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カテゴリー | ダメダメ家庭の被害者意識 | |
配信日 | 09年4月27日 | |
タイトル | 被害者と加害者の区別 | |
このメールマガジンでは、以前に「どっちが悪いのか?」というお題で、文章を配信したことがあります。ダメダメな人間は、現状認識から逃避し、自分で考え判断することからも逃避しているので、トラブルになりやすい。実際にトラブルが発生して考えることは「どっちが悪いのか?」そんなこと。 「どっちが悪いのか?」もいいのですが、「じゃあ、自分はどうしたいのか?」「どうなれば納得するのか?」そんなことは考えないわけ。 「自分はどうしたいのか?」について考えないような人間は、結局はそんな同類同士が寄り集まるしかない。と言うことで、目的意識とか問題意識とか危機意識とは無縁のまま。だから、やっぱりトラブルになって、やっぱり考えることは「どっちが悪いのか?」「誰のせいでこうなったのか?」と言うこと。 まあ、ダメダメ人間は、そんなことを一生やっているものなんですね。 「どっちが悪いのか?」という問題は、別の言い方をすると、「どっちが被害者で、どっちが加害者なのか?」とも言えるでしょ? 今回の文章では、そんな観点から、まとめてみたいと思っています。 それこそ、夜道でレイプにあった・・・ そんな事例だったら、「どっちが悪いのか?」という問題は簡単と言える。 しかし、そんな状況にならないようにするための発想も必要でしょ? いいも悪いもなく、そんな状況はプラグマティックな観点から見て損ですよ。 とは言え、夜道でレイプのような事例なら、被害者と加害者の関係性を考えることは簡単です。当人の見解と、周囲の人の見解の間には、齟齬は発生しませんよ。 しかし、児童虐待のような事例だと、ことは単純ではないわけ。 このメールマガジンにおいて、「児童虐待の『現場』では、子供に暴力を振るう親が被害者で、暴力を振るわれる子供が加害者という認識である。」とよく書いています。児童虐待に陥っている家庭の中では、そのような認識になっているわけ。 それが一般の常識とかけ離れているとクレームを付けてもしょうがない。そもそも自分の子供に暴力を振るうような人間を、一般の常識で判断しても無意味ですよ。 被害者意識が強いダメダメな親は、「子育てということそれ自体を、親である自分が背負わされた被害」と認識している。だからこそ、加害者である子供に「報復」をすることになるわけ。そして、その「報復」行為によって、自分自身で「自分こそが被害者である。」という関係性を確認しているわけです。 しかし、それはやっぱり論理的に無理があるでしょ?そもそも子供だって生まれたくて生まれたわけではありませんよ。それも、よりにもよって、そんなダメダメな親の元にね。 しかし、被害者意識が強いダメダメな親だからこそ、真っ先に自分の被害を考え、「親は被害者、子供は加害者。」という認識になっている。しかし、そのような認識は、当然のこととして一般社会の常識とは齟齬がある。だから、ダメダメ家庭においては、内向き考えと、外向けの考えが違っているダブルスタンダード状態になってしまう。 ダブルスタンダード状態が日常化しており、加害者と被害者の区別が不明確であるがゆえに、逆に言うと、加害者と被害者の区別にこだわらざるを得ないわけ。 まさに「オレは悪くない!」「オマエが悪いんだ!」と主張して、犯人認定の儀式をすることになってしまう。 被害者と加害者の区別があいまいであるがゆえに、その区別なり関係性を確定させる儀式が要請されることは、このメールマガジンで頻繁に書いています。家庭内の虐待行為とは、親の側が「自分がかわいそうな被害者」と主張し、自分自身に納得させるための行為であり儀式になっている。子供への虐待行為は、メンタル的には報復行為であり、報復行為であるがゆえに、自分自身を被害者として認定できるわけ。 『子供を犯人認定 → 虐待行為によって子供を犯人確定 → だから、ワタシはかわいそうなんだ!』 そのように進んでいくわけ。 あやふやで不明確な関係性を、苛烈な行為によって、確定させるわけです。 そのようなことは、学校でのイジメの問題でも顕著でしょ? イジメというものは、被害者と加害者の区別があいまいであるもの。加害者と思っていたら、いつのまにか、イジメの対象となってしまった・・・なんて事例もポピュラーでしょ? 犯人認定した対象を集団でイジメることによって、「自分たちはコイツによる被害者なんだ!」と確認しているわけです。 現実的に言うと、ダメダメな領域ほど、加害者と被害者の区別の認識があいまいなもの。 だって、そもそも被害者という視点が存在している段階で、何がしかの不都合な事態になっているということ。