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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 08年12月10日 (10年12月28日 記述を追加)
タイトル しなきゃいいじゃん
以前に面白い主張がありました。
NHKの年末の紅白歌合戦で、会場でナマで視聴する参加者の申し込みが、NHKの受信契約をしている人に限定されるとの報道に関してです。NHKとしては、受信契約もしていない人に対して、紅白歌合戦をナマで見せる義務はないし、そんなことを許せば、正規に受信契約をしている人に申し訳がないと考えているんでしょうね。
そのNHKによる「申し込み制限」に対して、「差別だ!ケシカラン!」なんて主張が載っていました。

何と言ったらいいのかなぁ・・・

「差別だ!ケシカラン!」と息巻いているその人は、その紅白歌合戦をそんなにも会場で見たいの?
どうしても見たいのなら、NHKの契約くらいはすればいいのでは?受信契約もしていないのに、どうして紅白歌合戦などに関心を持つの?
あるいは、ティケットをオークションなどで入手すればいいじゃないの?
と言うか、本当に紅白歌合戦は好きなの?テレビ放送ではいつも見ているの?そうでなかったら、何もそんなにしてまでナマで見なくてもいいじゃん。

ダメダメ家庭の人とやり取りすると、そんな「じゃあ、すればいいじゃん!」「そんなこと、無理にしなきゃいいじゃん!」と思わされることが実に多いもの。

このようなことと似た事例で、ちょっと前にビックリするような報道がありました。
韓国の新聞に載っていた主張です。
なんでも、韓国ではゲームソフトの不正コピーが横行していて、ほとんどが不正コピー品なんだそう。しかし、誰かがその不正コピーのソフトにウィルスを入れたりすることもあるらしく、それによって、パソコンなどが壊れてしまうことになったりするんだそう。
その新聞が警告して曰く。
「コピーソフトによる、パソコン破壊という『被害』から、どうやって我々は守っていけばいいのだろうか?どんな対策を取るべきなのだろうか?メーカーに対してどんな対策を要求すべきなんだろうか?」

そんな「警告」が載っていたのは、韓国でも一流紙とされる新聞です。
しっかし・・・「どうやって守る」も何も・・・
そんなこと、本来なら小学生でもわかることでしょ?
そう!不正コピー品なんて使わなきゃいいだけ。

一番効果的で、まあ、一番倫理的でしょ?
それって、NHKの紅白歌合戦での会場参加の申し込みと同じ。
自分がしたいことが、自覚できていれば、それに最適の方法を取ればいいだけ。そのための費用なりリスクもありますが、そのプライオリティは自分で判断すればいいだけ。

しかし、ダメダメ人間は、当事者意識がない。だから、そもそも自分がやりたいこと、それ自体を自覚していないので、存在するのは目標ではなく、障害要因だけ。
ヘンな話になりますが、ダメダメ家庭の人間は、「目的を達成するための、障害として、○○が存在する。」という形ではなく、「○○という気に入らないものが存在するから、それが障害として、と言うか、犯人として認定できることに最適な目標を、とりあえず設定する。」そんなものなんですね。障害が主であって、達成したい目標は従になっているわけ。
それこそ、女性運動なんて、その典型でしょ?

以前に取り上げたエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で用いられた表現を使うと、「○○からの自由」は存在するけど、「○○をする自由」は存在しない状態となっている。
そんな人は、障害を語ることには熱心でも、目的は語れない。
「で、アンタはどうしたいの?」「結局は、何を達成したいの?」なんて聞かれると、『どうして、そんなイヤなことを聞くのよ!』と逆上するばかり。

たとえば、「アンタの言う『ふつう』って、いったい何?」なんて質問に「ワタシを貶めようとしている!」と、腹を立てるよりも、「ワタシは『ふつう』をこのように考える。」って言えばいいだけでしょ?
あるいは、「人の文章を批判しているだけと思われるかもしれませんが・・・」なんてエクスキューズして、人の文章にケチをつけるより、ヘタはヘタなりに自分で文章を書けばいいじゃないの?自分なりに文章をまとめた方が、その人の考えが伝わりますよ。どうせエクスキューズするにせよ、「文章を書きなれていないので、文脈が乱れていますが・・・」くらいでしょ?

