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カテゴリー ダメダメ家庭は立派な言葉が好き
配信日 08年8月18日  (10年4月15日,10年10月15日,10年12月9日 記述を追加)
タイトル 人は一人では生きていけない
ダメダメ家庭の人間は、自分自身で考えることをしない。権威筋が絶賛している「ありがたい」言葉を連呼するだけ。かと言って、自分で考えないんだから、自分たちが連呼しているその言葉の意味だって、本当はわかっていない。
だから、人から突っ込まれると、「どうして、そんなことを聞くのよ?!」と逆上するだけ。

とは言え、それなりに「ありがたい」とされている言葉なので、そんな感じで突っ込む人がそれほどいるわけもなく、誰からも反論されたり、質問もされない「ありがたい」言葉を、自分でもわかっていないのに繰り返すことになる。

さて、今回は、そんなありがたい言葉の一つとして、「人は一人では生きてはいけない。」という言葉を取り上げましょう。
まあ、「甘ったる〜い」ドラマではおなじみの言葉ですよね?
あるいは、宗教団体の勧誘の際には、よく使われる言葉なんだそう。

「人は一人では生きてはいけないものなのよ!私たちと一緒にやりましょうよ!」
言葉としては、まあ、ごもっとも。

しかし、「人は一人では生きてはいけない。」だから「お互いが助け合っていかなきゃ!」そんな言葉はいいとして、じゃあ、その人は、どんなことを助けてあげられるの?あるいは、当人としては、どんなことを助けてほしいの?

「助け合って」も何も、「アナタは何ができて、何ができないの?」その点がわからなければ、助け合いも何もないじゃないの?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、一般論だけで具体的な各論がないもの。だって、当事者意識がないので、自分で何かをするという発想がない。そんな人間なんだから、具体的な各論なんて縁がなくなるわけ。
議論のための議論をしているだけ。だから一般論しか言えない。
と言うか、むしろ自分自身では考えたくないわけ。

具体的な各論で、「ワタシは、このようなことが得意で、この点は人をサポートできる。しかし、この点は不得意なので、どっちかと言うと、この面は誰かにサポートしてもらいたい。」そのような形で明確に言えることが、「助け合い」の大前提でしょ?

しかし、ダメダメ人間は、「人は一人では生きてはいけない。」というお題目を掲げて、そのように自分自身から逃避している人間同士が、ベタぁ〜と集まるばかり。
「わあ!ワタシたち・・・一緒にいると楽しいわ!」
「ホント!人間は一人では生きてはいけないものよね!」

しっかし、そんな人が集団になっても、ただベタベタとしているだけ。
ダメダメ人間の結び付きは、グチを共有しているグチ仲間であって、志を共有している同志の間柄にはなることはない。
しかし、自分自身から逃避している人間にしてみれば、そのようにベタベタと群れているのが心地いい・・・そんなものなんですね。

「ああ!人の『ぬくもり』が、キモチいいわぁ!」
・・・って・・・そんな言葉が気持ち悪いヨ。

一昔前に話題になったアニメの「エヴァンゲリオン」の劇場版のラストは、そんなシーンだったでしょ?

個人としての境界線を喪失して、ベタベタと群れる状態に浸ろうとする主人公の男の子に対し、アスカという女の子が、「気持ち悪い!」と言うシーンでした。
イヤ!ホント!気持ち悪いよね?

人間同士は助け合うのが基本・・・言葉の上では、まったく持ってそのとおりなんですが、自分自身についてわかっていない人が、人助けなんてできるわけがありませんよ。
そんな人ができるのは、群れることだけ。

一緒に協力し合うためには、それぞれの自己というか自我が確立していないとできないことでしょ?前にも書きましたが、自分は何ができて、何をしてほしいのか?その点は明確に説明できる必要がありますよ。もちろん、自分自身と同じように他者の自我にも配慮する必要はあります。しかし、自我そのものがないと、己を喪失し、まさに群れることしかできなくなってしまう。
しかし、自我がないがゆえに、「人を傷つける」こともないし、「人から傷つけられる」こともない。
なんともまあ!生ぬるい状況。しかし、そんな生ぬるさがダメダメ人間には至福。

そんな結びつきは、群れているだけというか、境界線が消失しただけ。
区分けが消失という点においては、二重否定的な状況であって、個が確立したものが、お互いを認め合い、連帯するという肯定的な結びつきではない。

別の言い方をすると、「一人ではない」という状態が、人と本当に結びついているとは言えないわけ。一緒にいる・・・とされる人間と、本当に心が通っているの?あるいは、相互理解ができているの?
自分自身を理解していない人間が、相互理解も何もないでしょ?

そんな人は、やり取りに当たっては、おしゃべりどまりであって、会話にはなっていない。
おしゃべりは、「相違点がない」という二重否定的な状況ができればそれでOKでしょ?
しかし、会話であれば、お互いに相違点があっても、それについて理解し、尊重し合えばいいだけだし、その理解こそが会話の成果と言える。
そして、おしゃべりは、必ず他者の存在が必要になるわけですが、会話だったら、自分一人ですることも可能になる。自分の一人でする会話が思考というものでしょ?
他者との会話をする前提として、自分との対話をして、自分なりの考えを明確にしておく必要があるでしょ?

