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カテゴリー ダメダメ家庭の金銭感覚
配信日 08年10月22日
タイトル 晴れた日に傘を貸す
ちょっと前(08年)のアメリカのサブプライム・ローンの破綻を契機に、金融機関で大騒動になりましたよね?
株価が大暴落したり、外国為替も円高になったりで大変動でした。

そもそもサブプライム・ローンとなると、プライム(=優良)とは言えない人を対象としたローンなんだから、返済不履行の危険はかなり持っている。それなのに、アメリカの金融機関は、それこそ以前に債務が滞って、ブラックリストに載っているような人間にも多額のお金を貸しました。しかし、それって貸す側にとって危険でしょ?貸したお金が返ってこなかったら、金融機関も大変なことになってしまうでしょ?

しかし、金融機関は、そんなことお構いなしに「貸し込んだ」わけ。
どうして?そんなリスキーなことを?
それは、担保となる不動産価値を元に判断して融資したからです。
「借りた側」が、債務不履行に陥っても、いざとなったら、その担保を差し押さえればいいじゃないか?それにスジのよくないお客だったら、金利も高く取れる。だから、どのように転んでも儲かるぞ!
そんな判断があって、「お気軽に」貸し込んでしまったわけ。

この判断は、不動産の担保価値が下がらない場合においては有効な方法です。
しかし、逆に言うと、不動産の担保価値が下がってしまったら、もう対処できない。
貸したお金をどうやって取り返せばいいのか、その方法がない状態。もともと、スジがよくない債務者なんだし・・・
結局は、ドッカーンとなってしまうことに。

これと同じ光景は、まさに日本でも以前にありましたよね?
借りる側の、返済能力を考えることなく、ただ担保である不動産だけに着目して融資する。皆が不動産を買うから、不動産価格もどんどんと値上がりする。担保価値が上がった分は、また借金をして何かを買う。みんなが買うから、もっと不動産が値上がりする。
最初は、好循環だったけど、結局は、不動産価格がいつまでも上がるわけもない。
突然に逆回転になってしまって、坂道を転げ落ちてしまう。

そんな姿は、時代や洋の東西を問わず、起こっていること。
バブルというものは、それこそ歴史的に有名なオランダのチューリップ・バブルも、そんな面があるでしょ?

さて、このメールマガジンは当然のこととして、経済問題についてのメールマガジンではありません。ただ、経済問題も、家庭問題も、ダメダメというものは共通しているもの。
ドッカーンとなるプロセスなり、その心理は、実に似ているわけです。

さて、「不動産担保があるからどんどんと貸しちゃえ!」と行け行けで貸すのは、本来は、レアケースと言えます。金融機関たるものは、本来は、もっと慎重に融資先を選定しないといけないでしょ?
逆に言うと、その慎重さゆえに、金融機関・・・特に銀行は嫌われたりするもの。
銀行が行う、そんな融資の姿勢を評して、こんな言い方をされたりしますよね?
「晴れた日に傘を貸す。」

本来は、傘というものは、雨の日にこそ必要なもの。晴れている時に貸してもらっても、役に立ちませんよ。
しかし、晴れた日という順調な時だったら、貸す側としては安心できる。借りる側も、平常心でいるわけだから、借りる側の対応も、ある程度は計算できる。
逆に言うと、その人がトラブル状況にある・・・つまり雨の日だったら、ヘタをすると貸した傘が返ってこない可能性もある。
貸す側にしてみれば、確実に傘が返って来る状況で貸したいでしょ?
しかし、借りる側にしてみれば、経済的サポートは、当人が困っている状況にある時こそ必要なもの。

だから借りる側と貸す側には齟齬が起こるわけですし、それが感情的なもつれにつながってしまうことも多い。
ただ、銀行としては、「借りたものを返すかどうかわからない」相手には、貸さない・・・って、それが商売なんだから、これはしょうがない。
リスキーな相手に対しては、たとえば、その会社の株式を購入するとかの別の方法が必要でしょう。

しかし、「困っている時にサポートしてくれるかどうか?」という問題は、実に大きな問題でしょ?見捨てるのもビジネスですが、精一杯サポートする考えもありますよ。
それこそ、あのトヨタ自動車は、大昔にピンチになった時に、住友系の銀行から見捨てられました。だから、トヨタは今でも住友が大嫌い。つまり、銀行としては見捨てたことによって、大きなビジネスチャンスを失ってしまったわけです。
逆に、ホンダ自動車は、困っている時に、三菱系の銀行の支店にお世話になったので、ホンダはいつまでも、その「支店」とお付き合いしています。ホンダは本店ではなく、かつて世話になった支店と付き合っているわけ。
困った時に手を差し伸べてくれる人を信頼するのは当然のことですよ。

まあ、ビジネスはリスクとリターンの兼ね合いなんだから、それぞれの判断があるでしょう。
困っているものを、助けようと見捨てようと、その人の「商売上」の判断です。

ビジネスはビジネスとして、じゃあ、このメールマガジンで考えております家庭の領域においては?

