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カテゴリー ダメダメ家庭の見分け方、考え方
配信日 09年5月13日 (10年8月21日 記述を追加)
タイトル ピンと来ない
個人的なことになりますが、以前にスペインに旅行した時に、お腹が空いたので、レストランというか・・・いかにも庶民的な食堂に入りました。メニューが出てきたのですが、書いてあるスペイン語なんて、私には全然わからない。
ただ、そのメニューをちょっと見ていると、メニューの上の方に「Plato Combinato A」なるものがありました。
「Plato Combinato A」・・・って・・・英語にすると「コンビネーション プレート A」だから・・・組み合わさった料理だから・・・おお!A定食のことか?!

と言うことで、その「Plato Combinato A」を頼んだら、いかにもそれらしいものが出てきました。大きな楕円形のお皿に、チョコチョコと料理が乗っているもの。あと、スープも付いていたなぁ・・・
ああ!A定食は、どこの国でも、こんなものなんだなぁ・・・

スペイン語がわからなくても、日本でA定食になじみがあれば、なんとなく見当が付いたりするもの。逆に言うと、日本でA定食とは縁がない人だったら、たとえスペイン語がわかっても、「Plato Combinato A」と、「いかにもな」A定食は結びつかないんじゃないの?

同じようなことは別の国で感じたことがあります。
オペラを見るために劇場に出かけました。事前にティケットを取っていなかったのですが、劇場の前に行くと「ティケットを売ります。」なんて人もいたりする。
この手の人には、プロのダフ屋さんもいれば、たまたま都合が悪くなって行けなくなったので、とにかく処分したい・・・そんな人のケースもいたりするもの。
私としては、そんな人の中から定価でティケットを購入して、オペラを見ることができました。

その話を知人にすると、「へぇ・・・よく外国でそんなことができるねぇ・・・」なんて言われたのですが、そのような光景は日本でもあるんですね。劇場前でプロのダフ屋さんがいたり、都合が悪くなって行けなくなって、慌てて処分する素人さんのケースもある。日本でのやり取りの経験があれば、外国でもピンと来たりするものなんですよ。

逆に言うと、日本で何も知らないことは外国でできるわけもないわけ。
外国に行った時だけ、オペラに行ったり美術館に行ったりすると、ドジをさらすことになったりするもの。身近な現実をちゃんと見ないと、身近ではない状況についても判断もできないわけ。

何もこのメールマガジンで旅行体験を書くつもりはありませんヨ。
むしろ、このメールマガジンの文章を受けての判断について考えてみたいと思っているわけ。

日本で「A定食」になじみがあれば、スペインで「Plato Combinato A」も見当が付く。
日本で、劇場前でティケットのやり取りをした経験があれば、別の国でも見当が付く。
ダメダメ家庭の問題も、まったく同じ。

自分の家庭について、真摯に見つめ考えていれば、この文章の意味なり視点なりも、見えて来ることになる。
何も購読者さんご自身の家庭がダメダメ家庭ではなくても、このご時勢だったら、周囲には必ずダメダメ家庭の方がいらっしゃいますよ。そんな人とのやり取りについて考える際に、このメールマガジンの記述が役に立つ・・・それでいいのでは?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、自己逃避である。
自分自身の家庭を見つめ、考えることから逃避しているわけ。
考えることから逃避しているんだから、何も不都合なことは見えないことになり、ある意味において、「まったく問題のない」理想的な家庭と言えてしまう。

そんな「自称理想家庭」の一員が、何を血迷ったか、このメールマガジンを読んでしまって、思うことは、「で、この文章は正しいの?」

ダメダメ家庭の人間が「正しさ」にこだわることは以前に配信しております。
あるいは、このメールマガジンで以前に取り上げた、魯迅の「狂人日記」にも、そんな記述が出てきました。
「あくまで問い詰めた、正しいのか?」と・・・なる記述があります。
ダメダメな人間は、自己逃避であるがゆえに、自分では考えずに権威筋の認定を求めるわけ。

私としては、ダメダメ家庭の問題を考えるに際し、有用であればそれでいいという考えです。医学で言うと、より臨床に近い発想なんですよ。正しさがそんなに必要なら、たとえば「フロイトの精神分析は、フロイトの時代には正しいと権威筋から評価されたのか?」そのような指摘も可能でしょ?
フロイトの『後の』時代だからこそ、フロイトの考えが「正しい」と言えなくもないわけですが、フロイトの考え方は、フロイトの時代では「正しい」も何もありませんよ。むしろ「役に立つ」とか「示唆的」くらいでしょ?