ダメダメ家庭の人間は当事者意識がなく被害者意識が強い。
そして、自分がかわいそうな被害者であることが、絶対の前提条件となっている。
つまり目標がなくて、自分の「被害」につながる障害だけが存在するわけ。
だから、語ることは、障害についてだけ。

いつだって語るのは「○○のせいで、△△ができない!」という言葉となる。
しかし、その言葉を聞いた周囲の人が、『じゃあ、こうすればいいじゃないの?』という具体的な方法を指摘すると、「それはできない!」と一刀両断。
『どうしてできないの?』と聞くと「うんたら、かんたら」。
『じゃあ、結局はアンタはどうしたいのさ?』と聞くと、「どうして、そんなことを聞くのよ!キーっ!」といつものお約束展開。

まあ、そんな光景が典型的に繰り返されているのは、離婚相談の時です。
「ああ!ワタシは夫が大嫌い!」
「もう一瞬だって、一緒にいたくない!」
「しかし、○○のせいで離婚できない!」

そんな言葉はいいとして、『こんな方法があるよ!』なんて、離婚のための現実的な方法論を指摘すると、お約束のように「子供がいるから・・・」となる。
じゃあ、「一瞬たりとも、夫と一緒にいたくはない!」という言葉は何だったの?
そうなっちゃうでしょ?
と言うか、よく、そんな嫌いなオトコとの間に子供を作ったねぇ・・・
それも、往々にして、2人も3人も・・・

そんなグチばかり言う母親に育てられる子供が一番の被害者ですよ。
だって、「子供のため」という名目で、すべてを片付けてしまうわけだから、結局は「子供のせい」と子供を犯人認定するものなんですね。

同じようなことは離婚の時だけでなく、それこそ結婚前でも同じでしょ?
「あ〜あ、ワタシの周りはバカばっかり!とこかにいいオトコはいないかなぁ・・・」
「こんなバカばかりだったら、結婚する気にならないわ!」
そんなグチもおなじみですよね?

しかし、そんなグチを聞かされた側は、『じゃあ、結婚しなきゃいいじゃないの?』と言ってオシマイでしょ?バカなオトコと一緒になって苦労するより、一人でやりたいことを、どんどんとやればいい話ですよ。逆に言うと、やりたいことを自分でやっていく人だったら、周囲の人間も、バカではない人が集まってくるでしょ?
そうなれば、気の合う人もいますよ。

当人がグチばかり言っているから、周囲の人間もバカばかりなんでしょ?
しかし、「結婚しない」という判断をせずに、なんとなく「結婚しなきゃいけない。」ということで、結局は「て・き・と・う」に結婚して、今度は「ああ!ワタシは夫が大嫌い!」「ああ!離婚したいなぁ・・・」と来る。
そして、結局は、より大きなトラブルが発生してしまい、「○○という事情があって・・・」と言い訳することになる。しかし、その事情とやらも、別に大したことではない。はっきり言って理由のための理由のレヴェル。

この手の人は、抑圧的であり、自分で判断することが怖いわけ。
だから、「○○をしない」という判断もしないもの。
「結婚しない」という判断もしないし、「子供を作らない」という判断もしない。
あるいは、「その商品を購入しない」という判断もしない。
そのような「○○しない」という判断を怖がっている人として、現在(08年12月)に大臣をなさっておられる野田聖子さんがその典型でしょ?

彼女は「結婚しない」という判断ができないがゆえに、「て・き・と・う」に結婚してしまう。「苗字を変えない」「変えさせたくない」という判断ができないがゆえに、「夫婦別姓にこだわる」ことになる。「子供を作らない」という判断ができないがゆえに、無理な不妊治療をすることになる。それくらいなら個人の問題ですが、「その商品を購入しない」という判断が怖いので、「商品の販売中止」なんて過激な方法しか提示できない。
「どの銀行がいいのか?」自分で判断するのが怖いので、「ここ行っておけば安心」といえる郵便局が大好き。
彼女の言動からは、あらゆる場面において、「選択という状況」に対する恐怖感が見えてくるんですね。

自分自身を抑圧している人は、自分の被害を語るばかり。だからグチグチと文句をいうことはできても、「じゃあ、しなきゃいいじゃん?」「買わなければいいじゃん?」「マトモなのを選べばいいじゃないの?」なんて言われたら対応できない。
それについては、論理展開力という知力の問題というよりも、「選択することが怖い」という心理的な心の弱さの問題なんですね。たぶん、野田聖子さんのご尊父が強圧的な人なのでは?彼女は、そのことを自覚することから逃避しているわけです。
以前にもエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を取り上げた際にも言及いたしましたが、そのような「選択から逃避する心理」がナチスを呼び込んだわけです。

ダメダメ家庭の人間は、「これをやり遂げたい!」なんてものが何もない。
やり遂げるための障害があるのではなく、自分を被害者として説明するためのネタとなる障害があるだけ。
結局は「ワタシをかわいそうな被害者と認めて欲しい!」ただそれだけ。

だから常に理屈のための理屈で終わってしまう。
その理屈のための理屈も、自分を被害者として説明するための理屈に限定される。
そして、自身が被害者となる話を喜んで周囲に語ることになる。
それって、別の言い方をすると、「不幸自慢」であり「苦労自慢」でしょ?

