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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の行動
配信日 09年6月24日
タイトル 言葉にしてから整理する
以前に、携帯電話からのメールについて、まとめた文章を配信しております。
携帯電話を使ってのメールは、ちょっとした連絡事項のやり取りには有効でも、突っ込んだやり取りには向かないもの。
より突っ込んだ文章でやり取りしたい場合には、やっぱりパソコンを使った方が、文章をまとめる側にとってもラクでしょ?

メールなどの文章を発信する際には、自分が相手に伝えたいことを自覚して、ラフな文章にまとめあげ、そのラフな文章を校正する・・・そうして、出来上がった文章を相手に発信する・・・そんな流れになりますよね?
しかし、自己逃避で抑圧的なダメダメ人間は、最初の構想段階を、頭の中でまとめること自体がイヤ。
何事も「て・き・と・う」に取り掛かってしまう。
取り掛かる際に気楽に取り組むくらいならまだいいわけですが、そんな場合には、ラフなドラフトに対し、後から十分な校正をしなきゃいけないでしょ?

しかし、会話不全のダメダメ人間は、「相手にわかりやすく伝える」そんな発想自体が存在しない。自分勝手に言い放つだけ。
だから自分が書いたラフな文章を、校正したりもしない。
断片のままで、相手に投げつけることになる。
だから表現がメチャクチャだし、誤字脱字が頻発したりする。
その手の人とのやり取りでは、何も携帯電話とかパソコンとかの道具の問題ではなく、校正が全くされていないような文章を送りつけてくることが多い。

そんな人が、結婚して、子供を持って、親になったら、その子供とどんな感じでコミュニケートするの?
そんなことは自明でしょ?
しかし、そんなコミュニケーション意欲も能力のないがゆえに、まさに相手をしてくれるのは自分の子供だけになってしまって、子供が親と同じようなダメダメになってしまうわけです。

主義主張は人それぞれでしょうが、自分の主張を書いた文章を、後になって校正するくらいは、どんな主義主張でもしなくてはいけないことでしょ?
自分の主張に自信があるのなら、あるいは自分が主張することに責任感なり使命感があるのなら、なおのこと校正くらいはしなくてはね。
逆に言うと、校正もしないような文章を送りつける人は、自分の主張に自信がないわけ。
それだけ、自分が書いたラフな文章を、自分で「読み返せない」わけです。

このように校正もしないパターンのダメダメもあるわけですが、校正はしても、その方向性が減点法のケースもあります。

そもそもダメダメ家庭の人間は、その基本的な精神として減点法となっている。
「これをわかってほしい!」という加点法的な発想はしない。
「ワタシは悪くない!」「悪く思われたくない!」そんな減点法的な発想ばかり。

だから、文章の校正に当たっても、「よりわかりやすくする。」「相手に誤解されないようにする。」そんな明確性の方向を向いたものではない。
「自分に不都合な記述は削除する。」「自分に不利な情報は、ぼかす。」そんな保身を向いた校正になるわけです。

文章の明確性を目的とした校正だったら、たとえば主語を明確にしたり、目的語をより明確にしたり、あるいは代名詞が指し示すものを、より明確化したりすることになる。あるいは、言い換えをしたり、補足説明を加えたりして、事態の説明をより明確にしようとするもの。
明確化することで、よりわかりやすくし、誤解されにくい記述にするわけです。

しかし、減点法のダメダメ人間は、逆方向なんですね。
文章の「流れ」は整えたりしても、逆に言うと、「差しさわり」のある記述は、削除することになる。だから、生き生きした記述はなくなってしまう。このメールマガジンで何回も書いていますが、まさに「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」状態。
「見事なレイアウト」の文章だけど、文章の素材となる言葉が、みんな死んでいるんですね。

別の言い方をすると、有名な美術作品の模写を見るような感じに近い。絵のアウトラインは確かに一緒なんだろうけど、本物だけが持つオーラとは無縁。ゴッホの作品のようにキャンバスに魂を叩きつけたような作品を模写しても、ただ安っぽいだけ。
その手の模写は、無関係な第3者の苦悩を、外面的になぞっている分、よりヘンテコになってしまう。
しかし、抑圧的な人間が文章をまとめると、他者の苦悩をなぞる・・・そんな第3者的なスタイルの文章が多いもの。だから、読んでいて、「困っているのはアナタ本人なの?それとも、アナタの友人の困りごとについて、アナタがその人の代わりに語っているの?」と聞く羽目になってしまう。まあ、実に多いんですよ。

