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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 08年12月31日 (10年6月7日 に記述を追加)
タイトル 生成感
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、そのタイトルの通り、家庭問題を扱った文章です。家庭問題については、それこそ色々な学者さんが「研究」を発表したりしています。あるいは、多くの芸術家が、家庭を題材にして作品を作っていますよね?

このメールマガジンでは、家庭を題材とした芸術作品については、結構頻繁に取り上げたりしていますが、家庭問題を専門分野とした学者さんの研究には、ほとんど関心を持っていません。学者さんの文章で取り上げたことがあるのはエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」くらいですが、フロムは「社会」心理学者であって、家庭問題の専門家ではありません。逆に言うと、だからこそ、フロムの文章は家庭問題を考えるのに役に立つ・・・と言えるでしょう。

そもそも学者さんと芸術家では、その視点が大きく違っているもの。
往々にして学者さんや政治家は「べき論」から入ったりするでしょ?
「家庭とはこうあるべきなんだ!」

芸術家は、そんな視点は持っていない。芸術家は目の前の現実を理解するための視点について考え、表現しているだけ。作者がその作品の中で示した視点から、現実を見直してみると、今まで錯綜していてわかりにくかった事案が、実にシンプルに見通せるようになる・・・そんなことがあったりします。

私としては、学者さんなり政治家が往々にして持ち出す「べき論」に対しては、距離を置いています。
「べき論」とは、世界を完全なもの、別の言い方をすると、世界を静止的に見ていると言えるのでは?
「この世界は完全な姿でははい。」「だからケシカラン!」「だから、悪い点を直していくんだ!」
学者なり政治家って、そんなスタイルでしょ?

しかし、この世界は、そんなに完全なものなの?理想形があるの?
この地球上に、現在では70億人近くの人間がいて、もちろん動物も、植物もいる。
人間一人一人だって、完全ではないでしょ?それぞれの人間が持つ理想だって現実的にはあやふや。

そんな登場人物による完全で静止的な理想世界って、どんなものなの?

現実的に言うと、人間一人一人は動的であって、当人の意思なり感情によって揺れ動くもの。そんな人間の集まりであるこの世界も、動的な存在でしょ?
自分自身を見つめ、この世界を真摯に見つめれば、この動的な面を見ないわけにはいかない。
逆に言うと、何かと言うと「べき論」を使う人は、世界の動的な面や人間の動的な面を見ないことが通例でしょ?いわば現実逃避であり、それを問答無用で説教するだけ。

対象を真摯に見るということは、その対象の動的な面を直視することと重なることが多い。ちなみに、エーリッヒ・フロムは、その著書の中で「人間心理の動的な面に注目しないとダメだ!」って書いています。彼は人間を静止的には見ていない。

・・・なにか小難しい話をして、申し訳ありません。
私としては、「べき論」の問題を再度考えなおすと同時に、「べき論」が持つ静止感から脱却し、動的な生成感に着目したいと思っているんですよ。

人間は常に生成するものであって、その人間が集まっているこの世界も常に生成するもの。
逆に言うと、その生成感そのものが、人間の尊厳なり、世界の価値になるのでは?
自分自身を生成させていく人間だからこそ、世界の生成に参加していくことができるのでは?

それこそ、ゲーテのライフワークの「ファウスト」の基本思想は「絶えず勤め励むものを、我々は救うことができる。」という天使が語る言葉で表されていました。
常に生成する人間だからこそ、尊厳がある・・・そのように言えるでしょう。
あるいは、その「ファウスト」の中の有名なセリフである「時よ、止まれ!おまえは美しい!」という言葉も、第1幕と、第2幕では意味が違っている。第1幕では、静止感につながる、つまりその先がないという意味での「時よ、止まれ!」であったのに対し、第2幕で使われる「時よ、止まれ!」は生成し続ける「その時間」を肯定したセリフなんですね。
だからこそ、「おまえは美しい!」となる。

