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カテゴリー | ダメダメ家庭はいつも否定形 |
配信日 | 09年5月25日 (10年5月12日,11年2月12日 記述追加) |
タイトル | 反論しなきゃ! |
他人の文章・・・なかんずく、このメールマガジンの文章を読んだら気に入らないことが書いてある。 「これは・・・ひとつ・・・反論しなきゃ!」 そう思うのは、別にいいでしょう。 じゃあ、その「反論しなきゃ!」って、もっと詳細に考えると、どんな感情なの? 「反論しなきゃ!」の「しなきゃ」は、「しなければいけない」という意味だから、いわば必要性の認識ですよね? 必要性と言っても、色々ある。 それこそ、反論する「使命」がある、あるいは、反論をする「責務」がある・・・そんな崇高なものの場合もあるでしょう。その使命を自覚して、行動に移す・・・そんな反論のケースも、論理的には、存在するはず。自らの目標達成のための、いわば肯定形のスタイルの反論です。 あるいは、そのような崇高な使命感とは逆の方向で、「反論しておかないと・・・色々と・・・マズイ事態になってしまって、なんとなく困ってしまう・・・」それくらいの「とりあえず」に近い感覚の場合もある、別の言い方をすると二重否定的なスタイルの場合もあるでしょう。 あるいは、「反論しなきゃ!」の「反論」は具体的にどんなものなの? 「自分の持っている見解と相反する見解に接した。だから、その人を説得するんだ!」 反論というものは、基本的には、そんなパターンでしょう。 しかし、説得と言っても、やっぱり色々とある。 相手の考えと相反している自分自身の考えを、相手に対して丁寧に説明するパターンもあれば、ひたすら相手の「あら探し」をして「揚げ足取り」をするパターンも現実としてありますよね? 「反論しなきゃ!」という言葉でも、その中の「反論」や「しなきゃ」を、緻密に見てみると、様々なヴァリエーションが見えてくるもの。 何もこのメールマガジンに対してだけではありません。自分と相反する見解を持つ人に対し、「自分の考え」を説明する・・・そんなシチュエーションは現実にあるもの。 相手に対して、ただ単に、自分の現状なり、それを理解する視点なり、それを踏まえた自分の考え方、そして、その有用性を提示しても、本来は、相手を説得することにはならない。 そのようなスタイルで当人の考えを明確に表現した文章を読んでも「ふーん・・・この人は、こんな状況から、こんなことを考えているんだねぇ・・・」と思うだけ。 しかし、説得はされなくても、別の言い方をすると同意や合意はしなくても、示唆的ではあるでしょ?だって、その「反論」から、視点も広がったわけですからね。だからこそ、そんな説明に対し「なるほど!こんな考えもあるんだね!」、そして、そんな反論をした人を、「この人・・・なかなかやるモンだわい!」と敬意を持ったりすることもある。 しかし、ダメダメ家庭の人間がやる反論は、議論や思考を引き出すような、そんな示唆的で知的なものではない。まさに、相手を「押さえつける」が如く、強い口調の言葉を並べ、そしてやることは「あら探し」や「揚げ足取り」。 こうなると、説得どころではないでしょ?あるいは、合意に至るどころではないでしょ? そんな反論に接すると、その見解に合意するという肯定形で受け取るというよりも、「逆らったら怖い」という二重否定のスタイルで受け取ることになる。説得というよりも、いわば支配というか征服に近くなってしまう。そんな反論は、合意を志向しているというよりも、相手を黙らせることに志向が向いているといえるでしょう。 そもそも必要以上に強い言葉を使うということは、それだけ、文章自体に力がないということ。論旨がメチャクチャだからこそ、強い言葉を使わざるを得なくなっている。 どうして、そんなことをするの?読んだ文章が気に入らないのはいいとして、じゃあ、「自分自身はそのマターについてどう考えるの?」そっちの方が重要なのでは? しかし、ダメダメ家庭の人間は、まさに「アイツに反論しなきゃ!」などと言い出し、「強い言葉」の文章をぶつけてくるものなんですよ。 ダメダメ人間においては、その「反論しなきゃ!」における「しなきゃ」が、ある種の恐怖に由来している。ダメダメ人間は、自己逃避で抑圧的である。だから、自分自身で直面している現状を見るのが怖い。そして自分自身で考えることが怖い。 日頃からそんな恐怖心を持っているので、「アンタ自身はどうなっているの?」「アンタはどう考えるの?」などと言われてしまうと、パニックになってしまう。 だからこそ、自分への言葉や、自分なりの言葉から必死で逃げようとする。 「自分はアイツの言葉に納得したわけではないんだ!」→「アイツの指摘は不適切なものだ!」→「だから、ここで、アイツに反論しなきゃ!」となる。 いわば「このヤロー!覚えてろよ!」と、相手に投げつける「捨てセリフ」に近い。 自己逃避としての反論なので、自分自身の現状なり視点を、相手に提示できないのは当然のこと。相手への反論と言っても、相手の言葉を「聞かないため」「読まないため」の行為なので、相手を説得というよりも、相手を征服するスタイルに近くなるのも当然のこと。 「とにもかくにも、アイツの言葉から解放されたい!」 