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カテゴリー ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神
配信日 09年5月11日 (10年12月19日 記述を追加)
タイトル 継続した探究心 (自己逃避型好奇心)
ダメダメ家庭の人間は、好奇心がないことが多い。
このことは以前に配信しております。
自己逃避で抑圧的な人間は、普段から感情を抑圧しているので、「わあ!これって面白い!」とかの感情も持つことはない。それに当人自身に向上心があるわけでなない。
だから、新たな知識を知りたいなんてことは考えないわけ。

しかし、逆のパターンもあります。
自己逃避で抑圧的な人間は、自分自身が直面しているシリアスな問題に向き合うのが怖い。
だから、現実から逃避したい。そんな人は、自分にとって重要ではないことに首を突っ込みたがるわけ。
自分の目を自分自身から逸らすための好奇心は持っているわけです。

このような自己逃避型好奇心は、以前に取り上げたトルストイの「アンナ・カレーニナ」のアンナさんがまさに典型と言えます。
「離婚するのか?子供の親権はどうするのか?」そんな自分自身のシリアスな問題を放っておいて、建築やら美術やらに関心を持ったりする。

しかし、自分自身のシリアスな問題から逃避するような人間が、建築でも美術でも、本当に理解できるの?やっていて面白いの?作者の心情が理解できるの?
そんなわけないでしょ?

たとえば、文芸作品でも、美術作品でも、音楽でも、その作家さんに興味を持ったら、もっと継続的に調べたりするものでしょ?本当に、その作品に強い印象を受けたのなら、その作者の次回作とか前回作とかを、調べてみようと思うもの。
そうしてその作家さんが持っていた問題意識について、思いをめぐらすことになる。その作家さんの問題意識まで見えたら、その作家さんの別の作品のテーマや傾向もおおよそ予想できたりするもの。まあ、これくらいまで問題意識を共有化できれば、その作家さんについては卒業してもいいでしょう。

しかし、世の中には、色々な作家さんを食い散らかすような感じで接する人もいるでしょ?アッチコッチの作品に手を出して、「て・き・と・う」に感想を持ったり発表したりする人です。結局は、雑然とした知識を得て、「あ〜あ、もうつまんない!」と放り出すことになってしまう。こんな人って、今でも多くいるでしょ?あるいは、芸術作品との関わりではありませんが、このメールマガジンで頻繁に触れておりますボランティアの連中なんて、食い散らかしばかりやっている人の典型でしょ?

継続して自分で調べ上げ、ある種の「成果」を出す・・・
抑圧的な人は、そんなことができないわけ。
何回も書いていますが、ダメダメ人間は、自己逃避であって、自分自身を抑圧している。
自分が直面している現実からも逃避している。
そんな人は、自分自身なり現実から逃避しているんだから、それを踏まえた問題意識を持つことはないわけ。
その状況下において、その都度、知りたいこと、興味のあることは発生しても、それが自分の身になっていない。自分自身の切実な問題意識にはなっていないわけ。
そんな人なんだから、他者の問題意識なんてわかるわけもありませんし、もっと極端に言えば、問題意識そのものもわからない。

そんな人は、人とのやり取りにおいても「人に合わせている」だけ。あるいは、状況に合わせているだけになっている。
合わせているだけなので、そのやり取りも、自分の身になることはない。
以前に書きましたが、体験が断片化されている状態。

そんな人は、まさに断片化された体験を元に、周囲の人に質問してきたり、相談してきたりするもの。
質問された側にしてみれば、そんな質問なり相談は、聞いていてもよくわからない。
だって、確たる問題意識を持っていないような人からの質問なり相談なんて、その意図が分るわけがないでしょ?そんな人は、体験が断片化されているように、問題意識も断片化されている状態となっている。

本来なら、抑えきれないほどの強い問題意識があるからこそ、誰かに対し、質問なり相談を持ちかけてくるんじゃないの?だから質問なり相談された側としては、その言葉そのものよりも、その質問してきた人の、問題意識を見ようとするものです。「何を見て、どんな感じで考え、どんな対処をしてきて、何を達成したいのか?」その点が分ればいいわけですし、だからこそ質問の言葉自体は多少ヘタクソでも、的確な回答ができたりするものなんですよ。
しかし、その問題意識を抑圧している人だったら、たとえ言葉は整然と並んでいても、『いったい・・・この人は・・・何を知りたいんだろう?どんな事態を解決したいんだろう?』と怪訝に思うだけなんですね。

質問されたり、相談されたりして、『この人は、何を知りたいんだろう?本気で解決する気があるのかな?』と途方に暮れるので、そのことを伝えると、「絶対に解決したい!」「絶対に逃げません!」とかの強い言葉が返ってくるもの。
強い言葉が返ってきても、たとえば補足説明とか、より詳細な現状説明は返って来ない。

結局は、「とにもかくにも、今回の事案について、現状や経緯やアナタの希望を1つの文章にまとめてみてくださいな。その出来上がった文章を元にまた考えましょう。」と私から回答すると、もう2度とお便りがないもの。

以前にも書きましたが、抑圧的な人間は、「一つの案件を、一つの文章」にまとめることができないことが多い。
まあ、質問なり相談のメールが途絶えるのは、別にいいとして・・・
じゃあ、その人にとって、問題は解決されたの?解決せずのままで放置してもいいのなら、最初から質問なんてしない方がいいのでは?そんな人が言う「絶対に解決したい!」って、いったい何なのさ?

