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カテゴリー 自己への抑圧
配信日 09年5月8日 (10年12月26日 記述を追加)
タイトル 空気に乗る
ダメダメ人間は当事者意識がない。
自分自身で達成したい目標があるわけでもないし、当然のこととして、それを達成するために自分で努力するわけでもない。逆に言うと、自分が直面している課題なども、そもそも存在しない。だから、問題意識もない。
だって、自分で達成したい目標自体がないんだから、そのための課題も障害も存在しないわけです。

かと言って、そもそも達成したい目標そのものがないんだから、何も達成するわけもない。
何も達成していないんだから、やっぱり心の奥底ではコンプレックスを持っているもの。
だから、発生したマイナスには過剰に反応することになる。
このような流れはこのメールマガジンで頻繁に触れております。

自分として達成したい目標があったり、達成の障害があったら、自分の力で解決していく必要がありますよね?たとえ、周囲の人間が同意してくれなくても、何よりも自分自身のために、努力したり、障害なり課題を打破する必要があるでしょ?
しかし、その目標なり障害がないんだから、そんな人間ができることは、「人に合わせて」「空気を読む」ことくらいになってしまう。

人がやっていることを、なんとなく真似して喜ぶようになってしまう。真似して喜ぶと言うよりも、「真似しなきゃ!」と強迫的に思っている場合も多い。
まさに、子供時代に親から散々と言われたように「ふつうにならなきゃ!」「人に合わせなきゃ!」と切羽詰まっている。いわば、恐怖心が伴った形での「ふつう」志向なんですね。

当人自身では、「こうした方がいいかなぁ・・・」「自分としてはコッチがいいのに・・・」となんとなく思っていても、周囲の人が、それをやらないようだったら、自分自身を抑えてしまう。
しかし、そんな感じで、自分の希望を抑える自分自身を、「オレは空気を読めるんだ!」と自画自賛する始末。

しかし、それって、「空気を読む」のではなく「空気に乗っている」だけじゃないの?
一時的には、その場の空気を読む必要があっても、そのまま一生その場の空気に従っていくの?空気を読むのはいいとして、その人自身は何を達成したいの?
抑圧的で自己逃避しているダメダメ人間には、「人に合わせて」「空気に従い」、そして「空気に乗る」しか能がない。自分で対処するために、対象とする領域の「空気を読む」必要はあるでしょうが、ダメダメな人は、自分で判断することから逃避するために、「空気に乗る」ことになる。

だから、ブログの炎上なるものが発生することになる。
あの手の炎上って、「みんなが、そのブログにクレームを書き込む。」ことが分かっているから、書き込むんじゃないの?そのブログの文章に反論をしたいのなら、たとえ自分一人でも、的確な言葉で反論の文章を書けばいいわけでしょ?しかし、その手の炎上させている人は、「みんながやっているからこそ、自分もやる。」それくらいの付和雷同型のスタンスじゃないの?

ただ、空気に乗って、クレームを付けているだけ。
しかし、クレームをつけられた側も、そんなにいっぺんにやって来るクレームなんて、そもそも読まないでしょ?それくらいのことは、クレームを書き込んだ側も、分かるのでは?
クレームをつけた側の人としても、結局は、自分が書いたクレームの文章を読んでほしいの?読んでほしくないの?相手にどんなことを分かってほしいの?相手にどうしてほしいの?

このようなことは、クレームの時だけではありません。ちょっとした質問の時でも発生したりするもの。
それこそ誰かが何か目立つことをやった。そうなると、どのようにして達成したのか、ちょっと関心がある。だからその人に質問したい!!
関心があって、質問したいのはいいとして、自分の疑問に答えてもらうためには、それなりの手順が必要でしょ?

いきなりマイクを突き出して、「コメントをお願いいたしますっ!」と言われても、言われた方も、答えようがないじゃないの?
そんなスタイルの質問は、ただ「みんなが質問している。」という空気に従っているだけ。当人自身が「この面について知りたい!」と切実に聞きたいと思っているのなら、そんな聞き方はしないでしょ?

周囲の人が、その人に対して質問しているのを分かっているからこそ、その空気に乗って、自分も質問することになる。しかし、それだったら、自分より前にその人に対して質問した人が得た回答を聞けばいいじゃないの?
しかし、自分の疑問を解決することが重要なのではなく、質問するという空気に従う・・・そちらの方が重要になると、あたりかまわず質問責めにするようになってしまう。

質問責めくらいならともかく、クレーム責めだったら、結局は「つるし上げ」でしょ?
空気に従って、誰かを質問責めにする人間は、「つるし上げ」にいそしむ人間と、共通しているでしょ?

