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カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 09年1月16日
タイトル 強者のメンタリティー
言語学者で有名な人にアメリカのノーム・チョムスキーという人がいます。
私は言語学者というと、スイスのソシュールくらいしか名前を知りませんし、その分野は深く調べたこともありません。

そのチョムスキーは平和運動に熱心とのことで、例の「9月11日のアメリカ同時多発テロ」に関わる問題について、講演会をやっているとのことです。
世界中が平和になれば、当然のこととして結構なこと。その点について、反対意見を持つ人はほとんどいないでしょう。
しかし、どうやってそれを実現するの?理想は理想でいいとして方法論が重要でしょ?

さて、そのチョムスキーの講演が、DVDになっていて、図書館にあったので、見てみました。
これが色々と面白い。

チョムスキーによると、アメリカ同時多発テロのような事件は歴史上いくらでもあったそう。これは確かにそうです。以前にも書いたとも思いますが、ドストエフスキーの「罪と罰」という小説は、ラスコリーニコフという学生(ラスコリーニコフというロシア語は、今で言うと「宗教原理主義者」という意味)が、質屋のオバサン(まあ、「お金の亡者」の比喩でしょうね)を殺害するところから始まります。構図的には同時多発テロとまったく同じ。アメリカ同時多発テロも、それだけ一般的な光景と言えるわけ。

それはそれでいいとして、チョムスキーによると「アメリカのような先進国の植民地主義に対する反発がこのようなテロに結びついたんだ!アメリカは反省し、謝罪し、補償することが重要だ!」
乱暴にまとめてしまうと、そんな論旨でした。
ちなみに、そのDVDのクレジットによると、日本語版の製作に当たっては、「成田空港の闘争」の記録映画の製作に関った人も参加しているようです。まあ、それはそれでいいんですけどネ。

反省とか、謝罪とか、補償とか・・・「一般の」日本人なら、何となく「胡散臭く」思えてしまう言葉がテンコ盛りの講演の記録。

このメールマガジンは政治問題についてのメールマガジンではありません。「どのような政治を目指すのか?」そのような問題については、私は関心がありません。「どうやって自分が目的とする理念を実現させるのか?」そのような方法論に関心があるだけです。

さて、後進国(あえてこの表現を使います)で起こった問題を、先進国の植民地主義の影響と断じ、先進国の側が謝罪し、補償する・・・そのような考えは一見「博愛精神に富んだ」「義務感の高い」「高潔な」考えのように思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、後進国で起こった問題の全部の原因を、先進国に求める・・・それって、逆に言うと、先進国は後進国を「正しく」保護し、導いていかなくてはいけない!!先進国にはその義務があるんだ!バカで愚鈍な後進国の連中が間違いをしでかさないように、我々先進国がリードし、管理しなくては!
そうなっちゃうでしょ?というか、心理的にはそういう意味でしょ?

先進国の植民地主義に反対するのはいいとして、そんな僭越な意識こそが植民地主義でしょ?経済的な簒奪よりも、もっとタチが悪いですよ。だって人間の尊厳の簒奪なんですからね。

天才言語学者のチョムスキーの「言葉」を失笑できるほどの頭脳があると、私自身はうぬぼれているわけではありませんが、チョットねぇ・・・

後進国の人たちは、ある意味において弱者でしょう。特に経済的な面では。
しかし、そのような弱者に対する過剰な同情って、何よりもその後進国の人たちのためにならないでしょ?

そもそも、自分たちに問題があったら、全部を先進国のせいにして、テロを繰り返すような連中を誰が信頼するの?
「オレたちは先進国の植民地主義による被害者なんだ!だから何をやってもいいんだ!」
そうやって自分自身を正当化するのは勝手ですが、それって、まさにダメダメ人間同士のグチと同じでしょ?

弱者の自己弁護で満足しているうちは、永久に弱者ですよ。
しかし、ダメダメ家庭は、被害者意識が強い。「自分たちはかわいそうな被害者だ!」と自分で勝手に認定しているわけ。だから「加害者に対しては何をやってもいいんだ!」となってしまう。
逆に言うと、加害者にたかったり、攻撃することは、「自分自身はかわいそうな被害者」であることを自分自身に確認する行為であり儀式なんですね。

「オレたちは悪くないんだ!みんなヤツらが悪いんだ!」
まさに、ダメダメ家庭でお約束の物言い。
それはそれでいいとして、「じゃあ、アンタは結局どうしたいの?」「何を達成したいの?」などと聞かれても、何も答えられない。イスラムなんて典型的にこのパターンでしょ?あるいは、まさに韓国もそのパターン。