「オマエのメールマガジンの文章は正しいのか?」なんて聞かれても、回答としては、そんな感じになってしまいますよ。まあ、相手が冷静な人なら、フロイトの例を挙げて説明することも可能ですが、「正しいのか?どうか?」なんて言ってくる人は、逆上している人と重なるもの。冷静なやり取りなんてできない人なんだから、説明のしようもありませんよ。

こちらが、「では、アナタ自身の家庭はどうなっているの?何も問題ないの?」「このメールマガジンの視点を取り入れると、ご自身の問題に対して理解が進むことはないの?」などと聞こうものなら、「ウチはすばらしい家庭だ!どうしてそんなことを聞くんだ?!」とより一層逆上されるだけ。

そんな反応をする人なんだし・・・
そんなコミュニケーションのスタイルなんだから・・・
・・・まあ・・・たぶん・・・「す・ば・ら・し・い」家庭なんでしょうねぇ・・・

このメールマガジンの文章は、ご自身で目の前の問題を見つめることを、そのコンセプトにしています。だからこそ自己逃避の人間には厳しい内容なんでしょう。
「自分の目の前の状態をしっかり見なさいな!」と言われたら、現実では、逆上する人も多いものなんですよ。

不幸にも実際にダメダメ家庭で育ってしまったり、あるいは実際にそんな人とのやり取りで困った経験がある方は、このメールマガジンの文章を読んで「ああ!言葉にはうまくできなかったけど、あの時に感じた気持ちは、こんなことだったなぁ。」とか「あの時、あの人とのやり取りは、まさにこんな感じだった・・・」そのようにピンと来たりすることもあるでしょ?

そのような事態を理解するのに、このメールマガジンの文章が役に立てばそれでいいんじゃないの?
とは言え、自己逃避の人間は、「見なくて済む」「考えなくても済む」ことにつながる言葉を求めるもの。

だからこそ、ますます事態が悪化して、ますます「見ない」ための文章を求めることになる。
そうやって、子供が自分の困りごとを自分に対して『言わせない』ための言葉を求め、困っている子供を放っておいて「ワタシはこんなに一生懸命やっているのに?!」「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、いつもの境地。

何もダメダメ家庭の問題に限らず、身近な現実をしっかり見つめ、問題意識を持って考えていない人は、何ごともピンと来たりすることはないものなんですね。
それこそ、問題意識を持っていたからこそ、アルキメデスはお風呂でひらめいたわけでしょ?

自己逃避になると、身近な現実から逃避して、逃避につながる言葉を求め、ますます逃避して、ますます事態が悪化して、ますます逃避する。
そのような人は、何事も「ああ!あのことだ!」「まさに、これだ!」なんてピンと来る瞬間がないもの。
逆に言うと、その瞬間がない人は、「ウチはうまく行っている!」と言っていても、現実はダメダメ家庭となっているものなんですよ。
問題意識があるからこそ、ピンとくるわけですし、問題意識のない人は、何事も他人事なものでしょ?

自分の目の前の問題が見えている人は、遠くの問題も見えることになる。
「アンタ・・・どうして、そんなことがわかるの?」と人から言われる人は、他人の問題が見えているのではなく、目の前の自分の問題が見えている人。
人のやることは、いつだって、どこだって変わらない。

人の感情も、認識のスタイルも、行動のスタイルも、それこそ聖書の時代から全然変わっていないでしょ?だからこそ、自分自身が見えていれば、そんな大昔の本を読んでも、ピンと来て、実感を伴って理解できることになる。そうやって、「引き出し」が増えていくわけ。

逆に言うと、自分の問題を理解していない人は、芸術作品を「説明」「解説」する際にもトンチンカンだったりするもの。

有名な作曲家バッハの作品に「マタイ受難曲」という作品があります。マタイによる福音書を元にキリストの受難を描いた作品です。以前に日本の指揮者の小澤征爾さんが、その曲を指揮していたことがあります。ちなみに、その小澤さんは、若い頃に日本の音楽家からつるし上げを食らって日本の音楽界から追放された人です。逆に言うと、だからこそ小澤さんはキリストを磔にする状況がよくわかることになる。小澤さんは、オネゲルという作曲家の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」という曲も、演奏したりしていますが、まあ、同じ理由でしょうね。

小澤さんにしてみれば、日本の音楽家からつるし上げを食らって、追放されたからこそ、よく見える状況なり心理があるんでしょう。「ああ!このシーンって、あの時と同じじゃん?!」そんな感じでピンと来たりできるでしょうね。
小澤さんにしてみれば、実感を込めて演奏することができますが、追放した側の人も、その「マタイ受難曲」を演奏したりする。ホント、シュールなギャグそのものですよ。

閑話休題・・・
自分の目の前の問題をしっかり認識していれば、別の分野での問題も実感を持って理解できて、色々と引き出しは増えていくもの。
逆に言うと、引き出しが全然増えない人は、好奇心や教養がないというよりも、自分の目の前の問題から逃避している人なんですね。

自分自身の体験や認識が先になければ、他者の考えも実感を持って理解できないもの。しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、自分自身の感情を抑圧しているので、他者の見解も、実感として理解できずに、言葉だけの理解になってしまう。
まあ、キリストさんが、「ヤツラは言葉は聞くけど、中身なんてわかっていない。」とグチりたくなるものよくわかりますよ。