自分ひとりでは何もできないがゆえに、集団で「つるし上げ」。
そんな姿は、たとえば、市民運動の場などでも典型的に見られますよね?
みんなと一緒に行動するのはいいとして、まずは個人の精神的な自立が先でしょ?
自立した個人が、その共通した目標を達成するために、集団となるのはいいでしょう。しかし、あの手の市民運動って、集団になること・・・それ自体が目的化しているでしょ?
そして、その目的というか大義名分が、「○○に抗議する!」そんなものでしょ?
いわば、ブログの炎上をリアルでやっているだけ。

その場その場で「空気を読む」必要もあるでしょう。しかし、それに安住してしまうと、「空気に乗る」しか能がない人間になってしまう。そんな人って、結構ポピュラーでしょ?
一時的に、空気に乗るのはいいとして、それが「人に合わせる」ことが目的化されてしまっている。人と意見が違っている状態に耐えられないわけ。

人と意見が違ったら、「じゃあ、どうして自分はそのように考えるのか?」説明しないといけないでしょ?しかし、自分に自信がなく、そして、説明能力や会話の能力の欠如したダメダメ人間は、そんな状態になりたくない。だから、とにもかくにも「人に合わせる」しかない。

当人が、「人に合わせる」のは勝手でしょう。しかし、そんな人間なので、「周囲の人も自分に合わせてくれるのでは?」と期待することもあるんですね。
そうして、自分が出した言葉に、人が同意してくれることを期待することになる。

自分の考えに、周囲の人が賛同してくれれば、結構なこと。
しかし、それは結果であって、目的ではないでしょ?
「周囲の人が賛同してくれる意見が、それすなわち価値がある意見なのか?」
そうとは言えないでしょ?
というか、人の考えなんて、その人それぞれですよ。考え方が違っていてもいいんじゃないの?それぞれの見解の違いを、会話によって調整していけばいいだけ。
しかし、会話ができないダメダメ人間にしてみれば、「会話によって調整」ということ自体が、苦手なこと。
だから、周囲の人が、合意してくれること・・・それ自体が目的となってしまう。
当たり障りのない見解を公表して、それに周囲が乗っかってくれることを期待する。
そして、実際に乗っかってくれると、大喜び。

会話のできない人間は、会話のできない人間同士で群れるしかない。
自分の考えを持たない人間は、同じような思考停止人間同士で群れるしかないわけ。
以前にメールマガジンで書きましたが「スカがスカを選ぶ」状態になってしまう。

それに、ダメダメ家庭の人間は、好意と信頼の区別ができない。
それこそ、「アイツはオレのパシリとして働いてくれるから、好きだ!」と「あの人は、敵だけど、見所がある!」そんな2つのパターンがあったりすると、前者が好意で、後者が信頼でしょ?
それこそ戦国時代の武田信玄は、ライヴァルの上杉謙信に対し、好意を持ってはいなかったでしょうが、信頼はしていたわけでしょ?だから「自分が死んだら、謙信を頼れよ!」と言い残していたわけでしょ?

しかし、ダメダメ人間が理解できるのは、好意だけ。だから、「パシリとして好きだ!」の方を選んでしまう。そんなことだから、ますます説明能力がつかず、個としての自立ができなくなり、ますます信頼から遠くなってしまう。

自分で本当に言いたいことがないので、意見の相違の状態に耐えられない。だから、自分の意見を言う際にも「これくらいなら相手が受け入れてくれるかなぁ・・・」と言った卑屈な雰囲気が漂ってしまう。
それに、意見の相違に耐えられないので、現状の問題を顕在化するような説明にはならない。具体例がなく、何となくの通りがいい、当たり障りのない抽象的な一般論が並んでいるだけ。自分の見解に、賛成してもらった方がいいのはいうまでもないことですが、それが目的なの?

