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カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
配信日 09年3月2日
タイトル 自分との対話
ヨーロッパの絵画には、頻繁に登場する小道具などがあったりします。
たとえば、若い女性が鏡を見て写った自分の姿にうっとりしている。その下には、砂時計とドクロ。
こんな絵が結構あったりします。この場合は、砂時計は人生のはかなさ。その結果がドクロ。鏡を見ている女性は、現世の虚栄の象徴。

「ああ!ワタシって、何てキレイなの?!」
そんな調子ですね。まあ、そんな絵の意味は、「現世の虚栄にうつつを抜かしていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。そんな『はかない』美などは何の意味もない。それより天国に富を蓄えなさい!」そんなキリスト教的な意味があったりするわけ。

「芸術作品については、受け取る人が感じたままでいいじゃないか!」
そんな意見もありますし、実際に法律的にはそうなんですが、全体を補強する小道具については、定石的な意味もあるわけ。それを踏まえて全体を感じる必要があるわけ。

それこそ女性の肖像画でも、付属する小道具によって絵の登場人物のキャラクターが違ったりするもの。小道具として、動物の場合では、犬だったら貞節、猫だったら、どっちかというと官能。花の場合は、ユリだったら純潔、あるいはケシだったら、薬物中毒。果実の場合は、リンゴだったら、アダムとイヴのイヴをイメージすることになるし、ザクロだったら、夫に管理され拘束されている妻・・・そんなイメージが付与されるわけ。
絵の中の鏡にも、それ相応の意味があるわけです。

鏡は虚栄の象徴。
ということで、キリスト教の修道院では鏡を置いていないそうです。
そんな光景は、たまに映画などで出てきますよね?

しかし、鏡によって「自分の美しさ」に酔いしれる、というケースもあるわけですが、自分自身との対話の糸口という意味を持つ鏡の使い方もあったりするわけ。
絵画において、そのような小道具としての鏡の使い方は、近代以降に顕著に現れてきます。近代以降になって芸術家が芸術家意識を持って創作し、自分自身・・・つまり自我を強く意識するようになったため、自分自身との対話が重視され、その象徴としての鏡が絵画に登場してくるんですね。
いわば自分自身を見つめ、自分自身と対話する姿が、まさに自画像になるわけ。

まあ、このメールマガジンは絵画についてのメールマガジンではありませんので、このあたりにしておきます。しっかし、ムダ話の多いメールマガジンだねぇ・・・

ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。自分自身が何をしたいのかについて、全然わかっていないわけ。そして自分自身で考えることから逃げ回っている状態。
そんな人間は、鏡に写った自分の姿と会話してみることも必要なんですね。

それこそ、画家のゴーギャンのように「自分はどこから来て、何者で、どこに行くのか?」そんなことを考える必要があるわけ。
自分から逃げ回っていては、何もできないでしょ?しかし、そんな自分から逃げ回っている人間がボランティアなどをやったりする例が多いことは、このメールマガジンで何回も書いています。
しかし、それって自分自身のためにならないだけでなく、ボランティアの対象者にも失礼でしょ?

しかし、自分から逃げ回るラクさを覚えてしまうと、もうそのラクさが病み付きになってしまう。だからスパイラル的に、ラクな方へラクな方へと流れていくわけ。

私は最近はレンタルヴィデオなどでも、それほど映画を見なくなりました。こんなメールマガジンを発行しているので、「書き手」や「作り手」の心理が見えすぎてしまって、気軽に楽しめないですね。「ああ、これはこのような伏線で、次にはこうなって・・・最後はそうなるんでしょ?ああ!やっぱりそうだ!」
そんな感じで、私個人は楽しめなかった作品に「オランダの光」という映画があります。昔のオランダの画家であるフェルメールなどの絵画にあった「オランダの光」が、現代のオランダ絵画にどうして存在しなくなってしまったのか?それを捜し求めるという作品でした。

私個人は、映画の開始10分くらいで、作り手の意図が全部わかっちゃったので今ひとつでしたが、今回の配信の「自分自身との対話」ということについて考えるには実に適当な作品と言えます。
まあ、ネタばれになってしまいますが、絵画において「オランダの光」が喪失してしまったのは、現代のオランダ人が自分自身との対話をする意欲も能力も喪失してしまったから。
そんな内容でした。

