トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ人間の自己逃避
配信日 09年6月10日
タイトル 逃避の方向
以前に「規範認定」というお題で文章を配信しております。
抑圧的な人間は、何かを自分の規範として認定して、その規範に盲目的に従うような行動をすることが多い。

そんな規範認定を掲げ、従うことにより、自分で現実を見なくてもいいし、自分で考えなくてもいい。いわば自己逃避の一環としての規範なんですね。
そもそも抑圧的な人間は、ある種の「マゾヒズム」を持っている。このことは以前にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を取り上げた際に、言及いたしました。
マゾヒズムと言っても、縄で縛られ、ムチでビシバシされるのがキモチいい・・・というその手のプレイの実践的な問題ではなく、現状認識を拘束され、思考を拘束され、行動を拘束される・・・その手の拘束感というか、被支配感がキモチいい・・・そんな心理を表したものです。

それこそ、「聖書に書いているから輸血は拒否する。」とか「憲法に書いてあるから、何も反撃しない。」そんな教条的で、無力感こそがキモチいい・・・それがダメダメにおけるマゾヒズム。
そんな人間が、いわば規範となる存在に「従い」「縛られる」ことにキモチよさを感じるのは当然でしょ?
まあ、その手の人は、勝手に縛られていればいいだけ。

しかし、規範認定に逃げ込み、現状なり自分自身から逃避しているのだから、周囲の人間にしてみればタチが悪い。基本的にはそんな人とのやり取りを避けるのが基本でしょう。しかし、現実においては、その手の人とのやり取りも、やっぱり発生してしまったりする。
その手の規範認定に逃げ込んでいる人は、現状認識から逃避しているんだから、相手の話も真剣に聞いてはいない。というか、真剣に聞くのが怖いわけ。自分自身で考えることを恐怖している人は、他者の話など聞きませんよ。
規範認定する人に対して、何かを説明する行為自体が、相手に恐怖を与える行為となってしまう。

それにそんな人に色々と説明しても、やっぱり誤解するもの。
規範認定をする人の中心的な思考は、「ワタシは○○を規範としている。」「その規範に従うべきだ!」というものなので、やり取りの相手の話から聞き取ろうとするのはこんなこと。
「この人は、どんなものを規範としているんだろうか?」

序列意識に凝り固まったダメダメ人間が、やり取りの最初に確定しようとすることは、「どっちが上の序列なのか?」という点であることは、このメールマガジンで頻繁に触れております。
同じように、規範認定が習慣化した人間がまず考えるのは、「この人は・・・何を規範としている人なのか?」という点になるわけです。
別の言い方をすると、「何に従っている人なんだろうか?」となります。

しかし、当然のこととして、すべての人が規範認定をしているわけではありませんよ。
抑圧的な人にしてみれば、規範認定することで、自分自身から逃避できるので、便利というだけ。マトモな人にしてみれば、尊敬する人はいても、それが規範となっているとは言えないでしょ?
初対面でいきなり規範についての話題になっても、マトモな人は困ってしまうだけ。
しかし、規範認定に逃げ込む抑圧的な人間にしてみれば、それを確定しないと次に進めない。

そもそも、一般のマトモな人間にしてみれば、やり取り相手が持っている中心的な関心が規範である・・・と言うことにピンと来るわけがない。
だからトンチンカンなやり取りになってしまう。
お互いが「あの人は何を言っているんだろう?」と怪訝に思うだけ。

規範認定に逃げ込んでいる人に対して、『こんな考えを参考にしてみたら?』などとアドヴァイスしようとしても、「オレの規範を否定するつもりなのか?!」「アイツは別の規範を押し付けようとしている!」などと受け取り、逆上されてしまう。

本来は、「何を規範とするのか?」なんてことには意味はないもの。
その人が、どんな感じで現状を認識し、
何を考え、
将来的にどうしたいのか?

それを自身の言葉で語ることができればそれでいいだけですよ。
しかし、そこから逃避するための方法として規範認定なんだから、そんな感じでのやり取りにはならない。抑圧的な人間は、どんどんと「何を規範とするのか?」という議論に逃げ込むようになってしまう。
しかし、「何を規範とするのか?」という議論は、所詮は抑圧の道具の問題に過ぎない。どんな道具を使っているかは変わっても、その人が心理的に抑圧されていることには変わらない。

それこそ、第2次世界大戦におけるドイツのヒトラーとソ連のスターリンなんて、共産主義と、反共産主義であっても、やったことは結局は同じでしょ?現状から逃避したがる国民が、自分たちを逃避に導いてくれる政治家を選んだだけ。「オレはあの○○と違うんだ!」などと連呼しているような人間は所詮は自己逃避を基本としている。そんな人たちの間にあるように見える違いなどには意味はなく、ちゃんとした人間なら「ワタシは○○をやっている。違うか同じかはアンタらで勝手に判断しなよ!」と言えるもの。

逃避の向かい先に意味があるのではなく、「どこから逃避しているのか?」という出発点にこそ意味があるわけ。
そしてダメダメ人間は、自分自身から逃避している。自分自身から逃げている人が、「どこに向かって逃避するのか?」という議論は無意味でしょ?まずは原点たる自分自身を見つめないとね。しかし、逃避しているからこそ、「どこに」という議論にしたがるわけ。