本来は、「そうならない」ようにする必要があるでしょ? しかし、ダメダメな人間は、事前には何も対処せず、事件が顕在化したら、「どっちが悪いのか?」と大騒ぎするだけ。「被害者と加害者」の関係性があいまいであるがゆえに、儀式をとり行うことによって関係を確定させる必要があるわけです。 そのようなことは、韓国人の行動にも顕著に見られるでしょ? 彼らは、被害者意識が強く、「自分たちが一番かわいそうなんだ!」「だから、他には何をやってもいいんだ!」と確信している。だから他に及ぼす迷惑は考えない。だから、現実的に見ると、韓国人の行動は、加害者の行動そのもの。こうなると、当人の主張と周囲の認識が一致しなくなる。だからこそ、「自分の側こそが被害者である。」と周囲に対して主張し、確定させようとするわけ。 それこそ「謝罪せよ!補償せよ!」と被害者認定を求め続けることになる。 あるいは、任期が終わった大統領を逮捕して、刑事罰を処すようになる。 まさに、犯人確定の儀式を挙行するわけです。 被害者意識が強い人間にしてみれば、「どっちが被害者で、どっちが加害者なのか?」という問題は、人生最大の問題と言っていいくらい。 だって、当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間にしてみれば、「自分はかわいそうな被害者」と言うことしかアイデンティティはないんですからね。唯一のアイデンティティを守るためには必死になりますよ。 しかし、その切羽詰った必死さゆえに、周囲と軋轢を起こし、現実的には加害者になってしまうもの。現実における他者からの見解と、自分の思考の大前提との齟齬に直面して、結局は逆上する始末。 ダメダメ人間は「被害者vs加害者」という構図でないと物事を理解できない。普段から何も考えていないので、二項対立的な単純な構図でしか物事を理解できないわけ。 そもそも、自分自身で達成したい目標があるわけではないので、「これの実現のために、これだけ前進した。」という形では、物事を認識できないわけです。 以前に取り上げたエーリッヒ・フロム的に言うと「○○からの自由」は意識していて、だからこそ、その前段階となる「○○による被害」を意識することになる。 つまり、「あの○○のせいで、うまくいかない。」という認識スタイルをとるわけです。 しかし、「○○をする自由」は考えない。 だからこそ、「○○からの自由」を掲げ、強迫的に他者を犯人認定することになってしまう。 そんな人間は、当然のこととして「被害」という言葉が多くなる。 逆に言うと、「被害」という言葉を使い、自分を被害者であると主張することで、「○○をする自由」の問題から逃避するわけです。 親子関係においても、ダメダメな親は、「自分は被害者である。」と絶対的な前提になっているので、「加害者は誰なのか?」そんな犯人探しばかりをしている。 そんな心理が背景にあるので、それこそ「妊娠中のつわりで不快な思いをさせた。」「病気の看護で面倒をかけた。」と自分勝手な理屈で子供を加害者認定することになってしまう。 加害者認定する人にとっては、とにもかくにも加害者認定することが重要であり、だから加害者認定の材料を見つけるための、あら探しばかりするようになる。 逆に言うと、あら探しが得意の人は、犯人探しを常日頃からやっていることが分かるわけです。 他者を加害者認定して、自分自身を被害者認定してしまって、後は自分では何も考えない。 自分をかわいそうな被害者だと認めてほしがるので、自分を被害者認定してくれる人を周囲に置こうとする。だから、自分と一緒に被害を語ることができるような市民団体とかボランティア団体が大好き。 そして真っ先に自分を被害者認定してしまう。 「ワタシは○○による被害者です!」それがダメダメ人間のプロフィール。 そして、自分を勝手に被害者と認定してしまって、後は何も考えなくなってしまう。 「だってぇ・・・ワタシは被害者なのよ!後はアンタたちが何とかしてよ!」 しかし、何度も書きますが、被害者と言うものは、あいまいなもの。本来はその言葉を使うに当たって、それなりの配慮が必要なものですよ。しかし、世の中では、何かあると、真っ先に「被害者」なる文言が登場したりするものでしょ? たとえば、「出会い系サイトの被害者」などの文言が報道などで登場したりしますが、そんな状況での被害者って何?そんなところにわざわざ電話して、オッサンと関係を持った未成年の女の子が被害者なの? そんな、いかがわしいものに対しては、関わらないことが本来は一番合理的でしょ?しかし、被害者と自称し、周囲に主張している状態なので、関わらないという判断が存在しなくなってしまう。だって被害者と主張するためには、加害者の存在や、被害発生のロジックが不可欠となる。だからこそ加害者に関わる必要があるわけ。 