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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 08年9月10日
タイトル 人物を変えて再登場
ドラマなどの設定で、「名前を変えて再登場」なるパターンがあるそう。
それこそ、以前にちょっと触れましたウォシャウスキー兄弟の映画「スピード・レーサー」という作品でも、そのパターンの設定でした。死んだと思っていた主人公の兄が、名前を変えて、顔を整形して再登場して、映画の主人公である弟の危機を救ってくれるわけ。

陰から見守る・・・そんな設定を有効にするには、そのような「名前を変えて再登場」といういささか突飛な設定も、効果的と言えるんでしょう。
もちろん、それはフィクションの話。
現実の社会では、名前を変えて、誰かを陰から見守るなんて凝ったことはしませんよ。
名前を変えるような事態になったら、何も昔のところに再登場はしないで、別のところで新規やり直しをするものですよ。

映画での設定は、あくまでフィクションの話なんですが、このメールマガジンは現実のダメダメ家庭の問題を対象にしています。この文章で描写されたダメダメ家庭の諸相をお読みになられた、マトモ家庭出身の方の中には、「ありえない!フィクションでもこんなことはないだろうに?!・・・しかし、ここで書いてある視点を取り入れると、実際に多くのことが理解できるぞ!いつもワタシを困らせているあの○○さんの行動も、すんなりと理解できる!」そのように思われた方もいらっしゃるのでは?

ダメダメ家庭というものは、ちょっとしたフィクションよりも、はるかにマトモな精神からは遠いもの。だってマトモ家庭を描いたドラマだったら、シチュエーションが違っているだけで、その心理としては、基本的にマトモな精神を持っていれば理解できるもの。しかし、現実のダメダメ家庭の問題は、ダメダメの精神を元に成立している。発想の根本がマトモな人と違っているわけ。だから現実のダメダメの問題は、フィクションの世界よりも、はるかにマトモからは遠いわけ。

フィクションだったら、「名前を変えて再登場」というスタイルになるわけですが、ノンフィクションというか、現実のダメダメで起こるパターンとなると「人物を変えて再登場」というパターンです。

おいおい!人物が変わったら、再登場ではないだろう?
新たな登場人物なんだから、再登場という言葉は不適だろう?
「名前を変えて再登場」よりも、はるかに非現実的だよ!

そのように突っ込まれる方もいらっしゃるのでは?
もちろん、論理的にはそうなります。

しかし、現実のダメダメ家庭の人とやり取りでは、実際に「人物を変えて再登場」ということが起こっているものなんですよ。

たとえば、メールのやり取りでもそう。
まったく同じような状況や感情を、まったく同じような言葉使いの文章で表現したメールが、私の元に別の人から来たりする。
「あれ?このような状況や、こんな感情や、こんな文章って、以前にもあったなぁ・・・」
「前にやり取りをしたあの人が『名前を変えて』、送ってきたのかな?」
そのように思ってしまうんですね。

しかし、よくよく読んでみると、ちょっとした違いはあったりする。
微小な細部で微妙に違っていたりする。
どうやら・・・以前に、やり取りした○○さんとは、違うようだ・・・
しっかし、よく似ているねぇ・・・
同一人物と思っちゃったよ!

マトモな人は、逆に言うと、その人なりの考えが示されているわけだから、多様性がある。
だって、自分の目で現実を見て、自分のアタマで考えて、自分の言葉で語っていれば、多様性なんて自然に出てきますよ。

しかし、ダメダメ人間は、自己逃避。だから目の前の現実を見ようとしない。
そして、ダメダメ人間は、抑圧的。だから自分では考えない。
そして、ダメダメ人間は、被害者意識が強い。だからあらゆることを、自分の被害と認定して、周囲に対し、自分の被害を語ることになる。

ダメダメな人間は、そんな人間なんだから、逆に言うと、一緒のパターンの行動になってしまうわけ。
ほんの細部に違いはあっても、その基本的なスタイルは、いつも一緒なんですね。
そんな人たちとやり取りしていると、「あれっ?この文章・・・また来たぞ!あの○○さんもシツコイなぁ・・・」と思ってよく見てみると、別の人物だった・・・なんてことになってしまう。

まあ、このメールマガジンの購読者さんが、実際に多くのダメダメ人間とやり取りすることはないでしょう。もし、そんな状況だったら、環境を変えないと危険ですよ。
ただ、現実的には、ダメダメ家庭の人とやり取りせざるを得ないこともありますよね?実際にやり取りするダメダメ家庭の人の発言なり行動が、「このメールマガジンで書いてあるそのままだ!」そのように思われたこともあるのでは?
「あれ?!この発行者さんは、もしかしてあの○○さんを実際に知っているのでは?もしかしてご近所さんなの?」そんな感じで思われたこともあるのでは?

まあ、たぶん・・・ご近所さんではありませんよ。

あるいは、このメールマガジンを購読されていらっしゃる、実際のダメダメ家庭出身者の方は、「あれ?!この文章って、ワタシ自身が育った家庭について、このワタシ自身が文章にするよりも、もっと正確に、そして空気感を持って書いているぞ!」なんて感想をお持ちになったこともあるのでは?

そんなドンピシャ!な描写ができるということは、購読者さんの目の前の○○さんと、発行者のこの私が想定しているダメダメ人間が、「人物を変えて再登場」という間柄になっている・・・そうとも言えますよね?

メールマガジンの文章での描写と、購読者さんの目の前の現実が一致するだけでなく、購読者さんも経験を積むと、「あの○○さんって、以前やり取りした△△さんと、実に雰囲気が似ているなぁ・・・」なんて思うこともあるでしょうし、実際にそんな思いをしたこともあるのでは?

ダメダメな人間は、実に共通性が多いもの。
逆に言うと、早めに察知することもできるわけです。
そうやって上手に距離を取る・・・そうすれば、驚異のノンフィクションもそれなりに楽しめますよ。

(終了)
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発信後記

ダメダメな人間は、行動スタイルが似ていれば、その物言いというか表現スタイルも実に似ているものです。
表現というか、言葉というものが、思考を形作るだけだから、思考のスタイルも似ているわけ。

ダメダメというものは、ツボを押さえておくと、ほとんどのことが理解できるものです。

というか、メールマガジンの文章を多くまとめるにつれて、「ダメダメ家庭は、いい家庭を作ろうとしないから、できる。」ということに気がつきました。
実にシンプルな論理ですよ。

いい家庭を作る気があれば、マトモな家庭ができて、
いい家庭を作る気がなければ、ダメダメ家庭ができる。

「いい家庭を作る気がない」と直接的に自覚しているなら、まだなんとかなりますが、現実のダメダメ家庭は「ふつうの家庭を作りたい。」という言葉にすることで、「いい家庭を作る気のなさ」の自覚から逃避してしまう。

「いい家庭」というものは、その人なりに説明できるけど、「ふつうの家庭」は、説明できない。
説明できないようなものを目指す・・・それが、まさに「いい家庭を作る行動からの逃避」になっているわけ。

「いい家庭」というものは、その人なりのスタイルがあって、多様性がある。しかし、ダメダメな人は「その人にとってのいい家庭」について考えることから逃避しているんだから、結局は、まさに「人物を変えてもいつも同じ事態」になってしまう・・・それがダメダメ家庭というものなんですよ。
R.10/11/1