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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年10月21日
取り上げた作品 アンナ・カレーニナ
作者 レフ・トルストイ
テーマ 自己逃避の諸相
前回において、トルストイの長編小説の「アンナ・カレーニナ」を取り上げました。
今回は、その続編になります。

前回でも書きましたが、作者であるトルストイは主人公のアンナ・カレーニナの中心的なキャラクターとして、「見ない」という設定にしております。
現実を「見ない」「見ようとしない」人が巻き起こす行動なり騒動・・・長編の小説ですが、基本的な流れは、そんなものなんですね。

ダメダメ家庭を作る人は、現状逃避であって、現実を見ようとしないし、自分の将来について考えようとしない。自分で何かを達成したいと思っていない。そんな人はあらゆる事態を自分が被った被害と捉え、「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くことになる。
嘆くだけならまだしも、その被害者意識から、「アイツのせいで・・・こんな事態に!」と何かを犯人認定して、その「アイツに報復してやる!」なんて発想になってしまう。

まさに、この「アンナ・カレーニナ」の冒頭にある有名な文句である「復讐は我にあり 我これに酬いん。」となるわけ。「被害に対して復讐するのはともかく、じゃあ、それ以外には何があるのか?自分で何をしたいのか?」と言われても答えられない。復讐すること、それのみがアイデンティティになってしまうわけ。

ヘンな話になりますが、このアンナ・カレーニナさんは、自分自身を抑圧していて、被害者意識が強く、だからスグに逆上し大騒ぎ、そして他者の気持ちを考えないという点において、典型的な韓国人と言ってもいいくらい。皆様も、この「アンナ・カレーニナ」を読まれる際には、アンナさんが韓国人と思ってお読みになると、実感が湧いてくると思います。

あるいは、「復讐は我にあり」なんて、クレーマー系の市民運動の人たちとまったく同じ。
実に、身近な姿なんですよ。

さて、前回配信の文章で、第一章の冒頭にある「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれである。」という言葉に言及いたしました。
その言葉のロシア語の詳細がわからないと、何とも言いようがありませんが、「アンナ・カレーニナ」という作品全体においては、作者のトルストイは、幸福な家庭というよりも、不幸な家庭の方がみな似たり寄ったりであること・・・その根本原因として、当事者意識がなく、現実逃避の精神がある・・・その点について、見事に浮かび上がらせています。

第1章の冒頭の言葉はともかく、作品全体としては「およそ不幸な家庭はみな似たりよったりのものであるが、幸福な家庭はそれぞれである。」ことが表現されているわけ。別の言い方をすると「およそ不幸な家庭を『作る人』はみな似たりよったりのものであるが、幸福な家庭を『作る会話』は、それぞれである。」そう言ってもいいでしょう。そういう意味では、このメールマガジンで書いていることと同じなんですよ。

そのように当事者意識がなく、現実逃避であるがゆえに、何も見ないし、何も考えない。
その結果が、不幸な家庭というか、ダメダメ家庭になる。
そのような流れにおいては、多くのダメダメ家庭は、実に似ているもの。

さて、ここで、「アンナ・カレーニナ」で描かれている、この当事者意識の欠如なり現実逃避の諸相をリストアップしてみましょう。

1. あら探し・・・アンナは、当事者意識がないので常に減点法。だからマイナス部分への反応は鋭い。人からアドヴァイスなり情報を得ても、真っ先にするのが「あら探し」。「あの○○には、こんな不都合がある!だからダメだ!」。そして何もしないわけ。特に列車に飛び込む前においては、アンナは、あらゆるものをネガティヴに見て、「アイツはこんな欠点がある!これは、こんなにダメ!」とあら探し状態が頂点に達してしまっている状態。こんな状態は、ダメダメの心理としては、程度は別にして、頻繁に起こっているものなんですよ。

2. 逃げられる対象への関わり・・・アンナはウロンスキーとの間に生まれた自分の娘をネグレクト(育児放棄)しているのに、知り合いの子供を引き取って可愛がっている。最終的に自分に責任があるものは、いざとなっても逃げられないので、そのようなものと接するのは苦手。いざとなったら逃げられるようなものだと、安心して接することができるわけ。まあ、ボランティアの連中の心理と同じなんですね。

3. プライオリティ・・・本来なら、自分の離婚なり子育てなりを必死で考えなくてはならいはずなのに、アンナは、建築のことに関心を持ったり、美術に関心を持ったりと余計なことに首を突っ込んでいる。しかし、本来は、自分の身をしっかりさせてからでしょ?しかし、自分を抑圧しているので、自分自身にとって重要なことに向き合うことが怖いわけ。

