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カテゴリー 作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 09年6月5日
取り上げた作品 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ
監督 セルジオ・レオーネ
ダメダメ家庭出身者にとっては、芸能界のような表現に関わる分野が向いている・・・
このことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
そもそもダメダメ家庭の中で親から認められず自分を抑えていたので、そんな家庭の子供は、その反動として、「自分を表現したい!」と強い思いを持つことになる。それに、ダメダメ家庭それ自体が、ネタの宝庫とも言えるもの。
「ふつうでない」と言うか、マージナルと言うか、ヘンテコな人間の巣窟ですからね。だから表現するものをいっぱい見て知っている・・・それがダメダメ家庭出身者。

表現したいという熱望を持ち、これを表現したいというネタも持っている。おまけに、ダメダメ家庭の人間は意外に容姿端麗な人が多いことも、頻繁に書いています。
それだけ親が会話不全で、容姿の面だけで結婚したわけ。
それに何かあっても親を頼れない状態なので、子供は自分の力で全部の問題を解決する必要がある。だからダメダメ家庭の子供は「鉄の意志」を持ったりするもの。

そんな要素があるので、まさに芸能人が誕生することになってしまう。
芸能人になれる要素があるというよりも、芸能人にしかなれないわけ。
かと言って、ダメダメ家庭出身の人間のすべてが芸能人になれるわけもない。

容姿端麗な人が多いダメダメ家庭の人間でも、すべての人が容姿端麗とは行かない。
あるいは、すべての人に表現力があるわけでもない。
そもそもダメダメな親が子供に言うのは「ふつうになれ!」というもの。そんな言葉を親から言われ続けたんだから、とても「ふつう」とはいえない職業である芸能人を目指すこと、それ自体が難しい。

親からの要求があるので、「ワタシもふつうにならなきゃ!」と考え、結局はなれなくて、犯罪者になってしまったりする。
本来は、「ふつうになる」ためには、「それにフィットした才能なり境遇」が前提になっているもの。「ふつうの境遇」にいて「ふつうの常識」「ふつうの考え方」「ふつうの体験」が身に付いているからこそ、「ふつうの人間」になれるわけでしょ?「ふつうの人間になるための才能」や前提条件は、「ふつうの人間」にとっては、目立つことはないだけで、実際には厳として存在しているわけ。目立たないことと、存在しないことは、まったく別物でしょ?そして、その「ふつうになるための」才能なり境遇は、子供の努力では得ることは無理。
「ふつうの境遇」にいる「ふつうの子供」が「ふつうの大人」になるための努力と、ダメダメな環境の中で、ダメダメ家庭の才能を持っている子供が、「ふつうの人間」になるための努力は、まったく別物なんですね。
ヘンテコな環境の中で「ふつうになろう!」と思っているので、ますます「ふつう」から遠くなってしまう。

結果的に芸能人や芸術家になっても、あるいは、ドロップアウトして犯罪者になっても、その基本となっているメンタリティーは、意外にも似ていたりするもの。双方とも、背景となっているダメダメ家庭の発想のスタイルを色濃く残しているわけ。だから芸能界とギャングの方々は結びつきやすく、現実においても、そんな結びつきがスキャンダルになったりするでしょ?

あるいは、映画などでギャングの方々を主人公とする作品などもあったりしますが、その手の作品は、ギャングの方々を描くことによって、ギャングと似たメンタリティーを持っている「作品の作り手」・・・つまり創作者としての自分自身を描いていたりする例もあるわけ。
ギャング映画だったら、その主人公のギャングの生き様を描くことで、映画監督の自画像にしている例もあるわけです。

あるいは、ギャングの方々と芸能人のやり取りが出てくる作品は、その作品中のやり取り以上に、その背景となっているダメダメ家庭の問題が、間接的に描かれている場合が多いんですね。

・・・と長い前置きでしたが・・・

今回取り上げる作品は、イタリアのセルジオ・レオーネ監督の84年の映画作品「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。ほぼ4時間の長大な映画です。ただ、長い割には、セリフが実に少ない作品。
このレオーネ監督は、いわゆるマカロニ・ウェスタンの監督です。イタリア人が作った西部劇をマカロニ・ウェスタンと言いますよね?そして、この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」という映画は、彼の最後の作品です。