以前にこのメールマガジンで「ダメダメ人間は尻尾を隠す」ことについて配信しております。当人は差しさわりのある部分を隠したと思っていても、実際はその尻尾がミエミエのケースも多い。

しかし、それなりにアタマが働くダメダメ人間は、見事に尻尾を隠し切るもの。
だから、相手から尻尾をつかまれずに、自分を減点のない「いい子」に見せることができる。しかし、尻尾を隠すことが目的化されてしまっていて、伝えたいものが自分でもわかっていない状態。相手から突っ込まれないことが目的となってしまっている。

だからそんな話を聞いていても何もわからないし、そんな文章を読んでもわからない。
まさに「掴みどころのない」文章になってしまう
減点法的には非の打ち所がない文章であっても、加点法的にも、打ち所のない文章といえる。そもそも「非の打ち所がない」って、ダメダメにお約束の二重否定そのもの。

そんな減点法の精神に満ちた文章をいただくと、やっぱりお約束の感想になってしまう。
「で、アンタは、結局は、何が言いたいの?」「結局は、現在はどうなっているの?」

まだ私のような読解力のある人間だったら、上記のように、その文章の問題点を指摘できますが、読解力のない人間だったら、そうは行かない。
このような「差しさわりのある面をカットする」ような減点法の添削をした文章は、「流れ」としては、非の打ち所がないので、そんな文章を受け取った人は、「何を言っているのか・・・ワタシにはよくわからないけど・・・自分の読解力が悪いのかな?」と思ってしまうこともあるんですね。
特に子供はそう思ってしまうわけ。だからこそ、「自分が悪いんだ!」なんて思いつめた子供が、プレッシャーを自分の中に溜め続け、問題行動を起こしたりする。
しかし、自分の子供をそのように導いたダメダメな親は、ちょっと見には、「非の打ち所がない」人なので、周囲から「悪いのは全部子供のせい!」となってしまうわけ。そうやって、子供を校正というか更正しようとする。

それなりにアタマがよくて、重症のダメダメ家庭に育った人は、割とそんな文章を書いていたりするものです。
文章の校正の方向性と、自分の子供の更正の方向性は、一緒。
加点法的ではなく、減点法的。
まさに、「出る杭をたたき」「悪くはない」ようにしたがるわけ。
そんなものでしょ?

以前書きましたが、携帯メールだと離婚のパターンが多いわけですが、この手の減点法的に「悪くはない」メールだと、家庭内別居のパターンになります。まあ、実際にそんなものなんですよ。
言われてみれば、「なるほどなぁ・・・」って思うでしょ?
外面を整えるのに腐心して、中身がないわけ。
名は体を表すように、文は体を表すものなんですよ。

外面的な「よい家庭の姿」にはこだわっても、親としての自分自身の役割に関しては眼中にない。本来は、よい親とは、子供の様子に注意したり、子供の相談に乗ることが必要でしょ?しかし、外面だけにこだわり、そして、自分たちはよい家庭の姿をしていると思っているので、眼前の自分の子供には関心がないわけ。客席にいる観客を向いていて、舞台上の役者や状況をまるで見ない。
そうやって、絵に描いたようなすばらしい家庭の制作に邁進するようになる。
外見的には絵に描いたようなすばらしい家庭であっても、登場人物は、その絵のモデルになるために心理的にプレッシャーを持ち続けている状態。まさに造花のように心を殺してしまう。

抑圧的な人は、フラワーアレンジメントにおいて、造花を使って見事なレイアウトにすることはできるもの。しかし、草原で見事な花を見つけてくることはできない。
しかし、見事な花は、それ一輪で、価値があるもの。
アレンジする前に、もうちょっと、花探しをしてみたら?

