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カテゴリー レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年8月27日
取り上げた作品 自由からの逃走 (1941年)
作者 エーリッヒ・フロム
タイトル マゾヒズム (自己否定)
タイトルに「マゾヒズム」とあると、「このメールマガジンもいよいよエロの領域に?!」と驚かれるかもしれませんが、もちろんエロではありません。現在、シリーズ的に取り上げておりますエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の中で、マゾヒズムについての記述があるんですよ。

マゾヒズムについての記述と言っても、縄での縛り方とか、ムチの使い方とかの、ローソクを使って・・・とかの、その手のプレイの『実践的』なものではありませんよ。その心理的な面を考察したものです。

フロムによると、マゾヒズムは、いわば自己否定の心理と言えるらしい。
自分自身の「判断」を否定する。
自分自身の「希望」を否定する。
自分自身の「行動」を否定する。
あるいは、自分自身による「認識」を否定する。
つまり、自分自身の「尊厳」を否定する。
そんな自己否定の心理を、マゾヒズムの発現と見たわけ。
「マゾヒズム」とは、自分の判断なり行動が「拘束」され、そして「束縛」された状態がキモチイイ・・・そんなものなんだそう。まあ、そのように説明されると、その種のプレイにも通じるものがあるような・・・

私個人は、そっちの実践的な面ではほとんどノウハウがないもので・・・
誰かそっちの趣味の人に、その醍醐味を教えてほしいものですが、その手の人の発想を理解するためには、自己否定という視点から見てみると、すんなり理解できるという点は、「言われてみれば確かにそうなのかも?」と思ってしまうでしょ?

亀のように縄で縛られて、動きを束縛されて、他者からののしられたり、目隠しされると、うれしい・・・なんて・・・自己否定を待ち望む心理を想定しないと理解できませんよ。

本来なら、人は、自分で現状を認識し、自分で判断し、自分で行動するのが、うれしい・・・そんな心理が基本と思われているわけですが、ことは単純ではない。
フロムが持っていた問題意識を考える際に、前回配信の文章において、彼が参照した時代で盛り上がっていた心理について、説明いたしました。
「○○からの自由」が持てても、「○○をする自由」が確立していないと、「○○からの自由」が重荷になってしまうという心理状態です。
心理的に重荷だからこそ、その「自由」を拘束するとキモチイイわけ。
だって、判断から逃避できるわけだから、心理的にはラクチンでしょ?
まさに「自由からの自由」が達成されるわけですからね。

ののしられて、自分の卑小さを指摘されると、逆に言えば、卑小であるがゆえに、「何をやってもムダ。」となり、それは「どうせムダなんだから、何もしなくてもいい。何も考えなくてもいい。」となってしまう。

何もしなくてもいい・・・そんな状態が心理的にラクであることは誰でもわかること。
だから心理的な、あるいは肉体的な痛みに対し、「何も抵抗しないこと」を、と言うか、何も抵抗できない自分を楽しむようになるわけ。

判断から逃避する状態。
判断してもムダと自分の無力さを認識する状況。
そんなシチュエーションを積極的に作ろうとするわけです。

何もナチのような政治的なマターだけでなく、判断から逃避するとなると、たとえば、結婚相手を自分で選択するようなことから逃避してしまうような事例があります。自分で判断して、「結婚しない」と決定したのなら、それはそれでその人なりの判断ですよ。しかし、判断から逃避するとなると、「自分の結婚相手を権威ある指導者に決めてもらう。」というスタイルになったりするわけ。
それこそ「教祖様に決めてもらう!」とか・・・

そして、そんな「判断から逃避する」ものが集まって、合同でセレモニー。

このようなことは、特定の宗教団体の行動というよりも、それこそナチの集会も、同じ。
自己否定のマゾヒズムに浸っている人にはキモチイイものなんですね。

あるいは、自分の認識なり判断を否定する発想は、以前に書きましたが「教条的」なスタイルとして発現したりするもの。「この条項に書いてある通りにすべきなんだ!」と主張するわけ。文章化された原理を絶対視するわけです。
自分で認識し、自分で判断することを、自分自身が否定するわけです。

具体的な例としては、それこそ「教条的」というお題について配信した際にも取り上げましたが、輸血を拒否するキリスト教系の宗教団体があるでしょ?
「聖書に『輸血はダメだ!』と書いてあるんだから、我々は輸血を拒否するんだ!!!」
そのような団体は、まさに教条的なスタイルを用いて、自分の思考を否定したいわけ。
それだけではありません。輸血を拒否するということは、「抵抗しない自分」「抵抗できない自分」を実感することになり、行動も拘束されている自分も実感できる。「身動きが取れない」ことを楽しむマゾヒズムの人間にはキモチイイわけです。
そうみると、あの宗教団体も行動も理解しやすいでしょ?