オランダの哲学者のスピノザがレンズを磨きながら自分自身と対話したように、あるいは画家のゴッホが情熱的に自分自身と対話したように、かつてのオランダ人は自分自身と向き合う精神的強さを持っていた・・・しかし、現代になって、そんな強さは喪失し、自分から逃げてばかり。だからそこから生まれる芸術作品も「輝き」・・・つまり「オランダの光」が失せてしまうことになる。

芸術作品は、自画像に限らず、作者や、作品を生み出す社会の鏡となっているもの。

自分はどこから来て、
何者で、
どこに行くのか?
あるいは、自分は今なにが欲しいのか?何をしたいのか?

簡単に答えが出せるわけがありませんが、そんな問い掛けをし続けることも重要でしょ?
そんなことができない人間が、いったい何ができるというの?
生み出された芸術作品のレヴェルが落ちたことも、その人間たちの精神レヴェルの低下の、まさに鏡というわけ。

鏡を見ながら、自分自身の原点について、考え直してもいいのでは?
自分は何をしたいのか?
今現在、議論していることの原点は何なのか?
自己逃避の人は、その原点から逃避しようとうする。だからスグにやり取りが「議論のための議論」に堕してしまう。

そんな人は、何か作品を創作する段になっても、「テクニックのためのテクニック」を駆使した作品になってしまうのは当然のこと。

何も、創作活動の問題だけではありません。子育てだって同じ。
子育ての原点が「この子供の、かわいい表情」だと思っているのなら、「この表情を守りたい!」という意欲を持ち続けることができるでしょ?
しかし、自己逃避のダメダメ人間は、「て・き・と・う」に子供を作ったり、もちろんのこと「なんとなく」物事を進めている。だから原点なんてあろうはずがない。

だから、その原点から自分の「やらなければならないこと」を見つけ出すこともできず、あらゆる不都合な事態が被害と認識されてしまって、自分では何も対処せず、事態がますます悪くなる。そうやって、どんどんと恨みの心が膨らんでくる。

そんな恨みの心が臨界点を突破する前に、鏡でも見て、自分自身と対話するのもいいのでは?

私のメールマガジンの文章を読んで「コレって、まるでワタシの姿じゃないの?」なんて思ったら、その読んだ文章が、まさに読んだ方の鏡になっているわけでしょ?
私としては、その時点から、皆さんが自分で考えていかれればいいと思っているんですよ。
私としては、自分との対話のきっかけを作りたいと思っているだけで、その回答をするつもりはありません。だって自分自身との会話や、そこからの回答は皆さんご自身しかできないことですからね。

(終了)
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発信後記

本文中にムダな美術ネタが入っていますが・・・
前回の文章において、大臣を辞任された中川さんがロンドンのナショナル・ギャラリーで「Lady Jane」という絵を見て美術が好きになったとかの話を書きましたが、その「Lady Jane」という絵については、私は思い浮かばないとも書きました。

この件について、購読者さんの方より、情報をいただきました。
たぶん・・・Paul Delaroche の「The Execution of Lady Jane Grey 」(邦題:ジェーン・グレイ嬢の処刑)ではないかとのこと。

私が端的に言ってしまうと、その絵は美術的には二流の絵でしょうが、教えていただいた方によると、歴史的な情景を描いているという点で有名とのことです。美術の本には入っていなくて、歴史の本には入っている絵と言えるでしょう。そんな絵は他にもあったりしますよね?
ちなみに、その絵は、参考までにバックナンバーのサイトに入れておきました。

この絵のシーンは、いつのまにかクーデターの犯人とされてしまった17歳のJane Greyが処刑される寸前を描いています。1554年での処刑なので、断首での処刑となります。
中川さんがどうしてこの絵を好きになったのか?私にはわかりかねますが、やっぱり罪もない17歳の少女の処刑のシーンは胸に迫るものがあると言えるでしょう。
中川さんも、そんな「かわいそさ」を感じたのでは?

中川さんは断酒できなかったせいで、首が飛んだわけだから、そう考えると歴史的に味わい深い絵と言えるでしょうね。罪もない17歳の少女に対しては同情しますが、50歳過ぎのオッサンの不始末は自業自得ですよ。
R.10/8/31