抑圧的で、減点法が身についてしまっている人、人の気持ちがわからない人は、実に早めに言葉にしてしまうもの。そして、その言葉をいじることになる。だから、言葉の流れは見事なもの。
しかし、逆に言うと、言葉にする前の段階において精神的に耐えることができないわけです。
言葉を搾り出すようなことはせず、「とりあえず」言葉にしてしまって、後はその言葉を整理整頓。

自己逃避の人は、自分の文章は散々と見直すけど、文章を書くに至った自分の気持ちは見直すことはない。苦悩をどのように表現するかについては、それなりに考えている。しかし、苦悩そのものについては、見ようとしない。だからこそ、言葉の流れはスムーズだけど、言葉そのものが軽い。自分の感情と、それについての言葉が結びついていない。

「で、結局は、自分は何をしたいのか?」という問題から逃避していて、人に合わせてばかり。だから「ふつう」という言葉を使いたがる。さんざん見直して記述を修正したメールの文章に対しても、「で、アンタは、結局は、何が言いたいの?」などと相手から言われ、ヘタをすると「わけわからないよ!」と怒られることになる。だから、「怒られないように」気を使って、ますます減点法の修正に身が入る。

本来なら、その文章を書くに至った、自分の心情なり問題意識に立ち返ることが必要になるわけですが、抑圧的な人は、そこから逃避してしまう。このようなことは以前に「口下手スパイラル」というお題でも文章をまとめてあります。

相談にあたっても、自分の困りごとについての「語り」は、上手にできているわけですが、逆に言うと、語りに視線が行ってしまっていて、自分が直面している「困りごと」そのものには視線が向いていない。だから、聞いていても、「どんな状態なのか、さっぱりわからない。」となってしまう。

抑圧的な人間は、自己逃避であり、現実逃避なので、自分の目や耳で見たり聞いたりはしない。だから本当の意味では考えないし、安直に言葉にしてしまう。安直に言葉にしてしまって、後は言葉の整理を一生懸命にやることになる。現実ではなく、言葉を見るわけ。そして、自分では考えたくないので権威主義。まさに教科書で描写された「正しい」家庭の姿を強引に当てはめようとする。常に形から入る状態。

だから言葉や文章に重みがない。
言葉にする前の段階で、しっかり耐えることができない。
言葉にすることで思考から逃避してしまう。そして相手に伝わなければ、「文章の校正なり構成」の問題と認識する。しかし、言葉にする前の段階で耐えていないので、相手に伝えたいことが自分でもわかっていない。

それは、いわば認識することからの逃避なんですね。
以前に取り上げた詩人のリルケの言葉ではありませんが、「まず見ることから始めるつもりだ。」そんな精神が必要になるわけです。
言葉にする前に、自分の目で見たり、自分の耳で聞く・・・そこからの逃避の手段としての言葉は、やっぱり軽いもの。そんな言葉はいくら整っていても、見る人が見るとスグに分かってしまうものなんですよ。

(終了)
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発信後記

今回でも使いましたが、このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の抑圧的な人間がよくやる表現のスタイルを「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」などと書いたりしております。
かみ砕いた表現にすると「生命力がなく、トゲもなく、規格品的に安全で、大量生産的で、作り手の覚悟がなく、万人受けしてケチが付けられないけど、見ても何も面白くない。」そんな感じで言えるでしょう。

「あーでもない、こーでもない。」と当たり障りのないことを、格好を付けて、もったいぶって書いてあっても、「で、だから何なのさ?」「それをどうしても伝えたいの?」と思うだけ。
しかし、抑圧的で、減点法の人間は、そんな文章をよく書いていたりするものです。

「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」なんて自分が書いた言葉を読み直して、ふと思ったのが、以前に取り上げたフランスの作家のマルグリット・デュラスが言う「面白くない本」。
頻繁に書いていますが、それはこんなもの。『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』というもの。

いや、まあ!なんと言うか・・・
マルグリットの姐さんに、改めて、心からの親愛の念を持ってしまいますよ。

私は自分自身を何も芸術家だと申し上げるつもりはありませんが、往々にして、芸術家には個性なんてものはないもの。そもそも神から来た霊感を作品にするのが芸術家の仕事なんだから、元は一緒なんだから、個性なんて本質的にありえませんよ。

表現の細部には、色々とヴァリエーションはあっても、本質は、みんな一緒だったりするもの。その作品が創造的であるほど、個性がなくなってしまう。
ただ、当然のことですが、因襲と、普遍は、遠く離れている。
因襲的であるがゆえに、普遍から遠い・・・それが、デュラスがいう「面白くない本」ですし、そんな本の文章は、「造花で作った見事なフラワーアレンジメント」状態なんですよ。

野に咲く一輪の花は、永遠の生命があるもの。それに対し、大量生産の造花は、朽ちぬとは言え、じゃあ、生命があるかというと別でしょ?
そんなことは2千年前からわかっていることでしょ?
R.10/12/24