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カテゴリー 認識からの逃避
配信日 09年3月13日 (11年2月11日 記述を追加)
タイトル フィックス恐怖症
以前に「引き返す勇気」というお題の文章を配信しております。
それこそドメスティック・ヴァイオレンス(=家庭内暴力)のような修羅場でも、「だんだん」と悪くなっていくもの。本来は、トラブルの状態が小さい段階で対処すれば、ケガは小さくて済み、カタストロフにはなりませんよ。
しかし、当事者意識がないダメダメ人間は、将来への展望がないので、いわば「なしくずし」的に、突っ走ってしまう。
立ち止まって、自分自身なり周囲を見渡して、「このまま突っ走ってしまってもいいのかな?」なんてことは考えない。

ダメダメ人間は当事者意識がないので、自身の将来展望がないというだけではありません。そもそも当事者意識がないので、自己逃避。
自分自身が直面している現状を、認識すること・・・それ自体から逃避している。
自分の現状が、自分でも分かっていない状態となっている。だから、結果的にうまくいくわけもなく、結局はトラブルになってしまう。しかし、いざトラブルになると、「ワタシはあの○○による被害者だ。」というスタイルで自分の『現状』を語ることができる。そうやって周囲の人と被害話で盛り上がることになる。
と言うことで、「被害を受ける」という「成功体験」を得ることになる。

「ワタシはあの○○による被害者だ。」と周囲に説明すると、周囲のボンクラな人は、同情してくれたりする。そもそも、ダメダメな人間は、自分のダメダメさが「ふつう」とされる周辺環境を求めるものなので、周囲の人もダメダメばかり。だから、周囲の人から「まあ!なんてお気の毒なの?!」と、実際に言ってもらえる。望んでいた言葉を言ってくれたので、ダメダメ人間は、大喜びすることになる。
しかし、いつもそんな期待どおりの反応が返ってくるとは限らない。
この私のように「で、今現在の現状はどうなっているの?」「アナタとしては、結局は、どうしたいの?」「アナタ自身はどのように考えているの?」「どんな経緯でそうなったの?」と聞いてくる人間もいる。

そのような反応だと、自己逃避の人間には、まったく対応ができなくなってしまう。
本来なら、『ワタシは△△という希望があって、今現在は□□の状態です。ですから次には☆☆に取り組むつもりです。』と言えばいいだけ。
そんなことは小学生でもできることですよ。
しかし、自己逃避の人間ができる反応は、『どうして、そんなことを聞くのよ!キーっ!』というもの。
ギャグを書いていると思われるでしょうが、言葉はともかく、実際にそんな光景に接した方も多いのでは?

人に相談するにせよ、直面している現状を明確に説明できないことには、相談された側としても対処のしようがないでしょ?
ある時点で、周囲を見渡して、自分自身を見つめる・・・それを踏まえて、引き返すなり、そのまま進むなり、方向転換をするなり・・・その判断は色々とあるでしょうが、ある時点で、現状をフィックスしないと判断のしようがありませんよ。

時間は途切れなく流れると言っても、たとえば会社だって決算もあるでしょ?
会社の経営者だって、その決算書を元に株主に説明するわけでしょ?決算書もなければ、株主も怒っちゃいますよ。
株主だって経営者だって、ある時点で、自分たちの現状なり業績をフィックスし明確化しないと、次に進めませんよ。

しかし、判断から逃避するダメダメ人間は、逆に言うと、現状をフィックスするのがイヤ。
自分では何も判断しない状態のまま、流れていくようにしたい。だらぁ〜と流れに任せるだけにしておきたい。断片のままで積み重なっていくパターンに執着して、一貫性を持って自分なりの方向性を持って積み重ねていくという発想をしない。
自分で判断していない状態だったら、トラブルになっても、「ワタシは悪くないっ!」って言えるでしょ?だって、少なくとも「間違った判断」はしていないことになりますからね。
確かに、論理的には「悪くはありません」よ。

何も一個人の単独の問題ばかりではなく、人とのやり取りにおいても、ある時点でのフィックスは必要でしょ?
やり取りの最後において「この時点での合意事項はこれこれ。未解決事項はこれこれ。だから次の打ち合わせでは、この問題を議論しましょう。」そんな確認をしないと、単なる時間つぶしで終わってしまいますよ。だから、ちゃんとしたやり取りにおいては、議事録を作成することも多い。
事態を解決するためや、目標を達成するためには、そのように、適宜フィックスさせることが必要でも、当事者意識がなく、自分の目標や問題意識それ自体が存在しないダメダメ人間には、そんな必要性はまったくない。
むしろ、「アイツから判断を迫られた。」という被害感情ばかりが残ってしまう。

