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カテゴリー | 自己への抑圧 |
配信日 | 09年5月4日 (11年2月16日 記述を追加) |
タイトル | 空気を読めない |
以前に、購読者さんから、いわゆる「KY」・・・空気を読めない・・・そんな人たちについての質問がありました。 その人は、空気を読めない人をコミュニケーション能力の問題と考えていたようです。 いわゆるKYな人は、相手の気持ちに配慮せず、自分の考えを一方的に言い放つばかりですからね。 「周囲の人がどんな気持ちでいるのか?」 「この発言なり行動をすると、周囲の人が、どんな気持ちになるのか?」 ちょっとくらいは考えて行動したり、発言してよ! そんなトンチンカンな人に対して浴びせられる、『空気を読めよ!』という言葉は、そんな気持ちなんでしょ? それを「会話の場の維持」というコミュニケーションの能力の問題と捉える考え方もあるでしょう。 しかし、私としては別の面から考えています。 「空気を読めない」人は、往々にして、強い抑圧状態にあるものなんですね。 ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。自分でやり遂げたいものがそもそも存在しない。だから、それを伝える必要もないので、コミュニケーション能力が発達しない。だから、やり取りにおいて、どうしても齟齬が発生しやすい。 そしてダメダメ家庭には強い被害者意識がある。ダメダメな親は、「ワタシは子供を育てることを背負わされたかわいそうな被害者」と確信を持っている。だから子供に対して「親に迷惑をかけるな!」と言い続けることになる。 と言うことで、そんな環境だから、子供としては自分自身の希望を持ちようがない。どうせ希望を持っても、親からのサポートなんて何もないんだから、子供だけでは実現しませんよ。子供なりの目標を持って、自分で努力していると、「オマエはそんなことができていいねぇ・・・それ比べてワタシときたら、オマエを育てるために人生を棒に振ったわ!」と親からイヤミを言われるだけ。こんな状態で、目標達成どころではないでしょ?達成できない希望なんて元々持たないほうが精神的にはいいというもの。だから、ダメダメ家庭の子供としては「この門より入るもの、希望を捨てよ!」の境地になるしかない。 それに被害者意識の強い親なので、そんな環境では子供としては、自分の感情を抑えるようにならざるを得なくなる。そもそもダメダメな親は、「オレが一番かわいそうな人間なんだ!」と確信しているので、他者の感情など頓着しない。子供の気持ちなどには配慮しないので、平気で子供の心を傷つけるようなことを言ったりしたりする。 そんな環境では、むしろ人間らしい感情を持っていてはやっていけない。子供としては、親からのクレームが自分に降りかかってこないように、ただ「親に迷惑をかけないようにしよう!」と、注意し警戒するだけで精一杯になってしまう。 自分の感情を抑圧しているんだから、他者の感情も分かりませんよ。 そんな日々なので、このメールマガジンで以前に取り上げましたが「人の気持ちが判らない」人間になってしまう。 自分自身の意見を抑圧し、自分の感情を抑圧し、それゆえ「人の気持ちが判らない」んだから、コミュニケーション能力が付かないのは当然のこと。「どのように表現したら、相手に通じるのか?」そんなことまで考えるどころではない。そればかりではなく、「親に迷惑を掛けてはいけない!」と精神的に切羽詰っている状態。 これでは、場の「空気を読む」どころではないでしょ? しかし、自分自身を抑圧し、自分で考えることから逃避しているので、「何が自分を抑圧しているのか?」そんな思考に至らない。抑圧状態なので、その抑圧につながる大きな要因であるほどアンタッチャブルになっている。根本の原因がアンタッチャブルなんだから、そのようなコミュニケーションのぎこちなさを改善しようがない。 周囲からの厳しい視線を感じ、「なんか、マズイことになっているようだなぁ〜」「どうしようかなぁ〜」と、心にモヤモヤを抱えている状態となっている。 「空気を読めない」というと、以前に日本の総理をされた安倍さんがその典型でしたね。 彼としては、偉大なる祖父なり父親がプレッシャーになっていたんでしょう。 祖父や父親の言葉なり、行動や業績が、彼に対して無意識的に語りかけている。 だからこそ、彼としては「祖父や父親の名を汚さないように・・・」と切羽詰ってしまう。切羽詰っているから、現実に目の前にいる人たちを見て考える精神的な余裕がない。 彼は、記憶や歴史に支配されていたといえるでしょう。 