そんな自己弁護が習慣化してしまっている状態であり、だから、何も考えずに、自然に自己弁護が出てきてしまう。それこそ、そんな人とのやり取りだと、こんなギャグのような事態が発生してしまう。
「アンタねぇ・・・そんなに自己弁護ばかりしていないで、ちょっとは自分でやれることを自分でやったら?」
『何を言うのよ!ワタシは弁解なんて滅多にしないわ!弁解に聞こえるのは、ワタシの親の言い方が移ったせいよ!ワタシが悪いんじゃないわ!』
・・・これがフィクションなら笑えますが、ノンフィクションだと逆に笑えないものなんですよ。

本来は、弁解なんてしないで「自分がしたいこと」を実現させるために、努力すればいいだけでしょ?そして必要に応じて、周囲の人たちなり先進国に対し、的確に説明し協力を求めればいいだけ。それには、まずは「自分がしたいこと」を自覚することが先決でしょ?それは何も後進国の人だってできること。あるいは、経済的に恵まれない状態にある家庭の人だってできること。

後進国だから、あるいは経済的に恵まれないから「自分のしたいこと」がわからない・・・なんてことはありませんよね?自分のしたいことを見定め、とりあえず「自分のできること」から始める・・・って、誰でもできること。そのような努力をする人だったら周囲の人だって信頼し、サポートしてくれるでしょ?
そうやって、いわば強者になって行くわけでしょ?

「オレたちは全然悪くはないんだ!」と言って、自分では何もしない人を、マトモな人は信頼しませんよ。
社会的に強者になるためには、やっぱり強者のメンタリティーを持つことも必要なわけ。それは何も弱者を足蹴にするということではなく、自分自身に対する責任感なり、義務感、自主性、そして自分の考えを相手にわかるように伝える会話の能力、いわば自分自身の尊厳にこだわること。そのようなものを持つ必要があるわけ。

「このような事情があるから、この面を助けてくれ!」と具体的に説明されたら、その事情が適切だと考えれば、その時に助ければいいだけ。説明してくる前から、積極的にサポートをするのは、相手をバカにしていること。それは真の友情でもなく、単に「ボクって、いっぱい人助けをしている『いい子』なんだよ!」と、主張しているだけ。弱者をネタにして自己弁護しているだけ。
本来は、相手方に対して「で、アナタはどうしたいの?」と、確認することが先でしょ?

ところが被害者意識の強いダメダメ家庭は、自分の希望を言わずに、スグに「オレたちは○○だから・・・」と自己弁護。自分を弁護するのは勝手ですが、そんなことをしてアナタの目標に近づくの?
そっちの方が重要でしょ?

このことが典型的に見られたのは、以前に起こった偽メール事件での民主党の当時の党首の前原さんの対応でした。
「我々は野党だから、情報を取れない。」
その論理は論理でいいでしょうが、野党でも取れる情報がいっぱいあるでしょ?
それこそ民主党は、自民党の幹事長の経験者だっているわけですからね。そんな人から情報を取ることだってできますよね?それも無料でネ。
そんな無料でできることもしないで、「我々は野党だから・・・」って言われてもねぇ・・・

しかし、そのような自己弁護も、前原さんの出身家庭が、「オレたちは△△だから、何もできない!全部○○が悪いんだ!」という言葉が跋扈しているダメダメ家庭であることを前提とすれば、簡単に理解できるものでしょ?

「我々は野党だからできない。」そのような自己弁護で自分を納得させている状態だったら、永久に野党のままですし、「我々は社会的弱者だからできない。」と納得している状態だったら、永久に弱者のまま。
これって、当然のことですよね?

強者というのは、まずもって自分自身の尊厳を考えるもの。
しかし、弱者はまず先に、相手方を見る。そして、自分自身を見失ってしまう。
だから、ますます弱者になってしまう・・・そんなものでしょ?

最初に言及した言語学者のチョムスキーですが、なぜに言語学者になったのでしょうか?
ダメダメ家庭は会話不全の家庭。会話というものは基本的には「言語」で表現されるものでしょ?言語学者ということは、その「言語」というものを、既存の常識の外から見ることができるから、言語学者になれたのでしょ?それだけ、チョムスキーの出身家庭が会話の機能が不全のダメダメ家庭であることがわかるわけ。逆に言うと、会話の、そして言語の機能について、様々な視点から考えるようになるわけ。それだけ、常識というものが、別の物言いだと「ふつう」というものが、微妙な均衡にある危ういものなのかを、実感として認識しているわけ。

何も考えずに、言語と自然に接することができるマトモな家庭の出身だったら、優秀な言語学者にはなれませんよ。まあ、それはダメダメ家庭が持つ数少ないポジティヴな面。しかし、彼はダメダメ家庭における会話の不自然さから、言語について洞察するだけでなく、自分の実家から被害者意識も受け継いでいるんでしょうね。だから他人弁護に走ってしまうわけ。

大天才モーツァルトが音楽以外はまったくダメダメであったように、また、画家のゴッホが美術以外にはダメダメであるように、チョムスキーも言語学以外はダメダメなんでしょう。まあ、とにもかくにも一芸でも秀でていることがあれば、人類にとっていいことですよ。ただ本人は、それで幸福なの?

