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カテゴリー ダメダメ家庭問題の考え方
配信日 08年7月25日 (10年9月29日 記述を追加)
タイトル 関わり方
以前に「もらいたがり」というお題で文章を配信しております。
自己逃避で、自分を抑圧しているダメダメ人間は、何かをもらえる事態になると、大喜びで、それをもらおうとするわけ。
それを使う予定があるのか、あるいはそれが自分にとって必要かどうかは考えない。
無料でもらえる・・・ただそれだけで、「是非ともほしい!」と思ってしまう。

無料でもらえるものだったら、自分が判断したわけではないので、後でそれを使わなくても、「どうせ無料だから・・・」と言い訳が効く。
それに、無料なんだから、「それが自分にとって必要かどうか?」「それを得るために、自分としては、どれくらいの代償を払ってもいいのか?」については考える必要はない。自分自身の思考を抑圧して、判断から逃避している人間にしてみれば、心休まるものと言えるわけ。

それにダメダメ家庭の人間は減点法。
無料でもらえるイヴェントがあると、「もらわないことによる減点」を意識してしまう。「ああ!あの時にもらっておけばヨカッタのに・・・失敗したわ!」と、後で後悔したくない。無料のものだったら「とりあえず」もらっておけば、減点は発生しないでしょ?
だから、ダメダメ人間は、その手の無料イヴェントが大好きなものなんですね。

とは言え、無料だとうれしいのは誰だって同じ。
マトモな人間だって無料だとうれしいに決まっていますよ。ただ、マトモな人間は、無料においても「判断」が存在するのに対し、ダメダメ人間は、無料だと、その時点で判断がなくなってしまう。その判断不要の状態が心地よい・・・そんなものなんですね。

私も無料だとダメモトで申し込んだりすることもあります。ちょっと前にそれで映画の試写会のティケットが当たりました。当たったのは、有名な映画「マトリクス」の監督さんであるウォシャウスキー兄弟の「スピード・レーサー」という映画の試写会ティケット。なんでも日本のアニメ「マッハ・ゴーゴーゴー」のアメリカでのリメイクとのこと。自動車レースを舞台にした作品とのこと。今、盛んにテレビ・コマーシャルをしているのでは?

その映画そのものには特に関心はありませんでしたが、ついでがあったので、見に行ってきました。見てみると映画自体も意外に面白い。そもそも私は、派手なシーンには関心がなく、ちょっとしたセリフまわしの方に注意を向ける人間です。派手な映像の面では面白いとは思いませんが、そのセリフが結構面白いんですね。

ストーリーとしては、自動車レースが大好きで、兄の背中を見ながら、そのレースの世界に飛び込んだ主人公が、レース業界の暗部に触れながら苦悩し、必死で試行錯誤して、レーサーとして一皮向ける・・・そんな中身。
ストーリー的には、どってことない作品です。

多くの観客はどう思うのかはわかりませんが、監督のウッシャウスキー兄弟は、自動車レースそのものを描くのではなく、あるいは、レースに取り組む主人公の姿を描いたのでもないわけ。
レースと主人公の「関わり方」というか「関係性」を描いているわけ。

「関わり方」を描いているので、舞台を別のものに変更しても、いいわけ。
それこそ自動車レースという舞台ではなく、「映画」あるいは「映画つくり」に変更してもいい。
そうなると、「自動車レースが大好きで、兄の背中を見ながら、そのレースの世界に飛び込んだ主人公が、レース業界の暗部に触れながら苦悩し、必死で試行錯誤して、レーサーとして一皮向ける。」という、その映画のストーリーが、「映画が大好きで、兄の背中を見ながら、その映画制作の世界に飛び込んだ主人公が、映画業界の暗部に触れて苦悩しながら、必死で試行錯誤して、映画制作者として一皮向ける。」・・・そんな話になるわけです。

そうなると、ウォシャウスキー兄弟にしてみれば、実に、「身近な」話題でしょ?
作品における設定の舞台なり、あるいは、登場人物そのものは、色々と移り変わっても、その「関わり方」は、普遍的だったりするんですね。映画におけるレースと主人公の少年の「関わり方」も、映画制作と映画監督の「関わり方」も、結局は同じなんですよ。