よく「本当に困った時に、頼りになるのは、家族だけだ!」なんてことを言う人がいます。
前にも書いておりますが、ビジネスの観点で考えれば、相手が苦境にある時には、サポートが不発になる可能性も高い。リターンが得られない可能性が高いわけ。
だから「相手が困っている時には、見捨てる。」という判断が起こりやすい。

そのようなビジネス・シーンに比べて、家族は欲得で動いているわけではないんだから、リターンがない状況でも、家族だったら無条件でサポートしてくれる・・・という考えで「本当に困った時に、頼りになるのは、家族だけだ!」との言葉になる。
これは、マトモ家庭においては、現実的に成立している考えですよね?
だって、家族における本当の財産は、金銭的なものではないでしょ?
一緒に過ごした時間だったり、思い出だったり、心休まる感情だったり、それに基づいた信頼関係だったり・・・
それが家族の財産でしょ?

しかし、ダメダメ家庭においては、一緒にいて楽しかったわけではないし、特に楽しい思い出もない。
だから、ダメダメ家庭においては、家族の間は、精神的な結びつきというよりも、法律的なり金銭的な結びつきなんですね。そもそも子育てだって、ダメダメな親は「費用対効果」で考えている。
だって、子育ては親である自分が被った被害と考えているんだから、その持ち出しというか被害に見合うリターンを要求することは、ダメダメな親にしてみれば理にかなったこととみなしている。だから、それを要求することになる。そのような経済的な「締め付け」がダメダメ家庭の結びつき。

そのようにリターンというか返済を重視しているので、ダメダメな親は、子供がピンチの時には、まさに見捨てるわけ。
まあ、大阪の人が、「振り込め詐欺」に「引っ掛からない」のも、そんな観点から理解できるでしょ?大阪の人間は、困っている時には親に頼る発想もないし、困っている自分の子供を助ける発想もないわけ。だから「振り込め詐欺」には引っかからない。

逆に言うと、ダメダメ家庭では、子供が順調な時にはチョッカイを出して、「オマエも、何か困っていることはないか?」などと言い出したりするもの。しかし、子供が実際に困っていると「そんな困った表情をするな!」と一喝。
まさに「晴れた日に傘を貸す」状態なんですね。

それこそ、自分の娘が結婚してドメスティック・ヴァイオレンスに陥って、その女性が「自分が殺されるか?相手を殺すか?」という状況にあっても、親として知らん振り。
ダメダメな親は「オレに迷惑をかけるな!」と言い渡すだけ。現実的には、そもそも子供時代から「親に迷惑をかけるな!」と言われ続けなので、そもそもそんな状況の女性は、最初から親に助けを求めることは思考の範疇外になっているわけ。トラブル状況にあればあるほど、自分ひとりで解決する・・・それがダメダメ家庭の常識。
しかし、だからこそ、そんな心情を共有できる暴力オトコと結婚してしまったわけでしょ?

ダメダメ家庭出身者にしてみれば、親という存在は「晴れた日に傘を貸す」存在と認識されていて、自分が困っている時、つまり雨の時には、頼りになる人物のリストには入っていないわけ。

じゃあ、どこを頼るの?
こうなってくると、結局は、公的機関を頼るようになるわけです。
だって、公的機関は、法律でその活動が規定されていますよね?
つまり「駆け引き」をしない存在と言えるでしょ?
それに対して、自分の親は「駆け引き」をしてくる・・・だから、困っている時には、頼りにならないばかりではなく、たとえ、その問題が解決されても、そのことで恩を着せられ、高い代償を支払うことになる・・・ダメダメ家庭出身者はそう思っているわけ。
いわば、銀行どころかヤミ金に近い認識なんですね。

だからダメダメ家庭の人間は、何かトラブルがあると、スグに公的機関に駆け込みますよね?
それこそ、以前に大阪で起こった、島田紳助氏暴力事件の『被害者』の女性も、実に迅速に警察なり弁護士に話を持って行ったでしょ?
それって、自分の身近な存在を信頼していないということなんですね。その根底には、「自分が困った時には、家族は助けになってくれない。」という思いがあるわけ。

それを自覚すればまだ救いがあるわけですが、現実はそうは行かない。
そもそも、ダメダメ家庭で育って、抑圧的な精神なり自己逃避が身についているんだから、的確な自己認識なんて不可能。だから、自分自身が家族などの身近な存在を信頼していないことを自覚すること自体が難しい。