「何を規範とするか?」という点には、大きな意味はなく、むしろ「自分自身を縛ってしまう」というマゾヒズム的な心理の方が意味があるわけです。荒縄で縛られようと、ビニールテープで縛られようと、その手のプレイとしては同じ・・・なんじゃないの?
抑圧的な人間にとっては、キリスト教の聖書を規範にしても、孔子の論語を規範としても、マルクスの資本論を規範にしても、日本国憲法を規範としても、自分自身や現状認識から逃避するという点においては共通していたりするもの。抑圧的な人間にしてみれば、自分自身を縛ることによって逃避を果たしているわけ。

それこそ以前に新聞で面白い記事を見たことがあります。その新聞社の人が、とある大きなお寺のお坊さんにインタビューして、そのお坊さんが「太陽は地球の周りを回っている。だってお経にそのように書いてある!」そのように主張したとのこと。それに対し新聞記者さんは「なんとアタマが固い!」と嘆いたわけです。その嘆きは一見、正統的に見えるかもしれませんが、「ワタシはお経を信じる!」『オレは教科書を信じる!』と議論しても堂々巡りになるだけで無意味ですよ。本気で議論するつもりがあるのなら、観測データーを元にして議論する必要があるでしょ?つまり、その議論において語られた天動説も地動説も、所詮はその人の心理的な抑圧を表しているわけ。「何を規範にするのか?」という点において議論はしても、規範を求める抑圧的な心理は共通になっている。

あるいは、ダメダメ人間は被害者と加害者の区別に異常にこだわることになります。その区別にこだわることにより、現状認識から逃避してしまうわけ。
「ワタシは悪くない!」「ワタシこそが被害者なんだ!」と主張し、悪くないんだから、悪い方のアンタたちが、現状認識して、対処の方法を考えてよ!
そのように主張することになる。いわば逃避としての、被害者主張なんですね。

しかし、トラブルを避けるという発想は持つことはない。トラブルを避けるためには自分で状況を認識し、自分で考える必要がある。しかし、抑圧的な人間はそれができない。だから何も考えずに突っ走って、トラブルが発生して、「どっちが悪いのか?」で喧々諤々することに。
それこそドメスティック・ヴァイオレンスなどもその典型。
殴らなければならないような妻などは離婚すればいいだけだし、そんなダメな夫とは別れるのがベスト。しかし、抑圧的な夫婦は、「どっちが悪いのか?」と散々と議論はしても、そんな状況を避けようとはしないわけです。
そして、そんな状況に介入するボランティアも、やっぱり「どっちが悪いのか?」という点ばかりを主張する。そうして、どんどんと、自分自身や現状認識から逃避してしまう。

自分自身から逃避しているんだから、客観的な現状認識ができないし、主観的な希望も自覚できない。
「何が不満なのか?」「何を恨んでいるのか?」
その自覚から逃避するわけ。
結局は、自分自身から遠くに犯人を設定して、その犯人を恨むことになる。何かを犯人認定をすることで、逃避を行うわけ。その犯人は遠くの存在だから、当人は何もしないでいい。ただ恨んでいるだけ。だから当人は弁解ばかり。

規範認定をする人は、犯人認定をする人と共通していることが多い。
「ワタシは○○を規範としています!」そんなことを語る人は、その認定のスタイルにおいては、犯人認定と同じ。
それこそ「あの○○のせいで、上手く行かない!」と言いたいがために「いったい誰のせいなのか?」そんな犯人探しの習慣を持っているもの。そしてその認定した犯人が変更されることはあっても、犯人認定する習慣は変えないわけ。何かを教条的に信奉する人は、何かを犯人認定する人と重なっているものでしょ?
誰かを犯人認定することで自分を縛ろうと、誰かを規範認定することで自分を縛ろうと、自分を縛るという点においては、まったく共通しているわけです。

抑圧的な人は、表層にこだわることにより、自己逃避を果たす。
だから、解決の道のりがますます遠くなる。
逃避の方向について散々と議論する人は、逃避していることそのものについての議論はしない。
逃避の方向についての議論そのものが、逃避の方法になっているわけです。

(終了)
***************************************************
発信後記

規範認定となると、一般的には、マルクスとかキリストとか仏陀とか孔子とか・・・
まあ、そんな有名人が選定されるものです。なんといっても抑圧的な人間は、「それがどうしていいのか?」を他者に説明することはできない。だから評価が確定しているものを規範としたがるもの。

ということで、まさかこのメールマガジンの記述を規範としている方は、色々な意味でいらっしゃらないでしょうが・・・
何回も書いていますが、このメールマガジンの基本的な趣旨は、自分の目で見て、自分のアタマで考えて、自分の言葉で語れるようにしましょう・・・というもの。
何かの個別の価値観なり考え方を押し付けるつもりはありません。
自分の目で見ることの難しさ、因習的な発想を客体化すること・・・そんな観点での文章です。何回も書いていますが「見えているものを、見えるようにする」のが目的です。

まあ、本来は、キリストだって、仏陀だって、そんな視点を強く持っていたわけですが、いつのまにか、それが因習となってしまい、結局は、規範となってしまう・・・
それが人間の弱さのようなもの。評価が定まった段階で、その人たちの言葉が持っていた力はなくなってしまう・・・それが現実なんでしょうね。
R.10/12/22