「反論しなきゃ!」という言葉が意味するものは、「逃げなきゃ!」という心理とほとんど同じなんですね。 抑圧的な人間にしてみれば、実際に切実な問題なんでしょうね。 しかし、そんな自己逃避に由来する「反論」を受けても、見えてくるのは、その人の抑圧的なキャラクターだけ。そもそも文章自体の論旨がメチャクチャなので、文章だって最後まで読めたものじゃない。 「オマエが気に入らない!」 「ワタシは、うまく行っているんだ!」 「ワタシたちは天国にいるように幸せだ!」と、どこかの国の人のように、顔を真っ赤にして主張するだけ。 しかし、逆に言うと、その手の抑圧的なキャラクターは、まさに「反論しなきゃ!」などと大義名分を掲げ、様々なものに反論したりする。 そして、反論した相手から、更なる反論が得られると、それに対して、さらに反論するようになる。 以前に書いた「反論が反論を呼ぶ」状態に持ち込みたがる。 だって、そんな「反論が反論を呼ぶ」状態になったら、最初の問題はどこかに行ってしまっているでしょ?それに自分自身の問題も、どこかに行ってしまっている。 ちょっとしたあら探しの応酬になるだけ。しかし、だからこそ自分にとってのシヴィアーな問題には行かないで済む。 それにダメダメ人間にしてみれば、「反論している自分」というのは、心地がいい。 被害者意識が強いダメダメ人間は、スグに自分の被害感情が刺激され、何かに対抗する状態になってしまう。そして対抗する行為によって、「自分はかわいそうな被害者なんだ!」と自分自身で確認する儀式としている。 つまり、反論できる状態を、内心では心待ちにしている。だからこそ、反論できるネタはないかと探している。まさに「故意のあら探し」をしている状態。 クレーマーとか市民運動とかの人々って、まさにそんなパターンでしょ? ダメダメ家庭の人間は、やり取りにおいて相互理解には到達しない。 そもそも、自分から逃避しているんだから、相互理解も何もありませんよ。まず何よりも自分自身が分っていないんですからね。本来は、お互いの見解が相違していても、その点を理解し、そこから今後の判断としていけばいいわけでしょ? しかし、判断それ自体から逃避しているダメダメ人間は、そんなこととは無縁。 だから、相互理解につながらないやり取りをしたがり、相手を征服しようとする。説得ではなく、征服を志向しているからこそ、その物言いも、説得には有効なものは使わない。 「反論しなきゃ!」なんて言い出す人は、どうして「反論しなきゃ!」なのかは、「それなりに」言ったりするものですが、その「反論」自体の論旨は、メチャクチャ。 しかし、説得でも説明でも解説でもなく、征服なんだから、そんなものでもよくなってしまう。 相手に対して説明する場合には、相手を見るよりも、自分自身を見る必要があるものです。「何を中心に説明するのか?」「どんな論旨で説明するのか?」「どんな点を一番分ってほしいのか?」そんな観点は、まずは自分自身の問題ですよ。 それに対し、相手を征服しようとする場合には、自分よりも、相手を見ることになる。だって相手が黙ればいいだけなんですからね。 逆に言えば、その「反論」の文章自体から、その反論してきた人が、説明する人なのか?征服する人なのか?が見えてくる。 自己逃避に由来した反論は、自己逃避であるがゆえに、「何に対して反論するのか?」という点が、結果的にどうでもよくなってしまう。相手を凝視することで、相手の考えについて考えなくなる。とにもかくにも反論したい。要は反論することで、自己逃避したいだけ。 自分自身を見つめることから、スグにでも逃げ出したい! 自己逃避だから、逆に言うと、そんな自分の弱さを認めることからも逃避する。 そんな心の弱い状態の人が、言ったりするのが「反論しなきゃ!」という言葉。 それって、結局は、自分は反論以外は何も出来ない人なんだと言っていることと同じなんですよ。 自分の考えを否定されたら、確かに反論したくなるのが人間の自然な姿でしょう。 ただ、その「自分の考え」と言っても、色々なパターンがある。 好意を持つものなの? 敬意を持つものなの? 信じているものなの? いつも参照しているものなの? あるいは、依存しているものなの? 入れ込んでいるものなの? もし、自分が敬意を持っているものを、誰かから否定的に言われたら、もちろんのこといい気はしないもの。 しかし、そんなことを言い出した人に対して、過激な反論をしても、意味ないでしょ? そもそも発想の根本が違っている人とやり取りをしても、何も得るものはありませんし、合意に至ることもないでしょう。 そのような人からは距離を置くのが、自分が敬意を持っているものを大切に扱うというとじゃないの? 逆に言うと、声を大にして「これはスバラシイんだから、とにもかくにも、これを信じなさい!信じないと、とんでもないことになるぞ!」なんてスタイルの反論をするようだったら、「その考え」とやらも、大したものではないことが推測できるでしょ? 過激な反論は、「見たくない」「聞きたくない」という心理につながっているわけです。 逆にいうと、それだけ自分の考えに自信がないわけです。 自分なりに考えた上で、その対象を尊重したり、敬意を持っているのではなく、その考えに依存しているだけなんですね。 