文章を書く際にも、自分に自信がないので、反論を受けにくい、当たり障りのない文章を書いて、他者からの「ワタシもそう思う!」という感想を引き出したい。そんなやり取りは、感想のやり取りであって、意見のやり取りではない。おしゃべりであって、会話ではない。ただ群れたがっているだけ。せっかく、文章をまとめるのなら、もっと気迫を持って、どうしても伝えたいことを書いた方がいいのでは?
逆に言うと、そんな中身や気迫がない文章だからこそ、ダメダメな読み手としては安心できることになる。だから、実際として同意は得やすい。

そんな文章を読んでも、「何だかなぁ・・・」と思ってしまう。
反論はできないし、するつもりもないけど、読んでいて何も残らない。
たまにあるでしょ?そんな「空気のような」文章。

そんな文章も、ダメダメ人間が持っている「同意を求めたがる」心情が頭に入っていると、なんとなく理解できることになる。
そんな文章の書き手は、自分の考えを説明することが目的なのではなく、同意してくれることが目的となっている。
そうして、人からの同意が得られ、人の意見に同意して、歓喜して叫ぶことになる。
「ワタシは空気が読める!」

それがそんなに嬉しいのなら、一生やっていればいいでしょうが、「で、結局は、何なの?何がしたいの?」とも思いますよね?
「空気が読める」のも取り柄の一つなんでしょうし、それは好意に値することなんでしょうが、信頼というファクターも考える必要もあるでしょ?
空気が読める「だけ」の人間なんて、それこそ空気のように印象に残らないもの・・・でしょ?

同意をほしがる人間は、自分に同意してくれる人だけを相手にしようとする。そして他者が自分に同意してくれると、やたら喜んでしまう。
だから、詐欺のようなものに引っかかりやすい。
そんな「被害」を受けると、「どうして、こんなことに?!」「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」そして「アナタもそう思うでしょ?」と周囲に同意を求めたりする・・・
そんな光景は皆様もご覧になった方も多いのでは?

その場の人たちが、何も考えずに、空気に乗ってばかりだからこそ、空気が入れ替わらずに吹き溜まってしまう。思考停止のダメダメ人間は、そんな汚れた空気に安住してしまうので、当人のダメダメもますます進行する。
そして、未来への可能性を、自分で捨ててしまう。

抑圧的な状況になると、みんなが空気に乗ることを要求し、全会一致を名目に反論を許さない。まさに「平和」が達成されることになる。
そんな平和は、いわば、声なき声が、現実の声になるのを防止しようとするもの。
そんな集団の構成員にしても、「みんな一緒」だと、心理的に負担が少ない。
そんな状況は、大衆迎合というよりも、自分の弱さに迎合している状況でしょ?
大衆迎合と、多くの人に対して愛を持って語りかけることとは違っていますよね?

「空気に乗ること」の危険性を指摘した芸術家としては、映画監督のフレッド・ジンネマンという人がいます。彼の作品は、いわば「孤高の人」と、「流れる大衆」(断じて「流される」ではありませんよ。)の対立をテーマとしたものが多くあります。そんな危機感は、ナチスの勃興の前に何もしなかった彼の故郷ウィーンの人々の姿を背景にしているんでしょうね。

芸術というものは、本来は、受け手の精神に嵐を巻き起こすもの。そうでなければ、事前に知っていたものを、再度確認しただけですよ。
しかし、一般大衆にとっての芸術分野がそのような再確認の手段に堕しているのも現実。前回も言及したエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」という小説でも、「コンサートにおいて、一般的には、聞き手が前から思っていることを確認するだけだ。聴衆は新たな発見などは求めない。」という記述もありました。

芸術の分野というものは、本来なら見解や表現の自由度が高いはずなんですが、受け手が求めるのは、そんなものではないのも現実。しかし、それでは精神が硬直化してしまうでしょ?
まあ、芸術作品が理解できないくらいなら、一般社会で生きていく上では問題になるわけではないでしょう。

しかし、見解の相違の状態を恐怖するがゆえに、「空気に乗ってしまう」人々が主張する「平和」なり「道徳」が、実際には、とんでもないカタストロフに近いことは、芸術的だけでなく、歴史的にも、示されているでしょ?