ダメダメ人間が、この私に対して求めているのは「ワタシがかわいそうな被害者だということを、アナタの文章力で説明してほしい!」そんなものなんでしょうね。
そんなことなら、ボランティアや市民団体をやっているような頭カラッポの連中のところに行けばいいのに・・・どうして、よりにもよってこの私に聞いてくるのやら?
この私は、説明能力もずば抜けているでしょうが、洞察力もずば抜けているんだから、私にはウソは通じませんよ。

「アナタの聞きたいこと、知りたいことを『一つの案件について、一つの文章』にまとめてください。」という私からの要請が、特段に厳しいものだとは思いませんが、抑圧的な人間は、相手から厳しいことを言われたら、アッサリとトンズラしてしまうもの。

そうやって、多くの相談相手を食い散らかすわけ。
相談相手も断片化されているわけです。
そうして嘆くことになる。「ああ!どうしてみんなはワタシのことを分かってくれないの?!」。しかし、そんな嘆きを言う人は、「分かってもらう」ための努力なんて何もやっていないもの。

結局は、やり取りの相手から文句を言われ、そうして、往々にして「ワタシは人の気持ちが分らない。」などと言い出すことになる。しかし、以前も書きましたが「人の気持ちが分らない」人は、まずもって「自分の気持ちが分っていない」わけ。と言うか、自分の希望なり気持ちを考えること自体を抑圧しているもの。そんな人は自分から逃避するために、やたら、他者のことを知りたがるもの。
「あの○○はどうやったの?」
「アナタの△△は、どんな経緯で?」
とかの質問を投げつけることになる。

しかし、それが自分自身の問題意識に根ざしているものではない状態で、人に聞いたり質問したりするので、聞かれた方は、ますます「なんなの?コイツ?」と思うことに。
だから、『知りたいのなら、私なりに説明しますが、アナタ自身として何をしたいがために、アナタはそれを知りたいの?』と聞くと、それこそ「別にぃ〜」とか、「ただ、何となく・・・」なる回答となってしまう。
しっかし、そんないい加減な気持ちで、人のやっていることを詮索したら、相手はどう思うのか?それについては、「人の気持ちが分からない」人でも、ちょっとでも考えれば分ることでしょ?
結局は、相手から怒られてしまい、ますます「ああ!ワタシって、人の気持ちが分らないわ!」と嘆くことになり、もっとも重要と言える自分の問題意識の不在まで目が行かないわけ。
何度も書きますが、「人の気持ち」の問題ではなく、自分の気持ちの問題なんですよ。

マトモな人間は、自分の問題の解決のために質問したり、相談を持ちかけたりするわけですが、抑圧的なダメダメ人間は、問題意識から逃避するために、質問したり相談したりするもの。

このメールマガジンの購読者の皆さんの中にも、誰かから質問されたり、相談された際に、「この人は・・・この件を聞いてきているけど、本気で知りたいのかな?」と怪訝に思ったことがある方もいらっしゃるでしょう?

その人の問題意識に根ざしているのなら、まさにその相談の物言いにおいても「手を変え、品を変え」て、とにもかくにも解決しようとするものですが、問題意識に根ざしていない質問であるがゆえに、やたら格好のいいスタイルで、余裕シャクシャクで聞いてくる。
それこそ、質問する側の人から呼びつけられて、「おお!キミキミ!何でもキミはこの分野に詳しいらしいねぇ。ワタシもその分野に関心があるから、ちょっと教えてくれたまえ!」と、ロッキングチェアーに座って葉巻をくゆらせている人から質問を受けるような趣となっている。
そんな人に対して、現実に根ざした厳しいことを言うと、まさに「ちょっと席を外す・・・」とか言い出して、帰ってこないわけ。
ギャグを書いていると思われる方も多いでしょうが、ロッキングチェアーや葉巻云々は別として、そんな態度の質問を実際に受けた方もいらっしゃるのでは?あるいは、まさに「アンナ・カレーニナ」には似たようなシーンがありました。

本来なら当事者意識があるがゆえに、問題意識があるわけですし、問題意識があるがゆえに、質問なり相談もあるのが本当の形。

しかし、抑圧的な人間は、常に現実逃避。
だから、継続して何かを調べようとはしないもの。
接する芸術作品にせよ、かかわりのある人物にせよ、相談相手にせよ、いつだって食い散らかし状態なんですね。

逆に言うと、問題意識が一貫していない人は、その対応も、その場に合わせた断片的なままでブレることになる。そんな人とのやり取りにおいては、色々な言葉が並んでも、「で、結局は、アンタとしてはどうしたいの?」が分らない。
相談の場で断片化されている人は、普段も断片化されていて、一貫性がない。
一貫性がないと言うことは、信頼と言うことと無縁と言える。対応の一貫性がない人に対して、信頼を寄せることはあり得ないでしょ?
周囲の人がその人を信頼しないがゆえに、その人の周囲にはトラブルが多発することになる。

しかし、一貫性がない人は、つまり常に断片的な人は、信頼そのものが理解できないがゆえに、トラブルの背景に「信頼の不在」があることが理解できない。
と言うことで、やっぱり周囲に対して断片的に絡み、やっぱり怒られる。
自分自身から逃避している人が一貫した対応ができるわけがないでしょ?
逆に言うと、だからこそ、トラブルや問題が継続していくんですね。

(終了)
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発信後記

今週は、この問題意識の問題について集中的に配信する予定にしております。
ダメダメ人間は、当事者意識がないので、自分自身で問題を解決する発想がない。
それに抑圧的であるがゆえに、自分自身の現状から目を背ける。
そうなると、自分自身の身になった問題意識を持ちようがない。

問題意識を持っていないこと、当人が問題に直面していないこととは、まったく別。別というか、現実的には、まったく逆。
問題を語れないがゆえに、まさにトラブルになって、後になって「どうしてこんなことに?!」と大騒ぎ。
そんなシーンを実際にごらんになった方も多いでしょ?
R.10/12/19