本来なら、そんな自分自身に向き合う必要があるわけですが、彼にはその精神的な強さがないんでしょうね。安倍さんは入院されたんだから、身体も強くないようだし・・・アタマの働きは・・・ともかく・・・せめて、人の知恵を借りることもできれば、何とかなったでしょうが、そのためには、自分自身を見つめる強い心が必要になるものです。この点については、以前にジョディ・フォスターが主演した「羊たちの沈黙」という映画を取り上げた際に、言及いたしました。 周囲の人との間で「空気を読めない」状態となっていることは、状況的には、「周囲との間の雰囲気を読めない。」「やり取りの相手側の気持ちが分からない。」ように見えるものなんですが、その大元は、自分自身の心が読めないことが原因といえます。 やり取りに際し、「相手に対して、どうしても分かってほしいことは何なのか?」 それが自分自身でも分かっていない。 どうしても分かってほしいことや、どうしてもやり遂げたいことがないので、真剣さが怖い。精神的な意味での逃げ場所を探すことになる。だから、シリアスが必要なときにオチャラケしまったりする。 そんな行動が、周囲の人をドン引きにさせてしまう。 逆に、多少オチャラケていい時に、シリアスに対応して、周囲の人間を鼻白ませるもの。 オチャラケの加減が分からない。 そんな状況を、周囲の人は、「空気が読めない」と評するものですが、真剣さが怖いという心理が分かっていると、そんな人の気持ちも理解できるでしょ? 自分自身にやり遂げたいことがなく、相手に対して真剣に伝えたいものがないので、真剣さの加減が見えないわけです。 そんな人が真剣になるのは、人の話を聞くことではなく、人に合わせること。 「周囲の人を怒らせないように」と周囲をおどおどと見ているだけ。そして周囲の人の言動に「合わせる」ことになる。言動に合わせても、その人の言葉や意向に配慮するのではない。 ただ、「怒られないように」「不快にさせないように・・・」と警戒しているだけ。 しかし、警戒することと、相手の意向に配慮することは違っているものですよ。 人に合わせるために最大限の注意力を各方面に向けているので、逆に言うと、注意力が「散漫」になってしまう。1つのことに、注意を向けることができない。それに「怒らせないように」と気を使っているので、逆に言うと、言葉をしっかり聞く精神的な余裕もなく、あるいは、誰かの話を聞いていても、その話から自分への攻撃がないかについて断片的に警戒するだけで、話の全体的な内容を受け取ることはしない。だから、周囲の人から「ちゃんと人の話を聞けよ!」と怒られてしまう。そんなお説教を受けて、ますますパニックになってしまう。 そんな人に対し、「もっと日頃から注意しろ!」「空気を読め!」と要求しても、ますます、自分の意向を抑圧して、周囲の人に合わせるだけ。 だから、ますます抑圧的になってしまって、人に対して気を使い、ますます、注意力が断片的になり散漫になってしまう。 何回も書きますが、抑圧とは、自分の感情を抑圧すること。だからこそ、他者の感情も分からない。そして、ますます「人の気持ちが判らない」人間になる。人の気持ちが判らないんだから、結果的に、空気が読めなくなりますよ。 空気を読めない人は、やり取りにおいて、相手との間で相互理解を達成し、合意をとるということはない。むしろ、『面倒なことが発生しなかった。』という二重否定的な状態が成果となる。「このような人との間で、このような事案について、合意に到達した。」という基本をもっていない。むしろ、多くの人とやり取りして、相手側から「問題ない」との評価をもらった・・・ということが成果となる。 つまり、相手のキャラクターはどうでもいいわけです。 合意形成が基本的な目的となっていれば、相手のキャラクターは重要でしょ? しかし、顕著な問題がないという成果だったら、要は反論を受けない、つまり、ノー・リアクションが成果なんだから、キャラクターを議論しようがありませんよ。 そうなってくると、やり取りの相手については、質はどうでもよく、量だけが問題になってしまう。 量だけが問題になってしまっているので、誰かが「今はこれが流行なんだよ!」などと言ってくると、もはや強迫的なまでにその流行のものに飛びつくことになる。 「どの点がいいのか?」について全く分からないのに、あるいは、当人自身としては何も楽しくないのに、「関わっておかないとマズイ。」くらいに追い詰められた心情になってしまう。 そして、「関わっている」自分をアピールすることになる。 そんな流れは、以前にあった韓国ドラマのブーム?の周辺であったでしょ? その人が韓国ドラマを好きなら好きで個人の問題ですが、「韓国ドラマを好き。」