しかし、自己逃避の人間は、自分との会話ができない。
だから、やり取りにあたっては、他愛のないおしゃべりどまりになってしまう。
だからこそ、やり取りによって相互理解に達することはない。
つまり、にぎやかに言葉が飛び交っていても、そこに心の結び付きは存在しないわけ。

別のところで集中的に取り上げておりますが、エーリッヒ・フロムは、その著書「自由からの逃走」において、人との結びつきについて言及しております。もし、政治犯がいて、牢獄の中に収監されていても、そして、死刑が迫っていても、刑務所の外にいる仲間との精神的なつながりが意識できれば、そして自分たちの活動の価値に自信があれば、その政治犯は孤独を感じないものである・・・そのような記述があります。そのようなことは、政治犯だけでなく、宗教的な活動においても同じ。殉教者は孤独を感じて死んでいったわけではないでしょう。

自分のやっていることに自信があるのなら、そして、使命感を持ってやっていたのなら、たとえ独房の中にいて一人であっても、孤独を感じるものではないわけ。自分の活動による連帯を実感できるものなんですね。このことは芸術家の創作活動でも同じ。
自分の作品が当時の人から受け入れられなかったからと言っても、それすなわち、孤独感というものではないでしょ?
まさにベートーヴェンが「ミサ・ソレムスニス」の楽譜の冒頭に記したように、「心より発し、心に通ず。」となる。そんな状態こそが、人との結びつきでしょ?

自分なりに主体的に考え、行動するからこそ、逆に言うと、他者の主体的な発想なり行動も理解できるようになる。何も考えずに、流れに任せて、ダラぁ〜としているだけの人間が、どうやって他の人の心を理解できるの?

未来との結びつきにおいても、自分が子供を作って、未来に結びつくのが一般的な人間のスタイルといえるでしょう。しかし、自分で子供を作らなくても、未来に対して、有益な活動をすることで、未来に対して足跡を残し、それによって、未来と結びつく・・・そのパターンもあるわけ。

確かに、そんな歴史的な業績での結びつきは、一般的とはいえない。しかし、子育てでさえ同じでしょ?自分でしかできないようなことなり、自分が確信を持ってやっていることがないと、本当の意味で、子供とも結びつくことにはならないでしょ?
自分自身について、そして自分のやっていることについて、何も説明できない状態だったら、他者とどんなやり取りをするの?内容が伴ったやり取りがなければ、協力も何もありませんよ。

「人は一人では生きていけない。」というか、他者と心を通わせると言っても、自分自身の心を消失してしまったら、通わせるも何もないじゃないの?
ダメダメな人は、他者との境界線の消失によって、群れることはできても、自分自身を持った上で、他者と連帯することはできない。本当の意味では、他者と結びついてはいないわけ。
孤独を感じていないという二重否定になっているだけで、連帯感は持っていないわけ。

だから、個の確立を目指している人がいたら、その人を邪魔者として排除してしまう。
個の消失によって「群れている」のケースでは、そのメンバーの誰かが個の確立を志向したら、その結びつきのスタイルが崩れてしまうでしょ?だから、どうしても排他性を持ってしまう。
「なあ、なあ」で結びついている集団は、その「なあ、なあ」が通用しない相手だと、むしろ敵対的になったりするでしょ?

しかし、個が確立した上での連帯のパターンだと、周囲に対して無理に敵対する必要はない。その結びつきの程度に違いが出てくるだけ。まさに「あの人はあの人、自分たちは自分たち」と言える状態となる。
連帯というものは、相互理解に基づいているけど、「群れる」は「理解」という人の活動を否定することで成立している。
理解という活動そのものを否定しているんだから、自分たちとは違ったキャラクターを「理解」しようがないので、全面的な排除しか対応の方法がないわけ。

そして、異質なものを排除して、「なあ、なあ」が通用する仲間たちと、ベタベタと群れるダメダメさに安住してしまう。異質な人間を排除すると同時に、「もっと群れたい!」なんて、お仲間を物色するようになる。
そんな時の殺し文句が、やっぱり、
「人は一人では生きていけない。」

(終了)
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発信後記

本文中で言及いたしましたアニメの「エヴァンゲリオン」ですが、基本的なテーマは、ダメダメ家庭出身者が、自分自身とどのように向き合うのか?そんなことでした。
ですから、このメールマガジンの文章とテーマとしては共通しております。

ちょっと前に、またその「エヴァンゲリオン」の映画が公開されたそうですが、私は見ておりません。私は基本的には、その作り手の「言いたいこと」がわかってしまったら、もう、それでいい・・・となる人間なんですよ。どっちかと言うと、映画を見ながら脚本をアタマの中で再構成し、その脚本を読む・・・というパターンです。

ちなみに、その「エヴァンゲリオン」では、自我というものは「ATフィールド」とか言われていましたが、自我とは人を傷つけ、自らも傷つけるもの。しかし、それがないと、「その人」が存在しない。
その自我が強い人もいるでしょうし、それほど強くない人もいるでしょう。
しかし、自分が傷つくからといって、安直に自我を放棄する人には尊厳がない・・・アニメも、このメールマガジンも、同じことを言っているんですよ。
R.10/12/9