禁酒法時代のアメリカを背景に、ユダヤ系のマフィアの青年たちの行動を描いた作品。それを35年後から見つめる・・・そんなスタイルになっています。少年時代や青年時代、そして老年時代・・・そんな3つの時代を描いています。

84年制作の作品ですが、舞台設定は、68年頃の主人公の老人時代からの視点なんですね。老人となった後になって、青年時代の禁酒法があった当時の大暴れの日々を回想しているわけ。
ドラマの主人公が老人になってしまったのと同時に、監督のレオーネも老人になってしまっている。現役バリバリでマカロニ・ウェスタンを作っていた時代から年月も経ている。

さて、この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は彼の最後の作品です。いわば、彼にとっての「白鳥の歌」。
その最後の作品の最後の場面は、主人公がアヘン窟でラリって、いわばトリップしてハイになって笑顔になって終わる。
まあ、「夢の世界へ!」という意味であることは誰でもわかること。

しかし、最後の作品の最後のシーンの意味が、単純に「夢の世界へ!」というだけではないのでは?と、私は釈然としない思いがずっと残っていました。
そもそもこの私は映画などの作品を読み解くことにかけては、偏差値80くらいはあるでしょう。謙譲して偏差値70くらいと言ったら、逆に、他の方に対して失礼ですよ。
そんな私が釈然としないんだから、何かレオーネなりの意味があるんだろうなぁ・・・そのように思っていました。重要なシーンには、ある種の匂いのようなものがあるもの。そんな匂いのあるシーンは一筋縄の意味ではないことが通例。

その最後のシーンの笑顔の意味がこの私にもわかったのは、この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の前に制作された68年制作の「ウェスタン」(原題はOnce upon a time in West )を見たことと、そして、この私自身が歳を取ったこと・・・その2つがあるわけです。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の最後のシーンで主人公がヴェールの向こうでニコっと笑う表情は、いわば、監督のレオーネの臨終の顔なんだな!レオーネは自分の臨終の顔を、自分の最後の作品の締めに持って来たんだなぁ・・・と、わかったわけです。
たまたま最後の作品になったのではなく、まさに辞世の作品なんですね。

この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」では名優ロバート・デ・ニーロ演じる主人公のヌードルスと、その少年時代からの友人であるマックス。そしてヌードルスが少年時代から好きだった幼馴染のデボラという女性・・・その3人が主な登場人物です。デボラは長じて名女優になったという設定。まさに芸能界にいる人。
ヌードルスとマックスは、少年時代から悪事をやってきて、禁酒法時代には、酒の販売などの稼業で儲けているギャング仲間。双方とも実にアタマが切れる。そしてヌードルスは子供時代からデボラに恋している。デボラも、ヌードルスも、ある種の芸事や芸術に対する鋭い感性がある。デボラとマックスはお互いは仲が悪いけど、双方とも、自己否定的で強迫的な向上心や野心を持っている。微妙な関係の3人であるわけ。

まさに、ギャングと芸能人の関わりが発生しているわけです。
映画の解説などには、禁酒法時代のギャングの激動の日々・・・なんて言葉があったりしますが、そこをドラマの舞台としていても、それが作品のテーマではないわけ。
ギャングや芸能人に「ならざるを得なかった」メンタリティー、そして、そのメンタリティーを持ったものの心理や行動の積み重ね・・・それがテーマなんですね。
もちろん、それは、映画作家としてのセルジオ・レオーネ自身が反映しているんでしょう。
レオーネも、表現への強迫的な意思をもって映画製作をするとともに、愛を求め、映画制作の場そのものを愛しむ人と言えるんでしょう。

レオーネにとっての前作の「ウェスタン」(Once upon a time in West )の「West」が映画表現の「開拓の地」という意味をはらんでいたように、今回の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のアメリカは、開拓の悪戦苦闘のちょっと後の時代・・・そんな意味をはらんでいるわけ。いずれにせよ、映画表現や創作の場そのものが、テーマとなっているわけです。