あるいは、これも「教条的」のお題の文章で例示したしましたが、日本の政治における「憲法9条」の問題がありますよね?その憲法9条に規定されている「無抵抗」を狂信的に主張している人もいるでしょ?
そのような狂信的な憲法愛好家は、まさに自分で現状を認識し、自分で考えることを否定しているわけ。まさに自己の思考を「拘束」しているわけです。それに加えて、もし武力で侵略されても、無抵抗でいるわけだから、その行動の「拘束」もキモチイイわけ。痛めつけられ「身動きが取れない」ことを楽しむマゾヒズムの人間にはキモチイイわけです。

そのキリスト教系の宗教団体も、狂信的な憲法愛好家も、自分の思考の拘束、そして行動の拘束がキモチイイというマゾヒズムの心理から見ると、簡単に理解できるわけです。
それこそ、ソッチの趣味の人が、縄で亀のように縛られて拘束され、ムチでバシバシされるのがキモチイイと思う心情と、結局は同じであるわけ。

自分で認識し、判断することが重荷。
「○○をする自由」が重荷。
自分で行動することが重荷。

そんな心理が背景にあると、「拘束」が嬉しいというマゾヒズムに自己の解放を求めてしまうわけ。
当然のこととして、その手の人は、同類と一緒にやりたがる。
それこそ、合同の結婚式なんて、その典型。

いわば、思考から逃避したもの同士が、一緒に集まって大盛り上がり。
自我を喪失したもの同士の「群れ」がキモチイイという心理は、以前に話題になった、「エヴァンゲリオン」というアニメでも中心的に描かれていました。人類補完計画とか言われていました。ある種の抑圧的な人間には顕著に存在する心理なんですね。

このマゾヒズムは、時代の流れに関わることになると、前回配信の文章で書いた「中世の時代は、決められたことを実直にやっていればヨカッたのに・・・今は自分で考えなくてはいけないからイヤだ!」なんて感情に通じるわけ。本来なら「自分で考えられるから楽しい!」それが人間の姿でしょ?しかし、精神が抑圧され、マゾヒズムに自己の解放を見出している人間は、自己否定に走ってしまう。

フロムによると、「ルターの考えは、自分の無意味さを認めるだけでなく、自分を徹底的にないものにし、個人的意思を完全に捨て去り、個人的力を徹底的に拒絶し告発することによって、彼らは神を受け入れることを希望できるのである。ルターの神に対する関係は、完全な服従であった。・・・・神はその救済のために本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅却を要求した。ルターの『信仰』は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。」とあります。

あるいは、ジュネーヴのカルヴァンの予定説は「救済か永劫の罰かは、人がこの世で善行を積んだか、悪行を犯したかの結果ではなく、人間が生まれてくる以前から神によって予定されている。」というもの。
生まれる前から全部決まっているという発想は、「いささかヒドイなぁ・・・」とも思えるわけですが、逆に言うと、あるいはダメダメによくある減点法の発想で見てみると、現世では何もしなくていいわけ。それこそ免罪符も買わなくてもいい。だって、生まれる前から全部決まっているわけですからね。

このように「生まれる前」から全部決まっているという発想に、ラクさを感じる人たちが、21世紀の日本でもいるでしょ?それこそ前世からの因業とか、祖先の悪行などの説明で全部説明してしまうような人たちがいますよね?
前世なり祖先のせいにしてしまえば、ある意味において現世なり自分自身は、精神的にラクになるものなんですね。

そのようなマゾヒズム的な感情を背景に、ルターは運動をまとめあげたわけですし、そんな感情をうまく束ねると、まさにナチのようなことができてしまう。

しかし、そのような発想は、精神的にラクとも言えますが、尊厳はないでしょ?
フロムの記述を使えば「個人に対し、自分の功績を価値のない、無意味なものと感じさせ、また人間を神の手の中にある無力な道具にすぎないと感じさせることによって、ルターは個人から、人間の自信と、人間の尊厳との感情を奪い取った。」となるのは当然のこと。

個人の尊厳が奪われたがゆえに、その手の人たちは、「集団の尊厳」を求めるようになる。
あるいは、まさに「かつての時代が与えてくれた尊厳」のようなものを求めるわけ。

たとえ集団という形であっても、その人たちなりの尊厳を求めればいいわけですが、もともと「考えることを放棄することによる安寧」という手法なんだから、尊厳のために自分たちで考えることはしない。

「○○をする自由」がなくて、「○○からの自由」だけがある心理だと、同類が群れて、集団的な「犯人認定」・・・つまり「つるし上げ」に活路を求めるようになるわけ。
それこそナチもその典型ですし、日本の狂信的な憲法愛好家も、つるし上げは大好きでしょ?政治的な右とか左とかの区別はあっても、そのメンタリティは同じであるわけ。
個が喪失し、集団だけになってしまう状態を求めてしまう。