たとえば、キリストを否定されたら、一般的なクリスチャンとしてはいい気がしないでしょうが、そんなことを言い出す人間は放っておけばいいだけでしょ? あえて、そんな人間を襲撃したら、それは信仰心の問題ではなく、いわば依存という心理状態であることが見えてくる。 あるいは、過激な反論は、人から悪く思われたくないという心理につながっていて、それだけ他者の判断に依存しているわけです。 だから「自分が悪く思われていること」を見ないようにしたり、「自分を悪く思っている」人を攻撃したりする。 つまり、「ワタシを悪く思っている側が悪い。」という理屈になっている。 人のやっていることにケチをつけるよりも、もっと立派な見解を分りやすい形で提示すればいいだけなのに、自己逃避で抑圧的であるがゆえに、それができない。 「反論しなきゃ!」という言葉が意識的に出て来るということは、それだけ自己逃避状態ということ。つまり、「反論対象」を凝視することで、自己逃避してしまっている状態となっている。本質的には自己逃避なので、「反論」でなくても、自分以外のものを凝視することで、自己逃避するパターンは多い。 それこそ、いわば強迫的に、「コメントしなきゃ!」なんて気分になっている人も現実的にいるでしょ? インターネットのニュースサイトに閲覧者のコメントがあったりしますが、「どうしてそんなにコメントしたがるのか?」その点から見えてくるものなんですね。 ニュースに対して、必死にコメントしているということは、それだけ自分自身を見なくて済んでいるということ。 自分自身から逃避しているので、「伝えたい」「分って欲しい」という思いはなく、「とにもかくにも何かを言いたい。」「何かコメントしておかないとマズイ。」という心理になっている。「分って欲しい」という意識がまるでないので、コメントの文言も単にヘタクソという問題ではなく、感想どまりになっている。 そんな感想どまりのコメントは、自分の感想を伝えたいのではなく、感想を伝える行為によって、自分自身から逃避しようとしているんですね。 自分にとって、どうでもいいニュースに対して、断片的な感情を書きつづることによって、自分自身にとっての切実な問題から逃避してしまう。 そんなコメントは、「で、結局は、アンタ自身としては、何をしたいの?」という問題からの逃避と見ると、理解しやすいでしょ? 逃避だからこそ、「コメントしなきゃ!」「反論しなきゃ!」という強迫的な色彩になってしまうわけです。 反論というものは、いわば宗教における祈りの姿のようなもの。 自分自身を見つめ、自分自身と真摯に対話して、静かに祈っていれば、たとえその教理には同意できなくても、その祈りの姿がポジティヴな印象となって、周囲の人に伝わり、その宗教に対し関心を持つこともある。 しかし、相手を説き伏せようとする言葉は、聞いていても実に鬱陶しいもので、その宗教に対してネガティヴな印象しか与えない。 強い口調の反論であるがゆえに、他者に通じないし、 布教活動であるがゆえに、相手は受け付けない。 相手を見た反論によって失うものも多い。得るものと言えば「ワタシは悪くない!」という勝手な自己確認だけ。 しかし、抑圧的な人は、自己逃避であるがゆえに、他者の言葉を受け入れることができず、過激な反論になってしまうものなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 今週は、ダメダメ家庭の人間が行う過激な反応なり反論について、集中的に配信いたします。そんな過激な反応の基本的な心理は、「見たくない」「考えたくない」というもの。 そのような事例は、トルストイが描く「アンナ・カレーニナ」がその典型と言えますが、ダメダメの領域では実にポピュラーなものなんですよ。 ちなみに、例の中央大学の教授殺害の犯人の青年についてですが、このメールマガジンの記述を理解されていれば、簡単に理解できるでしょ? 前にも書きましたが、あの手の事件の犯人は、殺害相手が憎いから、殺害するのではないわけ。 残虐な殺害行為をすることで、あるいは、その計画を練ることで、「自分はあの人を憎んでいる。」「悪いのは全部、この人のせいだ!」と自分に確認しているわけです。 そうして、もっとも根源的な不満から目をそらすわけ。 あの犯人は、ご両親がすでにお亡くなりになっているとのことですが、どうも兄弟仲は悪そうでしょ?もし、マトモな親だったら、子供はあんな感じにはならないでしょうし、困った時には、兄弟でそれなりにサポートしますよ。 警察も「どのような動機で・・・」「教授の何が憎かったのか?」なんて調査しているのかもしれませんが、ダメダメの領域では「自分はこの人を憎んでいると思いたい。」がゆえに殺害したわけ。 だからこその、必要以上の残虐さになっているわけです。 殺害事件くらいなら、もうどうしようもありませんが、今回の文章で言及いたしましたが、必要以上の強い言葉で反論が返ってくるケースも、あの中央大学の事件と、心理的にはつながっているわけ。相手を見ることによって、自己逃避しているわけです。まあ、レヴェルが違うというだけ。逆に言うと、そんな必要以上の強い言葉による反論を受けたら、サッサと避難しないと、マジに危ないわけです。 |
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R.11/2/12 |