ここで面白いのは、女の子のデボラです。映画では子供時代をジェニファー・コネリーが演じています。彼女は、小さい頃から女優志望。そして、カフェテリアをやっている家の手伝いもせずに、練習に明け暮れている。
そして、長じて有名な女優になった後では、実家に寄り付かないし、実家のお店を援助したりもしない。いわゆる没交渉状態。

そんな姿勢は、一般的な観点からは、非難されたりするものですよね?
しかし、その冷徹さや鉄の意志があるがゆえに、女優として大成した・・・そうとも言えるわけ。自分の出身家庭への嫌悪感があるがゆえに、血みどろの努力もできる。
「あんな風には、死んでもなりたくないっ!」
「何もしなかったら、ああなってしまう!」

この現状否定的な向上心は、主人公のギャング仲間のマックスにも共通しています。
しかし、主人公のヌードルスには、あまりない。
ヌードルスが求めているものは、愛とか友情とか安らぎとか、そんな心情的なもの。
ヌードルスは、暗黒街での仕事によって、お金や権力を得たいというよりも、仲間とワイワイやるのが好きなだけ。女の子のデボラに愛を求め、仲間のマックスに友情を求めているだけ。いわば叙情派のヤクザなんですね。

お金や権力を求めている人もいれば、愛を求めている人もいる。
そんな中で必死で自分を認めさせようとする人たち。
ギャングも芸能人も、そんなメンタリティーは共通しているんですね。
このようなギャング・・・というか殺人鬼と芸能人が、やっぱり出てくるのは、映画史に燦然と輝く1945年のフランス映画「天井桟敷の人々」(原題は Les enfants du Paradis 直訳すると 「楽園の子供たち」 )

この「天井桟敷の人々」という映画では、実在の犯罪者ラスネールが、実名で登場しています。そして天井桟敷ということからわかるように、芸能人集団が舞台。
切実に愛を求め、純真で、傷つきやすく、不器用で、そして表現への渇望を抱えた人たちが、出ている。
ここで、enfantsは、まさに「子供たち」という意味なんですが、これは今の日本だと、そのままアダルトチルドレンと言ってもいいでしょう。芸能界は、まさに「アダルトチルドレンにとっての楽園」と言えるわけ。

ダメダメ家庭に育って、芸能人になったり、あるいは、自分の苦悩を形にすることができず、犯罪者になってしまったり・・・そんな姿は、今の日本とまったく同じ。
ギャングも、芸能人や芸術家も、その根底の心理は共通しているわけ。だからこそ、有名なドイツの映画監督のフリッツ・ラングは、「もし、オレが映画監督にならなかったら、殺人鬼になっていただろう・・・」と言ったりするわけ。

ラングのこの言葉は、たとえばアメリカのウディ・アレン監督の「影と霧」という作品で、中心テーマとなっていました。ラングに限らず、芸術家とギャングの心理的な近さをテーマとする作品は多いでしょ?それこそ、以前にはこのメールマガジンで、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」を取り上げました。悪の権化とも言えるダースベイダーも、ちょっとした歯車の綾の結果に過ぎないわけ。

ダメダメ家庭出身者にあるのは修羅場の日々の積み重ねだけ。
それを当人とは無関係な第3者が、「彼は、いい人生だった!」とか「落伍者だった。」とかのモンキリの言葉で評価しても意味がない。
以前に、フランスの詩人のボードレールについて、翻訳者の人が「彼は敗者だった。」とか解説していましたが、その人の一生をどのように評価しても第3者の勝手ですが、そんな評価には意味がないわけ。暗黒街でも、作品の創作の分野でも、修羅場との血みどろの日々があるだけなんですね。まあ、それがわからないからこそ、研究者をやって、他人の作品にあーでもない、こーでもないとやっているんでしょうが。

日々の悪戦苦闘の積み重ねに意味があるのであって、その第3者的な評価には意味はないもの。
だから、この映画では、ちょっとしたシーンが実にスゴイ。映画の最初の頃に少年がショートケーキを食べるシーンがあったりしますが、無言でむさぼり食べているだけなのに、それを2分くらい映している。それがビックリするくらいのオーラが漂っている。
あるいは、海を見つめるシーンとか、もちろん有名なレストランでのシーンとか、30年振りにデボラとヌードルスが再会するシーンとか。
「このシーンはドラマの流れの上ではどんな意味なんだ?」と思うようなシーンも多くありますが、オーラがすごいわけ。
監督のレオーネが実際に見たり、やったりしたシーンが結構あるのでは?