ちなみに、指揮者の小澤さんは、受難ということについては、幸か不幸か実感できたわけですが、音楽の演奏家は、創作する人間、つまり作曲家の発想は実感として理解できないようです。クラシックの演奏家による曲目解説は、失笑するレヴェルことが多いもの。あるいは、音楽だけでなく文章の分野だと翻訳家による解説も失笑するレヴェルのことが多い。創作する人の気持ちがわからないからこそ、演奏家や翻訳家になっているんだから、それはしょうがないわけですが。

芸術作品に接しても、目の前の現実を見ない人が、創作者の問題意識がわかるわけがない。
だからそんな人は、問答無用の「べき論」で、その作品を受け取ってしまう。あるいは「○○主義」とか「△△論」とかのご高説でわかった気になってしまう。
しかし、創作する人は、そんなことを意図していないもの。
それこそ、「目の前の現実をちゃんと見ましょうよ!」と言っているだけのことも多いものなんですよ。
もちろん、それがいかに難しいことなのかがわかっているからこそ創作するし、創作する人になるわけ。以前に言及した詩人のリルケにも「まず『見ること』から始めるつもりだ。」という言葉もありました。つまりリルケは見ることが難しいことがわかっているわけ。
あるいは、キリストが言う「汝の隣人を愛せよ。」も同じ。目の前の隣人を見ることの難しさ・・・それがわからない人が、何を言っても、インパクトがありませんよ。

ところがボンクラな人ほど、「見ること」の難しさがわかっていない。だから自分は見えていると思ってしまっている。そして、「実際は自分は見えていない」ことから目を背けるために、ボランティアなどで他人の問題に首を突っ込むようになる。

しかし、そんな姿は、やっぱりキリストの時代にも存在していたわけです。
今の時代がよくわかれば、昔のこともよくわかるもの。
キリストの嘆きも、やっぱり今の時代とまったく同じなんですね。
それをボンクラな宗教関係者が、ヘンテコな解説をするから判りにくいだけ。
とは言え、そんなヘンテコな解説のシーンも、もう既に聖書に書いてあったりするものなんですよ。

ホント、聖書を読んでいると、ピンと来る言葉がいっぱいありますよ。
「聖書の偉大な言葉を学ぶ」なんて言っている人は、実は聖書の言葉などはわかってはいないもの。
21世紀の現実を直視していれば「イヤぁ〜、イエスさんも、今とまったく同じ苦労をしてるじゃないの?彼も、タイヘンだなぁ・・・」そんな感想を持ったりするものですよ。

そんなピンと来る瞬間がない・・・それは、その人の現状認識能力の欠如や、問題意識の欠如とつながっているもの。
現実から逃避し、それゆえに問題意識や危機意識を持っていないので、日頃は余裕を持って生きている。しかし、危機意識がないがゆえに、実際にトラブルになりやすいのは、当然の論理。
そして、実際にトラブルになってしまったら、するのは犯人探し。
「あの○○のせいで、こうなってしまったんだ!」
「全部、あの○○が悪いんだ!」
ああ!なんと歴史的なまでにお約束のシーンだろう!!

問題意識については、芸術表現の分野だったら、単に感性の面で鈍感なパターンの場合もありますが、心理的な抑圧の場合もあるわけです。そんな人から上手に距離を取らないと、まさにイエスさんやジャンヌ・ダルクさんのような最後になってしまうことを、歴史が証明しているでしょ?

(終了)
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発信後記

問題意識があるからこそ、説明されてピンと来るわけです。
逆に言えば、どんな説明に対しても、ピンと来ることがない人は、もともとの問題意識が不在なんですね。

人から質問されて、私なりの説明をする際にも、その説明に対してどんな反応だったのか?
そんな点から色々と見えてきたりするもの。
何も私の説明に対して、同意する必要はないわけですが、反応の鋭さから見えるものなんですよ。

抑圧的な人は、問題意識がないので、どんな説明に対しても、状態が変わらない。
相変わらずのボンヤリだったり、そもそも説明を受け付けないほどに、最初から逆上していたりするもの。

何もダメダメの問題に限らず、もし皆様が最近になって「おお!これこれ!」とピンと来るような瞬間がなかったのなら、ちょっとご自身を見つめなおさないとね。

ちなみに、本文中で指揮者の小澤さんについて言及いたしましたが、別の小沢さんも追放?のようですね。
指揮者の小澤さんは、性急な改革路線が、音楽関係者からの反発を食らったようですが、政治の小沢さんは・・・いったい彼自身は何をしたかったのだろう?
献金云々よりも、それ以前に、政治家として何をしたいのか?国民に直接メッセージを伝えることが出来なかった・・・そっちが問題なんでしょうね。
この小沢さんの問題については、できればそのうちにまとめてみたいと思っています。
彼には、ダメダメの要素がテンコ盛なんですよ。
R.10/8/21