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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
配信日 09年3月4日  (10年6月4日,6月8日 記述追加)
タイトル 対抗心に安住する
ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強い。このことはこのメールマガジンのレギュラーの言葉です。被害者意識が強いので、対抗心も強くなる。「ワタシはあの○○による被害者なんだ!」→「だから、あの○○をやっつけろ!」と、対抗心を燃やすようになるわけ。

そして対抗心を燃やすことによって、自分の被害者意識を満足させることになる。
「アイツのせいで!アイツのせいで!」
「ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」

当事者意識がないものだから、自分で実現したいものがない。
そんな人が考えるのは、「ワタシは何による被害者なのか?」ということだけ。
そうして、次に考えるのは、「自分が加害者認定したものに、どうやって嫌がらせをし、報復していくのか?」ということだけ。嫌がらせすることで、「自分はかわいそうな被害者である。」「あの○○のせいでワタシは被害を受けた。」という確認行為を行っているわけです。

そのようなことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。ただ、一般の方にはこのような流れはちょっとシュールに思われるかもしれませんね。しかし、我々が見る韓国人の姿って、まさにそれでしょ?
私は何も、韓国人の問題を指摘したいというわけではありませんよ。皆様が直面している、あるいは直面するかもしれない問題を顕在化させるためには、よくわかる実例を見ながら考えて行った方がわかりやすいというだけです。

ただ、それこそ何回も書いていますが、そのようなことは理解されにくい。このメールマガジンでミシェル・フーコーの言葉である「哲学の役割は、見えているものを、見えるようにすることだ。」なんて言葉を引用していますが、多くの人は、その意味がわからない。だから、そのようなフーコーの考えを実践していると言える私の文章の意図がわからないのは、まあ、しょうがない。

人の文章を読んでいると、その書き手の心理状況がよくわかったりするもの。特にダメダメな人の文章からは、その人の心理が見えやすい。逆に言うと、マトモな文章からは心理が見えにくい。なぜって、一番プロファイリングしにくい文章は、一番まっとうなスタイルの文章・・・つまり要旨が明確で、補足説明も有機的につながっていて、議論の進め方も論理的であって、文法的にも間違いがない・・・そんな文章です。文章からプロファイリングする際には、「何が書かれていないのか?」「どのような点でコケているのか?」そんな点からプロファイリングできるんですね。非の打ち所のない文章からは、何もプロファイリングできないわけ。まあ、「ちゃんとした人なんだろうなぁ・・・」と思うくらい。

ちょっとコケた文章を読んでいると、その書き手の心理がよく見えるんですね。
「何から目を背けているのか?」
「何から逃避しているのか?」
もう手に取るようにわかったりする。
何をわけわからないことを書いているんだ?と思われる方も多いでしょうが、私と個人的にやり取りした方だったら、「そう言えば・・・コイツは、そんな感じだ。」と思ったでしょ?

ダメダメの問題を考えるのに必要なのは、その精神的な面であって、その精神的な面を理解していれば、その顕在化された形として人の行動や法制度も理解できるようになるわけです。

たびたび言及する韓国人の問題も、その根底にある対抗心なり、もっと根底にある被害者意識を理解すれば、日本との関わり以外の問題も説明できるわけ。
私が注視しているのは、プラトンの洞窟の喩えで言うと、イデアの方であって、洞窟の壁に写った映像の方ではないんですよ。

ダメダメというものは、その被害者意識から、対抗心を燃やすわけですし、ある意味において、その対抗心に安住するわけ。だって、対抗心があれば、すなわち被害者意識を正当化できるわけでしょ?
逆に言うと、自分が何もしなくていい状態を確保するためには、恨みの心である対抗心を持ち続ける必要があるわけ。

だから、ダメダメなところでは「○○に対抗する。」なんてパターンが多いでしょ?
日本に対抗することしか能がない韓国のようなケースもあれば、
東京に対抗することばかりの大阪のようなケースもあるし、
男性に対抗することばかり主張する女性運動もあるし、
企業に対抗することばかりやっている市民運動もある。

あるいは、いわゆる平和運動も、「戦争に反対する!」という面が強いものですよね?「武力を使った争いにならないように、話し合いの精神や能力を持つようにしましょう!」という肯定的な発想はせずに、とにもかくにも反対!反対!反対!
まあ、その手の対抗心集団って、分野が違っても、同じメンバーのことも多いし、近い場所にかたまっているでしょ?インターネット上にあるその手のサイトって、だいたいが関西弁で書かれていますよね?「どうして、一般の人にわかりやすい言葉にしないのだろう?」と思っていたのですが、たぶん「被害者意識を共有しない人は、読まなくてよろしい!」ということなんでしょうね。関西弁は、その手の人にしてみれば被害者意識や対抗心の合図のようなものなんでしょう。

そのように「○○に対抗する。」なんてことばかりやっていて、「じゃあ、自分では何をしたいのか?」そんな思考から逃避するわけ。
「自分でやりたいことは何なのか?」について考えることから逃避しているので、何も達成できずに、周囲からの敬意も信頼も得られない。そんな不満をぶつける方法として取るのは、やっぱり犯人認定。「ワタシたちがうまく行かないのは、○○のせいだ!」、そして「あの○○をやっつけろ!」

ギャグを書いていると思われる方もいらっしゃるでしょうが、実際にその手の集団のそんな行動ってポピュラーでしょ?