4. 甘い周囲環境・・・そんな自己逃避のアンナに対して「アナタは、結局は、どうしたいの?」と言ってくる人間を排除してしまって、「まあ!なんてお気の毒なの?!」と言うような人間を集めてしまう。アンナとウロンスキーが田舎で一緒に暮していた際にも、そのような「おべんちゃら」するしか能がない女性をはべらせているわけ。

5. 自分自身がわかっていない・・・アンナは「人の気持ちが、自分の気持ちと同じくらいにわかったらねぇ・・・」などと、のたまいますが、読んでいるこの私も大爆笑。じゃあ、アンナは自分自身の気持ちをわかっているの?しかし、自己逃避であるがゆえに、「自分が自分自身のことをわかっていない。」こと自体がわからないわけ。自分自身についてわかっていない人は、この「ワタシは人の気持ちがわからない。」と言ったりするものなんですよ。

6. 幸福になる努力・・・アンナはグチばかり。だからと言って、じゃあ、幸福になるための努力は何もしないわけ。ただグチっているばかりなんですね。

7. 人の気持ちを無視・・・被害者意識が強い人は、「自分が一番かわいそうな人間」と確信しているので、他者の気持ちは無視する。それこそ「お母さんは死んだ」ということになっている自分の息子に突然に会いに出かけて、息子の心を混乱させる始末。そんなに息子がかわいいなら、まずは自分の身をしっかりさせて、息子を引き取るなり定期的に会いにくるなりの行動も取れるでしょ?しかし、自分の現実から目を逸らすために、自分の息子を利用しているんですね。

8. 気分次第・・・息子に会いに行くのだって、実に気分次第。事前準備なり、現状認識なり、将来展望なりも何もない状態で、突然に気分次第で会いに出かける。そして大騒ぎとなる。自分で考えることから逃避している人は、計画性がまるでないので、その時の気分で動いてしまうわけ。

9. 先送り・・・現実を見たくないと言っているアンナは、常に問題を先送り。だからウロンスキーとの関係も「内縁の妻」のまま。早めに対処しておけば、離婚するのも簡単だったのに、結論を出すのを先送りしているなら、離婚も難しくなってしまう。そうやって出口をどんどんと塞いでしまって、列車へのダイビングという究極の出口になってしまうわけ。


さて、この「アンナ・カレーニナ」は、このアンナの自己逃避をより明確化するために、対照的なキャラクターであるレーウィンとキティの夫婦も同時並行的に描写されています。

レーウィンもキティの双方とも、アンナと違って、その都度、判断する人間。
その判断に間違いがあることもありました。たとえばキティは最初には、お軽いウロンスキー伯爵に熱を上げていました。しかし、キティは自分自身や現状を認識して、レーウィンと結婚したわけ。そして結婚後は2人でディスカッションをしながら物事を進めていきます。逆に言うと、現実に向き合い、ディスカッションできる人間同士が結婚したわけ。

普段から現実と向き合ってディスカッションしているので、「言葉だけ」の軽薄な人間に対して、「なんか違うなぁ・・・」と違和感を持ったりする。だから、周囲の人間も「それなり」の人間が集まることになる。

しかし現状と向き合って、その都度解決していく習慣があれば、逆に言うと、解決の方法論も向上していくわけですし、周辺環境も、それに役に立つようになるわけ。
レーウィンとキティの夫婦は、地味ではあるけれど、事態に向き合って、ひとつずつ解決している。まあ物事の解決のためには、こんな感じにならざるを得ないもの。

それに対し、アンナは、現実から目を背けて、自分の被害を語るばかり。
被害は語っても、自分の希望は語れない。
そんなアンナは、所詮は、「お騒がせキャラ」「トラブルメーカー」にすぎないわけ。

文学解説の中では、アンナとウロンスキー伯爵の「激しい恋」なんてオバカな解説があったりするようですが、全然違っています。だってアンナはウロンスキーのどこを愛しているの?
アンナが求めているのは、現実から目を逸らしてくれる存在というだけ。一時的にそれが夫だったり、子供だったり、あるいは情夫だったりするだけ。アンナはウロンスキーのキャラクターを肯定的に見ているわけではなく、アンナにとってウロンスキーは自己逃避の具現化にすぎないわけ。