それこそ、何でもコンピューター・ゲームをお好きな人で、わざわざ「できの悪いゲーム」をやり、その「できの悪さ」を、嘆きとともに語る人がいるんだとか。
「ああ!なんてヒドイゲームなんだ?!こんなゲームをやらされるオレって、なんてかわいそうなんだ?!」という雰囲気らしい。
しかし、そんなに出来の悪いゲームなどは、無理にやる必要はないでしょ?
しかし、できの悪いゲームだからこそ、いっぱいの「苦労」や「不幸」を体験でき、それを嘆きを持って語ることもできるようになる。

まあ、コンピューター・ゲームの分野で不幸自慢や苦労自慢をするくらいなら、それこそフィクションの世界の話ですよ。
しかし、たとえば、経済的にそれほど困窮していなくて、無理に働きにでる必要もないのに、あえて働いて、そして、その職場での問題をグチったりする女性も、現実にいるでしょ?
「アナタは、お気楽な専業主婦でいいわねぇ・・・ワタシなんて、いつも大変よ!オマケの職場の上司はイヤな人で、それに亭主は家事に非協力的だし・・・」
しかし、そんなグチを聞かされても、『そうまでして働かなくてもいいじゃないの?アタナはお金にそれほど困っているわけではないんだし・・・』『その仕事が楽しいのなら、それはそれでアナタなりの判断だけど、そんなにイヤなのにどうして続けているの?』と、思ってしまうことになる。

しかし、お金に困っているというよりも、困っているというネタを作るために働いていると見れば、その手のグチも理解しやすいわけです。
不幸自慢愛好家は、不幸につながるものを積極的に手がけることになる。
その手の人は、不幸を語ることが目的であり、事態を改善するつもりはない。
所詮は不幸自慢,苦労自慢なんだから、そんな嘆きを聞かされても、『そんなことを、わざわざしなきゃいいじゃないの?』と思ってしまうのも当然なんですね。

逆に言うと、その手の「そんなことを、わざわざしなくていいじゃないの?」と言いたくなるようなことを周囲の人に語りたがる人は、その本質としては不幸自慢に執り憑かれているわけで、そんな人が、子供を持ったことそれ自体も、不幸自慢のためのネタと見ることができるわけです。
だから、自分の子供を幸福にしてあげようとは考えない。

わざわざ、できの悪いゲームを買って嘆くくらいならともかく、
あるいは、NHKの紅白歌合戦の問題で被差別意識を叫ぶこともともかく、
不幸自慢のために、子供を作るような人間は、その人だけの問題として完結するわけではなく、子供を巻き込んで不幸自慢のネタにしてしまう。
だから、スパイラル的に事態が悪化してしまう。
それが、不幸自慢の人間にはたまらなく心地いい。

そもそも事態を解決するつもりがなく、その不幸を嘆くことが目的となっているのだから、一番効果的な方法には見向きもしない。
ホント、ダメダメ家庭の人とやり取りをすると、「じゃあ、すればいいじゃん!」「そんなこと、無理にしなきゃいいじゃん!」と思わされることばかりなんですね。

えっ?
『まさに、そんなダメダメな人と、無理にやり取りをしなきゃいいじゃないの?』って?

まあ、まったく持ってそのとおりなんですが、私の基本的な態度は「来るものは拒まず。去るものは追わず。」です。『来るものを拒まず』だから、色んな人もウェルカムです。だから何を勘違いしたのか、この私に「このワタシを、かわいそうな被害者だと認めて、アナタの文章力で説明してほしい!」なんて人もやってきたりするわけです。

そんな人とやり取りすると、「じゃあ、すればいいじゃん!」「そんなこと、無理にしなきゃいいじゃん!」「で、アンタはいったいどうしたいの?」と、短気なことこの上ない私は、結局は言ってしまうことになる。
その言葉を私が言っちゃうと、その人はもう2度と来ないもの。
まあ、私としては「去るものは追わず」でオシマイとなるわけです。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭の人とやり取りすると、議論のための議論に終始することになってしまい、「で、あの人は、結局は、何がしたいのか?何が言いたいのか?さっぱりわからない」・・・と感想を持たれる方も多いと思います。
被害者意識が強いダメダメ人間が唯一言いたいのは「ワタシがかわいそうな被害者であることをわかってほしい!」あるいは、その変種として「ワタシって、いい子でしょ?・・・だから、悪いのは全部○○のせいだ!」それくらい。

何を考えているのかわからないのは当然で、結局は、何も考えていないわけ。
というか、自分で自分を抑圧しているので、考えることが怖い。

そんな基本をわかっていると、その種のダメダメ人間に対して、上手に対処できるようになると思います。そんな人のことをヘタに理解しようとすると、聞いている側がイライラするだけ。聞く側としては「で、アンタは、結局は、何が言いたいの?」と言い続ければいいだけですし、それしかないわけ。
R.10/12/28