まあ、そんな人間は、そんな「○○に対抗する!」なんてことばかりを、一生やっているもの。もう不治の病なんですね。

このように集団ヒステリー的な形でダメダメ家庭出身者が対抗心で盛り上がるケースもあるわけですが、もっと個人レヴェルで対抗心を燃やす場合もあります。
いわばクレーマーとかのケースもあるわけ。

クレーマーのような過激なものばかりではなく、自分の親への対抗心に安住するケースも、少なからずあるんですね。
「自分は親による被害者なんだ!」
そう思い込み、そのことばかり考えるわけ。
以前より書いていますが、そんな人は「ワタシは自分の親を反面教師にしている!」と豪語するもの。

ダメダメ家庭出身の人間は、ダメダメな親による被害者である。
これは現実的にそうでしょう。
しかし、「だったら、どうするの?」
そういう問題になるでしょ?
ダメダメ家庭出身者が、ダメダメな親による被害者なのはいいとして、具体的に言うと、その親のどんな面が問題だったのか?それを明確な形で認識することが重要でしょ?
別の言い方をすると、まさに、ダメダメ家庭の正式名称といえる「機能不全家族」の「不全な機能」は具体的に何だったのか?その点を明確にすることが重要でしょ?
恨むとか恨まないとかの感情次元の問題ではなく、あるいは、ただ反対するのではなく、ある種の知的な認識まで到達していないと、意味ありませんよ。

対抗心に安住するダメダメ人間は、逆に言うと、自分に被害を与えた人間や被害を与える人間の近くにいないと生きてはいけないわけ。「あの○○による被害者」・・・自分自身をそのような形でないと説明できない。以前にも書いておりますが、ダメダメな親による被害者と主張する人間は、往々にして、そのダメダメな親と一緒なり近所にいることが多い。そして何らかの形で関わりを持とうとするわけ。
そんなにダメダメな親なら、さっさと絶縁すればいいじゃないの?

あるいは、たまに話題になる「君が代反対!」の考えはいいとして、そんな人たちに限って、君が代とか日の丸が頻繁に使われるところに行きたがるでしょ?
本当に「君が代、日の丸に反対」するのなら、まずは距離を置いたら?

しかし、そうなると、対抗心に安住できない。自分がやらなければならないことを自分で考える必要がある。自分で考えた上での結果は、やっぱり自分で受け入れる必要がある。ダメダメな人間はそれが怖いわけ。

その手の状態は、ダメダメな親に依存する子供という関係や、社会制度に対するクレームばかりではなく、ダメダメな夫婦による家庭内暴力、いわゆるDVでも顕著でしょ?
そもそも殴るくらいに妻がダメだったら、さっさと離婚すればいい話。
あるいは、暴力をふるう男と一緒にいても、それで状態が改善するの?

しかし、「あの○○のせいで・・・」と何かを恨んで、対抗心を燃やすという状態が、精神的に実にラクであり、そのラクさに安住したがるという心情を理解していると、そんな夫婦の心理も理解できるようになるわけです。お互いがお互いに対する対抗心なり、敵意に依存してしまっているんですね。

結局は、「あの○○のせいで・・・」と言い続け、その○○に対抗心を燃やし続けることになる。
そんな状態だと、「まあ、なんてお気の毒なの?!」とボランティアの連中が現れて、対抗心で盛り上がる。そんな共鳴により被害者意識を共有できるので、ダメダメ人間にしてみれば精神的にラク。
そうやって、どんどんと集団化してしまう。
対抗心を膨らませているそんな集団は、周囲から「危ない連中」とみなされてしまう。

本来なら、他者と考え方が合わなくても、「人は人、自分は自分」でいいじゃないの?しかし、対抗心に安住している場合には、対抗心の対象となる他者がないと生きてはいけない。それどころか、そんな人は会話の能力がないんだから、自分の考えを他者に説明できない。

会話の能力というか言語能力というよりも、「自分の考えを相手にわかりやすく伝える。」「相手の意向を真摯に聞く。」そんな発想がそもそもない。むしろ、「アイツらは、どうせわかってくれないさ。」と思っているだけ。そんな人たちは根拠のない自負心を持っているもの。
「オレたちは、本当はスゴイんだぞ!」そんな盲目的な確信を持っている。
客観的な成果ではなく、そんな自負心だけが心の支え。だからますます人に説明できない。

そんな人たちはますます周囲から警戒されてしまって、逆に言うと、ますます同類ばかりで集まらざるを得ない。
逆に言うと、多数派に対抗する少数派集団というのは、いわば精神的にはカルトと同じなんですね。「共通の敵」や「共通の欠落感」で群れている状態。あるいは、以前に書きましたが「疎外感の共有」状態。

それこそ、外国に移住した人が、同じ国の出身者だけで群れてコミュニティを作ってしまうケースがありますよね?
価値観が同じというのならまだしも、主流の人たちへの対抗心だったり、警戒心でまとまっているのなら困りもの。しかし、たとえば中国人コミュニティや韓国人コミュニティって、そんな面があったりするでしょ?だから日本だけでなく、ヨーロッパやオーストラリアやアメリカでも、従来からの住人とモメたりするでしょ?