地震のような自然災害だったら、好きで関わったわけではないから純然たる被害と言えるでしょうが、出会い系サイトだったら、それなりの意思があったわけでしょ?だからその意思そのものに目を向けないと、別のものに巻き込まれるだけ。 しかし、被害者と自称することで、判断することから逃避できるわけ。 逆に言うと、判断から逃避するから、またトラブルになってしまう。 以前より頻繁に言及している「共依存」という心理は、「相手から依存されるという関係性に依存する」心理です。被害者意識が強いダメダメ人間は、その共依存と同じように、「加害者vs被害者」という構図というか関係性に依存していている状態となっている。だからこそ加害者の存在が必要になる、と言うよりも加害者の存在に依存しているわけです。だからこそ、必要以上に加害者に関わろうとするようになってしまう。それこそ「このような被害を根絶するんだ!」「あの人の間違いを正す必要がある!」という名目を掲げることによって、加害者認定しやすい存在に近づいて行く。 そうやって、「つるし上げ」や「糾弾」を行うことになる。 だからと言って、その手のトラブルを避けるためには何も考えない。 トラブルが本当に根絶されてしまったら、一番困るのは「加害者に精神的に依存している人間」ですよ。 だからその手の人は、根絶という言葉を掲げても、あくまで関わる名目であって、目的ではないわけ。 加害者に依存している心理状態を自覚しない限り、事態の改善なんてありえないわけです。 ドメスティック・ヴァイオレンスの被害者の女性もそのパターンのケースが多いもの。真っ先に被害者と自称してしまって、後はボケーとしているだけ。 そんなシリアスな状況において、離婚に向けて自分なりに努力している女性だったら、まだいいわけですが、何もアクションを起こさない人も多いものなんですよ。 むしろ、被害者認定を勝ち取ることそれ自体か目的化されている状態。 逆に言うと、スグに自分を被害者と名乗る人は要注意というわけです。 それこそ以前に福島県で、出産中の事故によってお亡くなりになった女性がいて、その女性の父親が医師をつるし上げていましたが、その父親は真っ先に「事件の被害者」を自称していましたよね?もし、事故だったら被害者とは言えないでしょ?「ガンや肺炎による被害者」という文言ってヘンでしょ?真っ先に被害者と自称してしまうのは、やっぱり発想の傾向としてヘンなんですね。あるいは、その事態を伝える際には、そのトラブルが事件か事故かを判断する前に、被害者という言葉を使ってはいけないもの。 まあ、それについて何も考えずに報道するマスコミも相変わらずの思考停止ですが・・・ 当事者意識を持って、自分のやりたいこと、達成したいことに向かって、自分で努力する・・・そんな状態においては、「どっちが被害者で、どっちが加害者なのか?」という問題は発生しないでしょ? 逆に言うと、そんな「被害者と加害者の区別」という問題が発生している段階で、もうダメダメが進行しているわけです。そうして、その問題の答えを出そうとして、もっともっとダメダメが進行してしまう・・・それが現実なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 先週で騒ぎになったのが、芸能人がオールヌードで暴れていた騒動。 しかし、それは所詮は、笑い事ですよ。「もう春だなぁ・・・」でオシマイ。 とてもじゃないけど、笑い事では済まないのが、大阪での虐待事件。 「あの母親も・・・どうして、無理に子供を一人引き取ったんだろう?虐待するくらいなら、実父の元に送り返せばいいのに・・・」と思った方もいらっしゃるでしょう。 しかし、被害者意識が強いと、どうしても「被害者vs加害者」の構図が必要になり、逆に言うと、加害者の存在に依存するようになってしまう。 親としての被害を「語りやすい」状況を作ろうとするわけ。 たぶん、あの母親が引き取った子供は、3人の子供の中で一番「手のかかる」子供だったのでは? 加害者の存在に心理的に依存する心理というものは、あの母親だけでなく、被害者意識が強い人に見られるもの。 ヘンな話になりますが、家庭問題のボランティアの人たちも、そんな心理を持っているものなんですよ。ボランティアの人は、その人たちが加害者認定した存在にわざわざ近づいて行って、つるし上げや糾弾を行うわけ。 『犯人探し → 犯人認定 → 犯人確定 → ワタシたちは悪くないわ!と主張』 結局は、自分の子供を虐待している親も、そんなダメな親をつるし上げている「善意のボランティア」もメンタル的には共通。 ダメダメというものは、常に「類は友を呼ぶ」ものなんですね。 |
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R.10/12/22 |