するようなケースでも、ドラマ上は、「塔に監禁」と設定変更されたりする。
「地下室に監禁」だと、「一般的な閉塞」につながるわけで、監禁された人物の精神的な苦悩に焦点が当てられることになります。地下室なんだから、「出口の見えなさ」が強調されることになるわけです。しかし「塔に監禁」となると、「父と息子の葛藤」「子供を抑圧する父親」という父と息子の関係性の面が強く表現されるわけです。監禁する場所によって、作者の問題意識というか深層心理が見えたりするものなんですよ。

たとえば、19世紀末から活躍したウィーンの文学者フーゴ・フォン・ホフマンスタールの戯曲である「塔」は、父親である王によって、王子が塔に幽閉されるというストーリーを持っています。
このホフマンスタールの「塔」という作品は、バロック期のスペインの劇作家カルデロンの戯曲「人生は夢」を基にしていますが、カルデロン版は、館の中で幽閉となっています。しかし、ホフマンスタール版は、塔に幽閉となっています。
そんな変更から、ホフマンスタールの深層心理が見えてくるわけ。

ホフマンスタール版では「父と息子の葛藤」の深層心理的な面が、より強調されるわけです。
ただ、作品の作り手というものは、実は、自分の作品について、わかっていないもの。その設定の変更の意味について、書き手であるホフマンスタール自身がわかっていれば、彼の息子はピストル自殺しなくて済んだでしょうに・・・
彼の息子は『父親にはボクが負担になっているから・・・』という理由で自殺したとのことですが、その自殺の後に、父親のホフマンスタールは、「どうしてこんなことに?」「仲は悪くなかったのに・・・」とダメダメにお約束のコメント。
しっかしなぁ・・・どうしても何も、アンタ自身の作品を読みなよ!と思ってしまいます。
当時最高に鋭敏な感性と教養を持つホフマンスタールでさえ、そんな有様。
一般レヴェルの知能のダメダメでは、自分自身の状況を自覚するということは、実に難しいわけ。

あるいは、以前に言及した作品で、ベルギーのメーテルリンクによる「ペレアスとメリザンド」という戯曲があります。その作品では女性のメリザンドが塔から長い髪を降ろして、その髪を若い男性であるペレアスがつかむシーンがあります。塔から自身が出るのではなく、髪だけ降ろすわけ。これは歳を取った男性・・・つまり彼女の夫に精神的にも状況的にも束縛されて、そこから助けを求める心理に対応しているわけ。

塔というものが、父親なり、あるいはそれに類するものの象徴であり、塔に監禁されるというシチュエーションから、作品なり作者について色々と見えることが多いもの。

塔なんて、映画や舞台の設定や小道具だけでなく、美術にもあったりします。そんな作品を見る際に、「塔がどのように描かれているのか?」そんなことに注意しながら見てみると、色々と見えて来ると思います。

特徴的なスタイルで「塔」を扱ったら、その人が父親的な存在に寄せる心理的な問題が見えてくるわけ。
だから、塔の描き方、見え方によって、描いている人の状況の一部がわかることになる。
現実世界でも、高くそびえる塔は、地理的な目印として役にたつわけですが、心理的にも、目印になったりするものなんですよ。

作品に接して、「わー!面白かった!」とか、「泣きました!」なんて感想に止まるのも受け手の勝手ですが、作者自身も分かっていない面まで作品から読み解く・・・そんなことも楽しいものですし、そのようなことは、一般の人とのやり取りにおいても成立することなんですね。

ちなみに・・・
塔というものが、心理的には、ある種「父親」のイメージにつながるわけですが、「母親」のイメージの代表は海となります。まあ、そもそもフランス語では、海は「MER」で、母は「MERE」で発音は同じですからね。
それこそ、トリュフォーの前記の「大人はわかってくれない」という映画では、エッフェル塔のシーンから始まって、海のシーンで終わる。つまり父親から始まって、母親で終わるわけ。家族が出てこないシーンでも、代替物が登場しているわけです。

「夏休みに海に行くか?山に行くか?」なんて考えている方もいらっしゃるでしょうが、「海」志向と「山」志向も、母親と父親の問題と絡めて考えることができます。
山に登りたいということなら、その征服感も含めて、男性的と言えるでしょう。
それに対し、海はある種の「充足感」につながることになる。
別の言い方をすれば、山が自我的であり、海が脱自我的と言えるでしょう。

極限の充足感は、あるいは脱自我の極限は、死に通じる。
「人は海から生まれ、海に還る。」というわけ。
ホフマンスタールの「塔」において、主人公が「希望することもないほどの心地よさだ。」言いながら海を背景に息絶えるのは、死がもたらす充足感を表わしていて、まさに海のイメージに通じているわけ。
ホフマンスタールの「塔」も、塔から始まって、海に終わる作品です。

塔は、「帰る」場所で、
海は、「還る」場所。

何が描かれているのか?何を求めているのか?どんなことが好きなのか?
そんなことから見えてくるものも多いわけ。
安心の象徴としての「塔」が描かれていれば、作者の不安感が存在しているわけですし、充足感としての「海」が描かれていれば、作者の「満たされぬ思い」が存在していることがわかるわけです。
ちょっとしたことで、その人の内面なんて、結構わかるものなんですよ。
だから、その時点で対処していれば、事件にならないで済むわけ。と言っても、ホフマンスタールのような大天才でも、コケしてしまう・・・それも現実なんですが。

(終了)
***************************************************
発信後記

先日の、父親を殺した女子中学生の事件ですが・・・
まあ、見る人が見ると、事件が起こる前から、色々とわかるものなんですよ。
とは言え、ダメダメな人というものは、「見ようとしない」し、「考えようとしない」もの。

どうしてこんなことに?!
ワタシには全然わからないわ?!

なんて言葉を事件後に言っている人は、事件前の大きなヒントも見逃している・・・と言うより、見ようとしないもの。そして「言わせようとしない」もの。
「わからない」のではなく、「わかりたくない」わけ。
何か不都合なことが見えそうになると、まさに「ふつう」というレッテルを貼り付けて、それ以上は見ないようにする。
だから事件も起こるわけです。

あと、事件後の学校の校長の訓示が、また、お約束で・・・
「親はみんなが思っている以上に、みんなを愛している。」ですか?
こりゃ、事件も起こるわけですよ。

顔を合わせたこともない、話をしたことのない人物が持つ愛情について、「上から」訓示してもねぇ・・・論理的にも、現実的にも破綻していますよ。

学校の長なら、そんなシチュエーションだったら、「困った時は、どんなことでも、いつでもワタシに相談してほしい。」と生徒なり保護者に呼びかけるのがスジ。その言葉を言えないとしたら、能力的に欠損があるか、人格的に欠損があると言えます。そして、切羽詰った精神状態の子供が、自分に相談しやすい言葉を掛ける必要があるでしょ?そんな状況において必要な態度は、「アナタたちの話を聞くよ!」という姿勢を見せることと、「一緒に考えて行きましょう。」という姿勢でしょ?

「親はみんなが思っている以上に、みんなを愛している。」という言葉が、自分への相談につながると思っているのかな?問答無用に上からご高説を垂れるなんて、「オレに問題を持ち込むな!」という意思表示でしょ?
切羽詰った精神状況の子供は、そんな言葉を平然と言い放つ人間に対して相談はしないでしょ?

まあ、その校長も、まさに悪い意味での「塔」のキャラクターなんですね。
R.10/12/12