人とは違った考え方でも、自分だけで勝手にやっていれば、それほど危険ではありませんよ。
しかし、被害者意識を共有しているので、何かトラブルがあると、報復に打って出ることも多く、だからますますカルトに見える。

他者を恨むことしかできない人間は、同類と一緒になるしかない。
そんな対抗心で結びついた夫婦も、現実にあったりするでしょ?
あるいは、クレーマー系の市民団体なんて、まさにそれでしょ?

あるいは、以前に北京オリンピックのために世界を回った聖火リレーなんて、妨害活動に対して、中国人や中国政府は異常に盛り上がりましたよね?
つまり、妨害に対して対抗する・・・という形で、対抗心が満足できたわけ。
被害者意識が刺激され、「アイツらのせいで・・・うまく行かない!」と犯人認定ができることになる。
そして、妨害活動に対して、妨害するという二重否定的な形で、自分たちのアイデンティティを確認することになる。
妨害活動に対して、妨害するのはいいとして、そもそもの聖火リレーの目的はどうなったの?なんだったの?そして、それは達成されたの?
逆に言うと、対抗心に依存しているので、聖火リレーを達成するのではなく、聖火リレーに対する妨害に対抗するという形でしか、自分たちを規定できないわけ。

このような妨害活動に対する反対運動となると、何でも「コーヴ」というイルカ漁を取り上げた映画があって、その上映に対し反対運動を行っている団体があるそうです。
「コーヴ」という映画が気に入らないのはいいとして、そこまで反対運動するほどの作品なの?
しかし、逆に言うと、その手の運動をする人は、反対運動に「依存」してしまっているわけ。
「○○が気に入らないから、反対運動する。」という流れではなく、「とにもかくにも反対運動をしたい。」「だから、ちょうど都合がいい反対運動のネタがほしい。」・・・「この映画に対する反対運動だと、大義名分もそれなりに立つ。」そんな流れになっているわけ。

だからこそ、まさに妨害活動をその作品の内容としていたり、目的とした作品に絡むことになる。
そして、上映反対運動があるからこそ、逆に言うと、「あえて、その作品を、上映しよう。」と考えたりする人もいる。
反対運動に対する対抗心が心地いい状態。
そんな程度の作品を作ったり、上映している人と、その作品に反対している人の間は、まさに近親憎悪の関係の典型なんですね。

対抗心を持っても何かを生み出すものではないでしょ?しかし、何も生み出さないということは、それを持ち続ければ、自分では何も努力しなくてもいいことになる。ただ、他者に対して、いやがらせをやっていればいいだけ。自分自身から逃避して、自分たちが「犯人認定した」相手を凝視するだけ。

何かトラブルがあると、勝手に何かを犯人認定して憎悪し、そして突っかかる。結局は、周囲から邪険にされてますます憎悪する。犯人認定の対象に執拗なクレームをつけ、釈明を受けると、「わが意を得たり!」と、大喜びし、ますます図に乗る。
釈明ではなく、説明を受けると、自分で考えることがイヤなのでトンズラしてしまったり、あるいは、思考停止状態を求めて逆上したりする。

そんなラクな状態に浸っているから、そこから脱却しようとしないだけでなく、その対抗心を否定するような考え方を提示されると、逆上することになる。
それこそ、「だって、だって、ワタシはあの○○による被害者なのよ!」「悪いのは全部あの○○の方よ!」。

自分が何もしないための免罪符・・・対抗心って、そんなラクさにつながっているわけ。対抗心に安住する・・・そんな精神がダメダメなんですし、まあ、現実的に言うと、「ワタシは○○による被害者。」と語るそんな人の親は、「ワタシは子育てによる被害者。」と語っていたりするものなんですね。犯人認定なり対抗心の対象は、多少の変遷があっても、何かに対抗することは変わらない。そんな人たちは一緒になって何かに対抗したり、あるいはお互いで対抗し合ったり・・・そして世代を超えて、その対抗心が連鎖する。
当人は嘆いているわけですが、逆に言うと、嘆いているだけなんで、ラクなものなんですよ。
だから、そのラクさに安住してしまうわけ。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンで頻繁に書いていますが、反面教師などと言ったりする人は、反面の対象がその折々によって変わったりしても、対抗心や恨みの心を持ち続けているわけ。
結局は、その反面教師さんと、生徒さん?は、全く同じスタイルの行動をとっているもの。
反面という点においては、完璧な鏡面状態なんですね。
そして、対抗心の対象を凝視して、自分から目を逸らす。
自分から目を逸らしているからこそ、自分が一番なじみの行動・・・つまり親の行動をとってしまうわけ。
皆さんもそんな人をご存知でしょ?
R.10/6/8