あるいは、日本の俳人である松尾芭蕉の辞世の句は、ご存知のように「旅にやんで 夢は旅路を かけめぐる」ですが、これは俳句の基本である「五 七 五」ではなく、字数では「六 七 五」です。つまり、この辞世の俳句は未完成なんですね。完成形は「旅にやみ 夢は旅路を かけめぐる」となるでしょう。常識的には、コッチでしょ?どうしてわざわざ「旅にやんで」と、6字にしているの?
逆に言うと、芭蕉は、未完成・・・つまり芸術の生成過程をそのまま最後の作品としていると言えます。
芭蕉にしてみれば、旅に病み、旅が止み、死の時においても、創作の旅は未完成であり、創作の旅の途中である・・・そうなるわけです。たまたま「六 七 五」なのではなく、意図的に覚悟を持って「六 七 五」としているのでしょう。
そして、芭蕉という一人の芸術家も、歴史から連なる創作活動の一里塚の一つなんですね。

もっとも、芭蕉のこの辞世の句について、文学「研究者」はどう解説しているのかは知りませんが。研究者とまりの人間は、けっこう「笑える」ことを言ったりするものですからね。
まあ、研究者さんも、本当に作品を作る人の気持ちが分かるなら、自分で作品を作っていますよ。
ゲーテも芭蕉も、最後において、似たようなことを言っている。
自らを生成し続ける人間によって、世界の生成も行われ、それが続いていくことになる。
「べき論」でお説教する人間によっては、世界は前には進まない。

何も芸術家の生き方の問題ばかりではなく、それこそ「この大地に木を植えよう!」なんて活動でも同じです。それだって世界の生成への参加ですよ。
そんな生成への参加を通じて、当人自身の生成も行われることになる。

映画におけるマカロニ・ウェスタンの巨匠のセルジオ・レオーネ監督の「ウェスタン」という映画も、そんな作品でした。ドラマの設定としては、開拓時代のアメリカ西部の話としていますが、レオーネの問題意識は、「映画表現の開拓」なんですね。
アメリカ西部に鉄道を引くために、渾身の努力をして、その地で屍になっていく人たち。
しかし、そんな屍があるからこそ、鉄道が通ることになる。
逆に言うと、絶えず生成し続け、屍になる覚悟を持った人間の上にしか、鉄道は通ってくれない。その人自身も絶えず生成し、世界の生成に参加するものの上にしか、芸術創作も一般の世界も流れない。

語りつくすことができなかった人間の屍が積み重なっていき、その上を創造の流れが通ることになる。
後ろから「べき論」で、正論を連呼しているだけの人間の屍は、何の価値もない。
語りつくした人間、完結した人間の屍は、行き止まりの証。
木を植えるにせよ、鉄道のために大地を掘り起こすのも、本来なら誰でもできること。
しかし、後ろから「べき論」で説教している方がラクなのも、それも現実。
しかし、その「後ろ」の場所も、かなり以前に誰かが生成したわけでしょ?

ダメダメ人間は、そもそも当事者意識がないのだから、自分にとっての目標があるわけではない。
だから目標を達成しようとする努力など存在せず、生成している「過程」イコール「不完全」と捉えることになる。達成するための肯定的な努力というよりも、不完全を除去すると言う二重否定的なパターとして認識している。
減点法の観点で見るので、「不完全」な姿を不快に思う。
そして、そんな「不完全」な自分自身から逃避する。
不完全な面があれば、それを改善すればいいとは考えない。
「その不完全な面からいかに逃避するのか?」そのように考える。
生成感を持たない人間は、不完全な存在である自分自身との接し方がわからない。だから自己逃避になりやすい。
自己逃避どころか他者を犯人認定するようになってしまう。
まさに「あの○○のせいで、うまくいかない!」と理由付けてしまって、勝手に納得してしまう。

芸術作品には、「この世の不完全さ」に着目した作品が結構あります。
不完全だからダメというわけではなく、不完全だから、その生成に参加できるといえるでしょ?
そのためには、自分自身を直視して、自分の目の前の現実を直視する必要があるでしょ?