であることを、先制的にアピールする人も多くいましたよね? そんな人は、会話の基本ができない人に多くいたでしょ? その手の人は、「多くの人に支持されている。」とのキャッチフレーズがあると、強迫的になってしまうんですね。 あるいは、メールマガジンを評価し考える際には、購読者数に異常にこだわることになる。 「人に合わせないといけない」と切羽詰っている人だったら、購読者数の多い文章に注目するのは当然のことでしょ? 数に注目すること自体はいいとして、その手の人は、内容を理解する意欲も能力もない。 それがまさに「空気を読めない」「人の気持ちがわからない」人というもの。 合意の質なり、相手の質については何も考えないので、「数=高い評価」と直接的に結び付ける。 そんな人は、それこそインターネットのニュースサイトで、コメントを書き込んだり、「そう思う」とかで参加している人に典型的にみられるでしょ? あんなところにコメントを書き込んで、そのコメントについて、多くの人から共感を表明してもらっても、そもそも質の面では、意味のない共感ですよ。 しかし、「人に合わせなくてはならない」と強迫的に思っている人間としては、多くの数の共感は、自分の成果とみなせることになる。 だからこそ、人に共感してもらえるコメントを必死になって残そうとする。自分の考えよりも、周囲への通りの良さが優先される。 あるいは、以前にとあるメールマガジンの発行者さんからお便りをいただいたことがありますが、「ワタシのもとに多くの購読者から絶賛のメールが来るんだ!」と上から目線で、この私に自慢された方がいらっしゃいました。 そのこと自体は結構なことといえるのでしょうが、絶賛と言っても、どんな内容に対して同意を得たのか?あるいは、同意してきた人はどんなレヴェルなのか?同意の文章はどのようなレヴェルなのか?それが重要でしょ? それこそ、インターネットのニュースサイトのコメントで「そう思おう」の賛同を多く得ても、ただ、それだけになっているのと同じ。 自分への賛同を誇るのなら、その質について提示しないと意味はないでしょ? しかし、逆に言うと、「合意」ではなく、単なる「共感」であるので、質ではなく数を志向することになってしまう。 人に合わせ、空気を読むことが目的化されてしまうわけです。 しかし、だからこそ、自分自身の視点なり見解が、ますますなくなってしまうのは当然のこと。数への過剰はこだわりは、別の言い方をすると、質へのセンシビリティの低さそのものであり、それは合意を達成するという発想そのものを持っていないことを示しているわけです。 合意とは無縁であるがゆえに、相手のことは、結局は、視界から外れてしまう。 何回も書きますが、「人に合わせようとする」がゆえに、「相手の気持ちが見えない」わけです。感覚情報だけに注視し、その感情面や内容についてまで、配慮が向かっていないわけです。 「空気が読めない」人は、別の言い方をすると「人に合わせすぎる人」でもある。 皆さんは、まったく逆と思っていたかもしれませんが、現実にそうなっているでしょ? 「空気が読めない」人の発言や行動って、周囲の人を困惑させる突拍子もない言動というより、「で、アンタはいったい何が言いたいの?どうしたいの?アンタの話から何を分かればいいの?」そう思わされることが多いものでしょ? 場の空気が読めない当人としては、まさに、そのことについて自覚することを抑圧しているがゆえに、結果的に「空気を読めなくなって」いるわけです。 「空気を読めない人」は、相手に対して「分かってほしい」ことは何も自覚していないのに、「言いたい」気持ちだけはある。そんな観点からも見ることができるでしょ? だから、まずは、自分の心を見つめることが必要になるものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 新しいカテゴリーとして「自己逃避と抑圧」というカテゴリーを設定いたしました。 あと、今週は、空気が春めいて来たことにちなんで、空気がついたタイトルの文章を配信する予定です。 今回の「空気が読めない」というのは、以前に配信した「人の気持ちが判らない」のヴァリエーションのようなもの。 そして、その大元は、まずもって「自分自身の気持ちがわからない」ことから来ているわけ。 そんな人が、他人の気持ちを知ろうとして、ますます自分自身から目を背け、ますます人の気持ちがわからなくなってしまう・・・ そんな人をご存知の方もいらっしゃるのでは? |
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R.11/2/16 |