セルジオ・レオーネも、まさに最後の作品において、自分を評価するのではなく、自分の過去を回想し味わっているわけです。
だからこそ、作品の最後になって、映画劇場を模したアヘン窟に出かけて、夢の世界に旅立つことになる。
「人生は夢の如し。」
シェークスピアが、彼の辞世の作品「テンペスト」において言っているようなもの。

セルジオ・レオーネも、自分の過去を回想し、「まあ、こんなモンかぁ、色々と思い残すことも多いけど、こんなモンだよな。」そんな肯定にならない肯定をしているわけ。
あるいは、解決にならない解決と言ってもいいでしょう。

この作品での登場人物は何かを達成したとも言えない。女優のデボラは確かに大成したといえるでしょう、しかし、やっぱり幸福とはいえない。上昇志向のマックスは、権力を得たが、やがて没落。愛を求め続けたヌードルスは、愛を得ることができないまま、老人となった。
勿論のこと、「ふつうの生活」を得ている人はいない。
何かが解決したわけではない。ただ血みどろの日々こそに意味がある。
・・・そんな姿は、実にダメダメ家庭の出身者の姿でしょ?
それに、そう考えることによって、ダメダメ家庭からの日々を受け入れることはできるのでは?

この作品は、ある意味において何も解決していない作品と言えるわけ。このような点は、「天井桟敷の人々」も同じ。
だから、逆に言うと、作品を見た側は、「言われていること」以上に、作者が「言い尽くせなかったこと」が、胸に残ることになる。「表現されたこと」よりも、「表現しようとしたこと」「表現されきれなかったこと」「表現しようとした心情」が表現されているわけ。

今際の際になって「オレはやり尽した。」「語り尽した。」と達成感を得る心理とは遠い。
しかし、「まだ語りたい!」「もっと作品を作りたい!」そのようなインスピレーションや体験や意欲がいつまでもいっぱい残っている人だからこそ、作品を作れたわけでしょ?
ある意味において、強烈な無念でしょうが、そんな自分であるがゆえに、作品を作ることができたわけ。
愛が得られなかったゆえに持つことができた、やすらぎ。
言い残したことが、いっぱいあるがゆえの達成感。
やり残したことが、いっぱいあるがゆえの充足感。
一生の終わりになって得るそんな状況は、肯定するでも否定するでもなく、笑って受け入れるしかないのでしょうね。
だから、最後のシーンでは、思い出が充満する音楽を背景に、あんな感じで笑っているのでは?

(終了)
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発信後記

作品というものは、どんなジャンルにおいても、作り手自身の直接的な問題意識が反映しているものです。○○主義とか、△△論とか、ご大層な主義主張を語ったりはしないもの。
当人にとって、切実だからこそ、逆に言うと、作者の死後の、後世まで残ることになる。
だって、人間なんて、昔から何もかわっていないわけですからね。

本文中で取り上げた映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」と「天井桟敷の人々」の間には、約40年のタイムラグがありますが、見る人が見ると、実によく似ている。

ちなみに、映画「天井桟敷の人々」に出てくる実在の殺人鬼であるラスネールは、子供の頃に父親から「どうせオマエはギロチンで死刑になるさ!」と言われていたそう。
そしてその父親の予想どおりになりました。

本来なら、そうならないために子供を教育したり保護するのが、親というものでしょうが、「オマエは死刑になるぞ!」と言って、「ああ!デキの悪い子供を持って、オレってなんてかわいそうなんだ?!」と嘆いているだけ。

先日、日本の茨城県での通り魔事件での裁判があって、その犯人の父親が裁判所で発言していたようですが・・・
まさにラスネールの父親とそっくりだったでしょ?

そんな人間は、時代に関わらず、存在しているわけですし、そんな人間ができるのは子作りくらいというのも、昔から。
だからこそ、昔の事件なり作品でも、今の時代において、十分に示唆的なんですね。
R.10/11/12