生成感とは子供の視点であり、静止感は大人の視点とも言えます。
子供は「べき論」は使いませんし、物事を静止的には見ませんよ。
ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、生成感を有している子供の視点の方が有効なんですね。大人になると、その生成感を喪失し、静止した「形」から見るようになってしまう。

静止しているので、そこに「選択」という視点がない。
だって、完全なものは、別に言い方をすると、選択の不要なものと言えるでしょ?
いや!選択すればするほど悪くなる・・・それが完全というもの。
だから、完全性を志向する人は、我々の目の前にある数多くの選択から逃避し、選択の可能性を破壊しようとする。
それこそ「こんにゃくゼリー」を買わないという選択もできない。
逆に言うと、多くの選択の可能性を認識している人は、「べき論」を語ったりはしないでしょ?

選択がないがゆえに、間違いがないわけですが、当然のこととして、人の尊厳もない。
何かを達成しようとすれば、数多くの選択に直面するわけで、その選択のプライオリティは人それぞれでしょう。
そんな選択と判断の積み重ねが、尊厳につながり、あるいはある種の「作品」として結実することになる。
「作品」は、作品であるがゆえに、静止したものにはならない。
だって、数多くの選択の積み重ねの今のところの結果が、その作品になっているだけ。
多くの選択を内包している分だけ、それは動的なものなんですね。
優れた作品は、優れているがゆえに、単なる一里塚にすぎないわけで、静止から遠いもの。
まさに芭蕉の作品や、芭蕉の生涯が旅の途中であるようなもの。
しかし、抑圧的な人間は、その選択から逃避し、静止した完全なものを求めてしまう。
そのような静止した形の典型が、「ふ・つ・う」。
「ふつうじゃないから、ケシカラン!」
そんな言葉は、ダメダメな親がよく言いますよね?

権威筋の学者さんが言う「べき論」も、その拡大版でしょ?
そんな言葉から、どのようなアクションが生まれるの?
しかし、生成から逃避するには、そんな「形」があった方がラク。
しかし、そこには尊厳がないでしょ?
それじゃあ、天使には見捨てられてしまいますよ。

不完全であっても、完成に向けての過程と考えればいいだけ。
生成感のないダメダメ人間は、ネガティヴな面を、いわば「烙印」のように捉えてしまう。そのネガティヴな面を、静止的に、ゆるぎがないものとして認識してしまう。
そうして、「どうして、こんなことに?!」「前世の悪行のせいなのか?!」「なんと過酷な運命なんだ?!」と、その原因を考えパニックになってしまう。
そんな嘆きを聞かされると、「と言うか、アンタも、その面を自覚して修正すればいいだけじゃないの?」と呆れてしまう。
・・・ダメダメ人間とやり取りすると、結構ポピュラーなパターンなんですよ。

(終了)
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発信後記

08年の最後の配信なので、実に文芸的な内容になっております。
本文の最後にも触れましたが、ダメダメ人間は、当人のネガティヴな面を見ると、それを「烙印」のように捉えてしまうものなんですね。
逆にいうと、「烙印」なんだから、当人は何も対処はしないわけ。
この「烙印」という発想については、そのうちに、文章をまとめようと思っています。

さて、このメールマガジンも、03年から始めて、まだ続いている。
まあ、同じようなことを、言葉を変えて繰り返しているだけとも言えます。映画監督のパソリーニじゃあないけど、「作家は、同じ事をしつこく言い続けるもの。」なんでしょうね。
言い続けるのはいいとして、じゃあ、言い尽くすことができるのか?書いている私だって、いつまでも生きられるわけでもないだろうし・・・
私としては、そんな問題意識を持っていました。

しかし、言い尽くすことはできないものなんでしょうし、それでいいものなんでしょうねぇ・・・
私が言い続けた先のフィールドで、別の人が語ればいいんでしょう。

そう思ってくると、多くの芸術家の晩年の作品が、実によくわかるようになってきたんですよ。完成の積み重ねよりも、未完成の積み重ねという観点でみると、世の中も見えてきたりするもの。まあ、実年齢は別として、そんな発想は晩年だなぁ・・・と自分で思っているところです。

本日を持って、08年は最後となるわけですが、それ以降も、とりあえずは、このメールマガジンは続きますし、このメールマガジンの発行が終了しても、ダメダメ家庭の問題は発生し、それに対する人々の思考も続くんでしょうね。

では、皆さん、よいお年を!
R.11/1/17