相談においてもそんな感じになってしまう。
この相談でトラブルを解決する・・・という建前でも、当事者意識がないダメダメ人間は、そんな決意がない。だから、そんな人は、実に「小出し」が多いもの。
それこそ、事情の小出しとか、登場人物の小出しとか。
相談を持ちかけている相手から何か不都合なことを言われたら、「実はこんな事情があって・・・」と言えるようにしたい。だからこそ、小出しに適したスタイルが好みとなる。

たとえば、1つのマターについて、2つ以上の文章に分割して相談してきたりするもの。
最初にしっかりとした構想をもって相談の文章をまとめたけど、あとで書き忘れていたことに気がついた・・・そんな「追加」のような状況なら誰でもあることでしょう。
しかし、現実では、最初から2つとか3つに分割しているんですね。
メールの受信のところに、なぜか同じ発信者さんから3つのメールが来ていて、「いちおう」そのメール間で話がつながっていましたが、「どうして、わざわざ分割するのかな?」と怪訝に思ったことがあります。

現状をしっかり認識し、まとめ、伝える。
そんなことから逃避している人は、いわば逃げ道として、複数のメールに分割ということをやるんでしょうね。
そしていざとなったら、実はこんな事情があって・・・と、お約束となってしまっている弁解行為となる。
2つのメールに分割してあれば、3つ目を出して、事情を付け足すことも簡単でしょ?
逆に言うと、そんな小出しのクセがそんな分割メールに出ているのでは?
まさに、メールのやり取りにおいても、「だらぁ〜と、流れるスタイル」を取ろうとするわけです。

何をするにせよ、現時点での集大成的なものを作っておけば、後々ラクじゃないの?
しかし、抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、集大成的にまとめておくことができない。文章力というよりも心理的に難しいわけです。
やり取りする際のマナーの問題でもなく、現状なり自分の考えをまとめあげること自体が、心理的にプレッシャーとなっているわけです。
そんな人に対し、私から「色々なメールで散発的に書いてありますから、この問題についてアナタなりに集大成的な文章にまとめてください。」「現状や経緯やアナタの希望を、一つの文章にまとめてくださいな。」と書いたら、絶対に返事が来ないものなんですよ。
集大成を作ってしまうと、逃げ道がなくなってしまう。
そんな人は、常に逃げ道を求め、逆に言うと、ダメダメな状態からの出口を自分で塞いでしまうもの。

このように、1つのマターについては、2つ以上の文章に散発的に書いたりするわけですが、1つの文章に複数のマターが入っていることもあったりします。
それこそ、1つのメールの文章の中に必ず3つ以上のマターが入っていたりする人もいました。私としては、「とにもかくにも、一つのメールの文章には一つのマターというスタイルで、文章をまとめてみては?メールを受け取った私としては、どうしていいのか?分かりませんよ。一番重要なマターについて集中的に記述して、それが解決したら次に行くというスタイルの方がいいのでは?」と返事をしたら、『ハイ、わかりました。今度からはそうします。』との返事が来て、しばらくしたら、その人から、また1つのメールに3つのマターが入っているメールが来たりするもの。
ホント、どうすればいいのか?途方に暮れるばかりですよ。

本来なら1つのマターに対して、1つの文章をまとめるのが、文章作成上は一番簡単なことだし、自分自身にとっても、やり取りの相手側にとっても有効なことは誰でも分かること。
しかし、抑圧的な人間は、1つのマターを1つの文章にまとめることができない。一つのマターに対して、じっくり取り組むことが心理的に不可能となっている。現実逃避なので、直面している現実を直視できない。そして、自己逃避なので、自分の考えをまとめることも不可能。自分の考えをまとめている最中にパニックになってしまう。だからこそ、事態がより悪くなってしまう。

ちなみに、その手の人は、このメールマガジンの文章スタイルが大変に気にいらないようです。このメールマガジンの文章は、疑問形の文章を適宜ぶつけて、購読者さんに確認しているでしょ?私としては、皆さんに合意してほしいわけではありません。適宜、ご自身で考えてほしいわけです。だから疑問形が多くなるわけです。