とは言え、そんな見方は、一般人的ではないのかもしれません。監督のウォシャウスキー兄弟からは、「オマエの言うとおりだよ!」と言ってくれるでしょうが、一般人にしてみれば、「見て、面白ければいいじゃないの?」となる・・・確かに、それでいいんでしょうね。

何も作品からそのテーマを見通す洞察力がないとダメダメと申し上げる気は毛頭ありませんヨ。ただ、作品からそのテーマを見通せれば、現実世界にも適用可能なことが多いもの。どんなジャンルでも、多くの作品は「関わり方」を描いていたりするので、登場人物が変わっても、あるいは、舞台が変わっても、その「関わり方」そのものは変わらない。
だからこそ、アーティストは、「関わり方」をテーマにするわけです。

そもそも作者は、往々にして自分自身なり自分が直面している問題を描くもの。
自分にとって切実な問題でないと、描く意味もないわけ。
それこそ、映画「マイ・フェア・レイディ」というか、その原作の「ピグマリオン」でも同じ。
19世紀のロンドンとか、下層階級の英語の問題とかの、個別の状況が問題なのではなく、「困っている人をどのようにサポートするのか?」そんな「関わり方」の問題であるわけ。
だから21世紀の日本でもまったく同じ。

とは言え、一般の方々は、言及されている舞台そのものや、登場している人物そのものに目が行ってしまって、その視点で考えてしまう。「舞台設定が楽しい。」とか、「主人公の行動がおもしろい!」とか・・・まあ、一般の方はそんなものでしょ?一般人は、その作品の舞台と、その作品のテーマの間の区別が付かないことが多いもの。まあ、それくらいはダメダメとは言えませんよ。ただ、もっと深い見方も存在するというだけです。

そんな「関わり方」については、日頃から問題意識を持って生きた方がいいし、そうすると芸術作品の意味もよりわかってくるようになるでしょう。
よくある「鳴きました!みんなも見てください!」なんてバカ丸出しのコメント以外の、つまり作者の意図を反映したコメントを言えるようになりますよ。それは、作品を通じての、作者との「会話」を行うことができているということ。

芸術作品ではありませんが、このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」においては、たびたび韓国なり北朝鮮の問題に言及したりしております。その点について、購読者さんから、「そんなにしつこく言及しなくても・・・」などと意見を頂戴することもあります。

私としては、韓国なり北朝鮮の問題を考えているわけではありません。
あくまで「関わり方」の問題なんですよ。

被害者意識が強く、
序列意識も強く、
会話の能力も意欲もなく、
個人の尊厳に配慮しない・・・そんな人間とどうやって「関わるのか?」
そんな「関わり方」の問題なんです。だから韓国とか北朝鮮の問題ではなく、21世紀の日本での問題なんです。今の日本でも、そんな人たちとの「関わり方」の問題は、いつも発生しているわけ。
特に、ダメダメ家庭を考える際には、そんな視点は必要でしょ?

その「関わり方」に視点を合わせていることを認識していただくと、このメールマガジンの記述も理解しやすいでしょうし、それこそ映画作品も理解しやすくなるでしょう。
映画作品だけでなく、古今の文章作品も、あるいは美術作品も、そんな「関わり方」がテーマとなっているものなんですよ。それこそ美術作品があり、そこで花が描かれていても、花そのものが問題ではなく、「その花をどうやって見るのか?」「その花から何を見出しているのか?」そんな問題が描かれているわけ。
花から色彩を見出す人もいるでしょうし、形を中心に見る人もいるでしょうし、花の花弁の重なりを見る人もいるでしょう。
作品というものは、対象そのものが表現されているのではなく、対象を見る見方が表現されているものなんですね。

芸術的な肖像画を鑑賞する際には、描かれている人物が、実際の人間と「どれくらい似ているか?」なんて観点で、鑑賞しないでしょ?
あくまで、画家の視点なり、表現の意図を読み解こうとしますよね?
他の芸術作品も、まったく同じなんですよ。

芸術作品において表現されている、そんな見方は、生きていく上では必要ではないにせよ、往々にして、作品というものは「関わり方」を描いているということは、アタマに入れておいてくださいな。
そうすれば、今後、色々な作品なり文章に接した際に、より見えてくるようになると思います。そんな蓄積が、問題解決に役に立つんですよ。