結局は、いつも公的機関を頼るようになり、その公的機関への要望を実現させるために運動を起こすようになってしまう。いわゆる市民運動です。

「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」
「政府はいったい何をやっているんだ!」
「ヨシっ!政府にクレームをつけよう!」

そうやって、どんどんと自分から遠い存在の問題にしてしまう。
そうして、その遠い存在に対抗心を燃やすことで、ますます自己逃避。
遠い存在を考えるのはいいとして、「じゃあ、自分にとって身近な存在との間は、どんな関係になっているのか?」ということを考えることから逃避しているわけ。

さすがに、晴れの日に傘を貸そうとすると、周囲の人間から怪訝に思われてしまう。
しかし、確実にリターンが得られ、「シリアスではない」状況においてこそ、サポートをしたがるのは、ダメダメ家庭の人間が現実にやっていること。

それこそ、傘を貸す例で言うと、雨の日に、たまたま通りがかった子供には、「まあ、濡れちゃってタイヘンねぇ!この傘をお使いなさい!」などと、実に親切に貸したりするわけ。
しかし、知らない子供はともかく、自分の子供が困っていても知らん振り。

見知らぬ子供に傘を貸す行為は、ダメダメ人間が求める「いい人」認定を得ることができるでしょ?「いい人」認定を得ると、何かトラブルになった場合には、そのダメダメな親は、周囲から『あんなにいい人なんだから・・・あのトラブルは、親の問題ではなく、子供のせいだ!』と言われ、自分は被害者としてのポジションを得ることができるわけ。つまり確実なリターンがあることになる。
それに、知らない子供へのサポートだったら、イザとなったら、「ワタシとは関係ないし・・・」と言って逃げることができるわけだから、精神的にラク。
それを意識してやっているわけではありませんが、そんなことが自然にできてしまう・・・それがダメダメな親というもの。それこそ、前回配信の文章で取り上げたトルストイのアンナ・カレーニナもそのパターンです。知人の子供は可愛がっても、自分の子はネグレクトするわけ。

もちろん、このような「晴れた日に傘を貸す」行為の代表例がボランティアの連中です。
この場合も、サポートしている相手が、まさに切羽詰った状態になったら、ボランティアの連中はトンズラしてしまうでしょ?
「晴れ」ではないにせよ、比較的安定している「曇り」の状態の時にしか、サポートしようとはしませんよね?

そうして「ボクって、なんていい子なんだ?!」と自画自賛。
そのような行為を、まさにダメダメな親は、自分の家庭でやっているものなんですよ。

そうして、いったん、トラブルが起こったりすると、「こんなに『いい人』のワタシなのに、うまく行かないのは○○のせいだ!」と犯人認定に明け暮れ、「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と自己憐憫。
「自分こそが一番かわいそう。」と自分で勝手に認定しているので、自分の目の前で困っている自分の子供のサポートはしない。

そんな親から子供が離れていこうとすると、「オマエのために、人生を棒に振った!」と、締め付けをしようとする。
そうして「困った時に、頼りになるのは家族だけじゃないか?!」などとご高説。

そんな人は、家族以外には相手にされていないだけ。
そして、家族からも相手にされなくなってしまう。

不幸にもそんな家庭に育ったら、そのことを自覚するしかないわけです。しかし、現実的には、その自覚から逃避して、ボランティア活動などをやって、結局は、自分の親と同じような、「晴れた日に傘を貸す」ようなことをやっている・・・そんなものでしょ?

(終了)
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発信後記

昨日は、トルストイの「アンナ・カレーニナ」についての文章を2回に分けたので、暫定的に火曜日にも配信しております。
文章が長くなりすぎる場合には、分割した方が読みやすいと考えておりますので、今後とも、そんなパターンはあるかと思っております。

家庭問題についての芸術作品を読んでみると、意外にも、どれも同じようなことを言っている。家庭問題に限らず、組織の運営についての基本的な考え方は、実はどれも一緒。
たとえば、イタリアのマキャベリが言う国家運営の基本も、私がここで言っている家庭運営の基本も、同じです。
それは「予防に注意して、早めのケアー。」

マキャベリに対しても、過激なことを言っているなんて言われたりしますが、実際に読んでみると当たり前のことしか言っていないもの。
家庭問題についても、家庭問題の学者さんの文章よりも、巨匠といえるような芸術家の考えの方が適切なもの。ただ、そんな的確な視点が示されていても、ヘンな解説者が曲解してしまい、一般の読者がそれに引きずられる・・・そっちの方が問題なんでしょうね。
R.10/12/14