文章スタイルはともかく、ダメダメ人間は「アナタはどのように考えているの?」と聞かれることそれ自体を嫌う。
考えることを嫌うので、そんな人は都合が悪くなると、我を忘れるような反応を取ってしまう。
逆上気味のメールが、反論をいっぱい書いたスサムメールのスタイルになることが多いのは、まさにこの理由があるからなんですね。
抑圧された人は、一つのメールにいっぱいの反論を書きたがるもの。しかし、そんなメールは受け取っても読みませんよ。いっぱいの反論から、読んだ側は、何を理解すればいいの?
相手に反論したければ、なおさら一つのメールに一つの反論ポイントの形にまとめないとね。
自己逃避と逆上って、まさに現状を自分なりにフィックスして確認することからの回避という点では直結しているわけです。

上記の問題は、文章なりやり取りのスタイルの問題ですが、世の中には、病的なまでに「落ち着きがない」子供っていたりするでしょ?
一定の時間を、一つの物事に取り組むことができない子供です。
子供というものは、得てしてそんなものでもあるわけですが、それにしても、その落ち着きのなさのレヴェルが違う・・・そんな子供も実際にいますよね?

そんなタイプの人がメールの文章をまとめたりすると、こんなフィックス回避のメールになってしまうんでしょうね。
そんな人は、一つの物事に取り組むことが心理的にできないわけです。集中して取り組むように要求しても、斜めに構えたスタイルになってしまう。いわば真剣さが怖い。逃げ場のない状況が怖いわけです。
自分の立ち位置をフィックスして、自分の現状をフィックスして、自分の現時点での考えをフィックスする・・・そして、その時点での結論を出す。その時点での結論に後々まで縛られる必要はありませんが、適宜そんな作業も必要なもの。しかし、抑圧的な人間は、それができない。

そんな人はトラブルが発生したら、とにもかくにも、「見えなくなる」ように対処するだけ。
そのトラブルが一時的に落ち着いた段階で、じっくり考えてみればいいのでしょうが、そんなことはしない。現状をフィックスせずに、スグに次のものに取り組んでしまう。
それこそ、夫婦で不和になり、離婚したら、その時点でじっくり考え直せばいいわけですが、前の結婚生活を忘れるために、スグに再婚してしまう。そんな「逃げるような」再婚がどんな結果を生むのかについては、子供でも分かること。

あるいは、もっとシリアスなケースとなると、家族の誰かが自殺をするような事件があったら、それを何とか忘れようとしてしまう。まさに「ああ!家族に自殺されてしまって・・・オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と勝手に嘆くだけで、その自殺の事情について何も考えない。しかし、何も考えないわけだから、何も対処もせずに、結局は、別の家族が自殺することになる。
そんな流れとなると、別のところで取り上げております、ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」という映画がそんなストーリーを持っていました。
映画というフィクションの世界だけの話ではなく、現実にそんな流れになっているダメダメ家庭はあるでしょ?
あるいは、皆さんの周囲のダメダメ人間にも、そんな傾向があるでしょ?

会社において決算が必要なように、個人においても適宜フィックスして、現状を確認しないと、次の判断ができないじゃないの?
逆に言うと、現状の集大成的なものが何も提示できないということは、その人は何も判断していないし、判断しようとしないということ。
しかし、自身が判断していないがゆえに、トラブルになったら、「ワタシは何も悪くない!」と言えてしまう。逆に言うと、「ワタシは悪くない。」と後になってから言い出す人は、現状を何も説明できないでしょ?
だからこそ、トラブルになるわけですが、そのようなトラブルも、その気になれば予想できるものなんですね。

(終了)
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発信後記

抑圧的な人間は、「一つの案件を、一つの文章にまとめることができない。」ということについては、明日の文章で、バックナンバーの文章との関連を明示しながら、考えてみたいと思っております。今回の文章の補足説明のようなものです。

会社でも決算書を作らないと、ダメになる一方でしょ?
たとえそれが赤字の決算でも、将来的に黒字にするには、現在の問題点を認識することが必要になるもの。

しかし、抑圧的な人間は、現状を「見ない」という方法しか取れない。そして考えることから逃避するという方法ばかり。
だから現状が改善せず、カタストロフになってしまう。
会社でも現時点で赤字なのが悪いというよりも、それを認識しなかったり、対策をとらなかったりすることの方が問題。
同じことが個人の問題でも、家庭問題でも言えるわけ。
R.11/2/11