「自分はこうしたい!と自覚して、その実現のために努力する・・・そのような強者のメンタリティーは、「悪いのは全部○○のせいだ!」という弱者の自己弁護を繰り返すダメダメ家庭では育ちにくいわけです。
だから、ますます弱者になり、そして、周囲には「自分を弱者のまま安住させてくれる」人を侍らせ、ますます「悪いのは全部○○のせいだ!」という主張に熱が入ってしまう。

そんな人は、自分より弱い存在をわざわざ探すようなことをして、そんな弱者を見つけて、「ああ!下には下がある!」と自分で勝手に納得して大喜び。そして自分より下の存在を生み出す土壌を温存しようとする。これって、まさにボランティアの活動。
そんな行動を、天才言語学者チョムスキーもやっているわけ。
弱者を弁解することと、弱者をサポートすることは別でしょ?
サポートするためには、当人の希望を聞くことが先だし、それを当人に言ってもらわないと話が進みませんよ。

このような一例として、日本の新聞が、最近起こっている中東でのガザでの騒動に対し、日本にも責任があるとかの論説を載せたとのことですが、それって一見、「親切」な見解と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、むしろ相手に対して失礼でしょ?
その日本の新聞社の見解は、別の言い方をすると、「イスラエルもパレスチナも、アタマからっぽの阿呆だから、オレたちが考えてあげないとダメだ!」って言っているわけですからね。
本来は、そんなことを言われたら、「オレたちをバカにするな!」と怒るのがスジというもの。ところがダメダメな人は「そうなんだよ!オレたちはかわいそうな人だから、みんなで助けてよ〜」と泣きを入れるだけ。

日本が協力するにせよ、当事者がちゃんと考えて解決策の原案ができてからですよ。
それくらいは自分たちでやれるようにしないと、またやりますよ。

というか、自分たちで騒動を起こすと「構ってもらえる」という成功体験を作ってしまうと、そんな騒動を積極的にやるようになってしまいますよ。
以前に「ミュンヒハウゼン症候群」なり「代理ミュンヒハウゼン症候群」について言及いたしましたが、ガザの騒動だって、そんな面があるわけですし、北朝鮮なんて、典型的にその症状でしょ?

「代理ミュンヒハウゼン症候群」の最大の被害者が、そのネタのため病気にされてしまう子供だったように、「かわいそう」アピールに余念がない人に対し、ヘタに構ってしまうと、もっとも弱い存在が、被害話のネタにされてしまうだけ。

「ボクっていい子なんだよ!」のネタとされることに安住しているから、いつまで経っても、弱者のまま。そして、そのツケは一番弱い存在である子供に行ってしまう。

経済的なり、立場的には色々と事情があるわけですが、メンタリティーくらいは、強い気持ちを持たないとね。
しかし、世の中は弱者の方がラクであることも現実ですし、だからこそ、ダメダメ人間は、積極的にそんな状態を作ってしまうわけ。

(終了)
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発信後記

どんな生物でも、言語というものは、基本としては同じという考え方と、それぞれ違っているという考え方に、言語学の流派では2つに大別されるようです。
本文中で言及したチョムスキーはそのどっちかの頭目だったと記憶しています。

いずれにせよ、言語が不全の環境で育ったがゆえに、言語というものを、常識の外から見ることができるので、新たな視点を提示することもできるわけ。

このようなことは、20世紀の哲学者であるルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインでも同じ。言語という手段は、コミュニケーションの手段としては、実に不完全で問題が多いものである・・・そんな彼の考えは、まさに自殺者を輩出した彼の会話不全の出身家庭を抜きには考えられないでしょう。

そのウィトゲンシュタインは「言語はコミュニケーションの手段としては不完全である。」という彼の考えを、著作で、つまり言語でまとめることになる。
ウィトゲンシュタインは、「ワタシの本を理解できる人は、それがナンセンスであることはわかるであろう。」と著作の中で書いているそうですが、「言語は伝達の手段として不完全である。」という文章・・・つまり言語は、ナンセンスそのものですよ。

哲学というものも、視点を変えると、意外にも理解しやすかったりするもの。
学校で「教えている」人たちは、実感として理解していないので、まさに額面どおりで「わかったような、わかっていないような」伝え方しかできない。これはしょうがない。

当事者なりの視点を見出せることが出来るのか?それが理解の出発点ですし、やっぱり問題意識の共有が不可欠なんですね。
R.10/11/5