この芸術?の問題で、最近(10年)に典型的な現象がありました。
日本の元芸能人さんが、小説を発表したとかで、そして、出版社の賞を取り、そして、ベストセラーになっているんだとか。
巷では、「そもそも、そんな賞は出来レースじゃないのか?」「その小説だって、本人自身が書いたのか?」とか言われているようです。

しかし、重要なことは、その人自身が書いたことではなく、あるいは、どんな賞を取ったかでもないでしょう。芸術の分野において、そんなことは枝葉末節ですよ。
それこそ、たとえばルーベンスなどの昔の画家は、工房において絵を制作しました。
つまり、弟子との共同作業なんですね。
その作品に対して、ある人が全部の責任を持てればいいだけで、全部をその人が制作する「芸術的な」意味はないんですよ。
それこそ、漫画だって、アシスタントの人がいるでしょ?
それに、出版社の賞といっても、過去の芸術家を見てみれば、その手の「賞」と、芸術的な業績は、あまり関係ないことくらいは、芸術史の常識の範疇ですよ。

だから、重要なのは、その作品自体の「力」になるわけです。
どんなテーマなり問題意識を持って、どのように表現したのか?
そのような「WHAT」と「HOW」の問題になるわけです。
もちろん、デビュー作とのことで、特にHOWの面で荒削りになるのはしょうがない。
しかし、特にWHATの面においては、何がしかの普遍性に到達している必要があるでしょ?
逆に言うと、テーマや内容に普遍性があるのなら、出版直後に慌てて読む必要もないでしょう。

その作品そのものよりも、文章作品を、我先にと争って読み、そして、早々にコメントを公表している周囲の人の方ががダメダメですよ。
その手の人は、まさに「空気に乗っている」だけなんですからね。
まさに、「みんなが読んでいそうだから・・・」「読まないとマズイ。」と、出版直後に購入し、
「みんなが感想を発表しているから・・・」と、しょうーもない感想を公表する。

その感想を公表した人は、その感想に自分の尊厳を掛けられるの?
というか、尊厳そのものがないからこそ、そんなことをしているわけでしょ?
まあ、その小説を書いたとされる元芸能人さんも、そんな一般大衆の姿こそに興味を持たないのかな?

作品が「売れる」ことが、その作品が理解されたことにはならない。
絶賛されたことが、理解されたことにはならない。
あるいが、罵詈雑言が、その作品の価値の低さを示しているとは言えない。
だって、人は本質を突かれると逆上するもの。
そんな逆上の姿こそが、その作品の価値を示すことがあるというのも、芸術史のイロハというものですよ。

そして、そんな大衆の姿は、それこそキリストの時代から何も変わっていない。
そして、芸術家の使命とは、我々が住んでいる荒野において警告を発することなんですからね。
たまに書きますが、そのような一般大衆の姿を見据え、自分の芸術的な使命を自覚することにより、芸術家の中期の冒頭に登場する芸術家宣言的な作品が誕生するわけです。
いわば、殉教を受け入れる覚悟のような作品を作るわけです。

その日本の元芸能人さんも、今後はどうなっていくかはその人次第でしょうが、絶賛の声?を振り切れるかが、芸術家と芸能人の差となるわけです。
それこそ、前記のフレッド・ジンネマンが「真昼の決闘」という作品で物議を醸したようなもの。あの作品の物議は、フレッド・ジンネマンが全部やったとか、賞を取ったとかの問題ではないでしょ?作品のテーマそのもので物議となったわけでしょ?
芸術作品における物議とは、そういうものですよ。

芸能人こそ、流れに乗る人であり、芸術家は、流れの向こうにある存在。
もちろん、流れに乗っかるのがラクなことは言うまでもないことですが、それができなくくらいに「見えてしまう」のが芸術家というもの。

まあ、創作する側の問題はともかく、我先にとその本を読んで、感想を公表した人は、例外なく、「空気に乗る人」と言えます。
そんな人は、いざという時に頼りになる人でもないし、ちょっとでも相違点が顕在化してしまうと、その点について攻撃的になったりするもの。
非常にタチが悪い人間と見た方が現実的なんですね。

(終了)
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発信後記

このような「空気に乗る」人が、まさに空気に乗って、な〜んとなく、結婚して、考えも覚悟もなく、子供を作ってしまう。
出来た子供に対して、どのように言うのか?

前回配信の文章で取り上げた「空気を読め!」なんて言葉は、その典型でしょ?
そんな要求を親から受けたら、まさに周囲に配慮してオドオドするような人間になっちゃうでしょ?
結局、緊張の糸が切れて、ドッカーンとなってしまう。
周囲に配慮しているわけだから、事件前は「挨拶ができるいい子」だったわけですが、事件後になると、「あんないい子がどうして?」と周囲からのコメント。
逆に言うと、そのような事件は、予測が付くわけ。
R.10/12/26