そのような状態は「○○をする自由」が確立していない、それゆえに自由が重荷になっている・・・そんな心理を理解すると、意外にも簡単に理解できるわけです。

そんな心理が集団で盛り上がって、結局は、とんでもない事態になって、後になって、「少し」冷静になって、「どうして、あんなことに?!」「まあ、騙されていたわ!」「ワタシって、なんてかわいそうなの?」と嘆く・・・そんな流れは結構ポピュラーでしょ?まあ、「その手」の宗教団体から脱却した人がそんな感じで語ったりしますよね?
あるいは、それこそドメスティック・ヴァイオレンスなども、「後になると」そんな感じで語られるでしょ?
多少冷静になると、そんな感じで見えてくるわけですが、その人の根底にあるマゾヒズムは変わっていないわけ。嘆きを並べることを楽しんでいるだけ。まあ、マゾプレイの後で余韻に浸っているようなもの。
だから結局は、同じようなことを繰り返すものなんですね。

このようなマゾヒズム的努力のスタイルとして、フロムの記述を使うと、
「彼らは事実、自分は無力なのだと言い張っているが、彼らの感情(=無力感)はじっさいの欠点や弱点の認識をはるかに超えている・・・彼らは外側の力に、他の人々に、制度に、あるいは自然に、はっきり寄り掛かろうとしている。彼らは自分を肯定しようとせず、したいことをしようとしない。」「マゾヒズム的努力の様々な形は、結局はひとつのことを狙っている。個人的自己から逃れること、自分自身を失うこと、言い換えれば、自由の重荷から逃れることである。」「もし個人がこのようなマゾヒズム的努力を満足させる文化的な型を見つけることができるならば・・・彼はこの感情をともにする数百万の人々と結びついているように感じて、安定感を得るのである。」

まあ、いかにもナチを呼び込む精神状況と言えますし、そんなマゾヒズム的努力に明け暮れている宗教団体って、結構あるでしょ?あるいは、それが小規模のレヴェルで家庭において発生すると、まさに「で、アンタは、結局は、どうしたいの?」という問いから逃避するダメダメ家庭になるわけ。

本人が自覚の上で、そんなことをやっているのならともかく、本人の自覚を放棄させるのが、まさにマゾヒズム的努力なんだから、自覚なんて起きようがない。
結局は、自己を放棄した同類同士が群れてつるむだけ。

フロムによると「マゾヒズム的努力は、その短所、葛藤、疑惑、あるいは耐え難い孤独感を持つ自己から逃げようとする願望に動機付けられている。」「マゾヒズムにおいて、個人は、耐え難い孤独感や無意義感によって動かされていることを意味している・・・・自分自身を小さくして、まったく無意味なものにすることである。」「個人的自我を絶滅させ、耐え難い孤独感に打ち勝とうとする試みは、マゾヒズム的努力の一面にすぎない。もうひとつの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の一部になり、それに没入し、参加しようとする試みである。」「マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれを主人とすることで、決断することから解放される。」とあります。

フロムが言及している集団心理でのマゾヒズム以外にも、個人的な「その手」のプレイにおいては、ご主人様とか女王様とか・・・命令を下す役割が要請されるようです。マゾヒズムとは、誰から問答無用に「命令される」とうれしい心理なんだから、いわば独裁者を自ら求めてしまうわけ。私個人は、その手の「プレイ」の経験はありませんが、フロムが記述するマゾヒズム的な心理については、このメールマガジンで頻繁に触れております。
それこそ、「不幸への憧れ」も、一種のマゾヒズム。
これについてはフロムは、「苦悩は求められることもありうる。・・・・それは自己を忘れるという目的のための手段。」書いています。

自己を忘れるために努力し、結果的に、自我を放棄し、周囲に合わせるだけになってしまう。
まさに「ふつう」になるわけ。フロム流にいうと「動物の保護色」のようなもの。
考えることから逃避して、逃避している自分自身を騙して生きている。
だから都合が悪くなると、他者を犯人認定。

何もルターやカルヴァンの時代や、ヒトラーの時代ばかりではなく、21世紀の日本でも、実に頻繁に見られる光景でしょ?

(終了)
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発信後記

今回はフロムの著作から、多くの文章を引用しております。
何も教養講座をやっているわけではなく、フロムの問題意識が、現在においても、まったく同じように通用する・・・つまり、何も解決されていないことを申し上げたいわけ。

何もフロムが言及している時代ばかりではなく、人類が残した多くの作品には、こんな心理が頻繁に登場してきます。
人類としては、何も進歩していないわけ。
だから個人としての一人ひとりの人間が、おのおの進歩するしかない。
だからこそ「で、自分は結局何がしたいのか?」それが最初になるわけ。
自己否定から、自分の尊厳に到達するわけがないことは、小学生でもわかることでしょ?
R.10/12/13