この「アンナ・カレーニナ」において、第7章の最後において、アンナは鉄道自殺いたします。第7章に続く第8章は、残された人々の描写になります。
アンナと深く関わったウロンスキー伯爵は、死に場所を求め、クリミア戦争に志願して出征する。あるいは夫であるアレクセイ・カレーニンは、精神状態がメチャクチャになってしまいオカルトに走る始末。アンナは結果的に誰も幸福にしない。ただ距離を持って、アンナを見ていた人は、アンナの事例を考えることになる。

このようなスタイルはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」と同じ。「ドン・ジョヴァンニ」においても、ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちた後で、残された人が、今後の展望を語り合うわけ。周囲の人にしてみれば、お騒がせの後で、じっくり自分自身を見直す・・・そんな契機にはなるわけです。

この手の「自分の希望を言えない」現実逃避キャラの話となると、以前に取り上げた映画「ベティ・ブルー」のベティもそうでした。あるいはこれも以前に取り上げたオペラ「蝶々夫人」のチョーチョーさんもそのパターン。あるいは、以前に集中的に取り上げたバルザックの「谷間のゆり」のアンリエットもその典型と言えます。あるいは、現実世界だと、それこそ田中真紀子さんもそのパターンでしょ?この手のキャラは、現実から逃避している分、逆に、現実から遊離した正論をぶったりするもの。だから「あの人は立派な人だ!」なんて言われたりもする。
しかし、そんな正論は、現実から目を背けるため、そして自分で考えないための正論であって、結局は、自分自身からの逃避なんですね。

まあ、この手の「お騒がせキャラ」は、ちょっと距離をおいて、見ていると自分自身を理解し、見つめなおすいい材料になるもの。しかし、ズブズブの関係になると、一緒に堕ちてしまうだけ。

この「アンナ・カレーニナ」をお読みになって、「まあ、なんてお気の毒な!」なんて感想を持つのはともかく、実際に身近にいたら、はっきり言って鬱陶しい存在ですよ。その点を踏まえ、適切な距離を取らないとね。
逆に言うと、この手の現実逃避の人は、何も考えずに「まあ、なんてお気の毒な!」なんて言うような人間ばかりを、自分の周囲に集めようとするわけ。
そんな人たちを組織して、「復讐するは『我々』にあり」になってしまう。

そんなシーンは、21世紀の日本でも実にポピュラーでしょ?

(終了)
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発信後記

芸術家の言っていることは、意外にもシンプルなことが多いもの。
それこそ、トルストイは晩年の作品である「復活」を発表した際に、「この作品を通じて、新約聖書を、虚心坦懐に読み直してくれればそれでいいんじゃ。」言っていたそう。

芸術家のメッセージなんて、実は、そんなものなんですよ。
しかし、それは、「ほとんどの一般人が、新約聖書を読んでいても、虚心に読んでいるわけではない。」という認識がないと、理解されないもの。
研究者とか文学愛好家も、聖書なり小説なりを読んでいても、実際は何もわかっていない。
そんなことは、それこそ聖書でキリストが言っているとおり。

ご存知のようにトルストイは、最後には家出をして、駅で「のたれ死」をいたしました。
いちおう病院には担ぎ込まれたようですが、実質上はのたれ死。
家出をするのはいいとして、のたれ死なんてね。
しかし、たとえメールマガジンのような文章であっても、まがりなりにも文章を書いている私としては、彼の行動の意味もよくわかる。

文章を書いている人間にしてみれば、せめて最後には、自分の理解者と話をしたいと思いますよ。当然のこととしてトルストイの元にはファンレターも来たでしょうしね。
そんなファンのところに行ってもいいのでは?

しかし、ファンが理解者であるとは限らない。
そして、往々にして、そのことをファンはわかっていないもの。
もし、「この人はオレの文章を隅々まで理解してくれている!」なんて思わされる人からファンレターが来ていたら、その人のところに行きますよ。
何も駅でのたれ死する必要もないでしょう。
しかし、理解者の不在という思いがあるがゆえに、家出をすることになる。

ちなみに、そのような心理は、まさにトルストイの「セルゲイ神父」という短編に触れられております。トルストイ自身はわかっていて、やっているわけ。
そんな発想は、以前にちょっと触れたウィーダの「フランダースの犬」におけるネロの発想と同じ。

芸術家の発想なんて、ツボがわかっていると、実に理解しやすいもの。ただ、別に理解する必要はありません。そんな連中は、むしろ、距離を置いて上手に利用した方が利口ですよ。
R.10/12/14