言及されている対象の直接的な問題ではなく、そこに発現している事象の普遍的な姿の方がもっと重要になるわけ。
それこそ、プラトンによる有名な「洞窟の喩」ですが、洞窟に映った映像が重要なのではなく、映像という影を作り出したイデアの方が重要になるわけでしょ?
しかし、イデアは直接的に見ることができないがゆえに、人としては、洞窟に映った影を議論するしかない。しかし、影の段階でとどまっているのではなく、あくまでイデアの問題なんですね。イデアを考えるための方法論として、影を取り上げているだけ。

「移ろいゆくものは、永遠なるものの比喩にすぎない。」わけ。
永遠なるものは、直接的には見ることができないわけですが、現実世界にある移ろいゆくものから、永遠なるものを還元すると、多くの示唆が得られるわけです。
キリストだって、「神様のことを直接的に言っても、アンタたちにはわからないんだから、『たとえ話』で話しているんだよ。」と言っているでしょ?

また、このサイトでは、たとえば政治家などの実際の人物を取り上げることもありますが、あくまで例示であって、その人物を批評することを目的とした文章ではありません。
取り上げた人物に「映っている」影から、ダメダメのイデアを考えているわけです。
取り上げた人物に発現しているダメダメを嘲笑しているのではありません。あくまで普遍的な視点なり知に到達するための方法論です。

実際の人物を取り上げたりすると、「アハハ!こいつはこんなバカをやっているぞ!」と大喜びする人もいるようですが、そんな感じで笑っている人ほど、その普遍的なダメダメの影を多く持っているもの。
逆に言うと、他者に映っている影を凝視することによって、自分自身の問題を考えることから逃避するわけ。
普遍的なものとの「関わり」の問題を無視し、個別の事例だけに凝視して、同じような関係性となっている自分の問題を放置してしまうわけ。

関わり方が描けることは、自分自身と対象の双方とも客観的に見つめることができていること。だから自分と対象との間にある「関わり方」も見えてくることになる。そのような訓練は、芸術表現だけでなく一般的なマターでも有効になるわけ。そして、このようなことのためには、まさにヨハネが言うように「熱い情熱と、冷たい観察眼」が必要になるわけです。その「熱い情熱と、冷たい観察眼」があれば、問題も解決しやすいでしょ?

舞台や問題そのものは、多少変わっても、その問題との「関わり方」は、共通性があるものなんですね。逆に言うと、そのような共通性というか普遍性の高い視点まで到達することが、本当の叡智というものでしょ?

(終了)
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発信後記

本文中で映画の例をあげましたが、映画作家にとって、映画制作それ自体をテーマとすることがよくあります。
それこそフランソワ・トリュフォーの映画「アメリカの夜」は、映画制作の現場のドタバタをそのまま描いた作品。あるいは、現場そのものでなくても、映画界の内幕を描いたような作品は多くあるでしょ?

しかし、ちょっとヒネると、今回の「スピード・レーサー」のように別の領域に舞台を移して描くパターンもあるわけです。
しかし、その「スピード・レーサー」でも、少年が授業中に、自動車レースのパラパラ漫画を教科書に落書きをしたりするシーンがありますが、自動車レースのパラパラ漫画は、舞台は自動車レースですが、パラパラ漫画は、まさに映画の一種。たぶんウォシャウスキー兄弟も実際にそんな落書きをしたんでしょうね。あるいは映画の中の「君がレースを変えるのではない。レースが君を変えるのだ!」なるセリフですが、そのセリフの「レース」という言葉を「映画制作」という言葉にすれば、ウォシャウスキー兄弟にそのまま当てはまる。

舞台は直接的に映画制作ではなくても、テーマとして映画制作を描いた映画作品となると、他にはイタリアのフェデリコ・フェリーニは船を使った航海という舞台設定で映画制作を描きました。映画制作とは、まさにクルーと一緒に旅をすること。
あるいは、セルジオ・レオーネはアメリカの西部の開拓という舞台を使って、映画表現の開拓を描いたわけ。

こんなメールマガジンの文章でも、曲がりなりにもゼロから作っているわけですので、そんな経験があるので「作っている」人間がどんなことを考えているのか?どんな点に苦労しているのか?やっぱり共通点が見えるものなんですよ。
R.10/9/29