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カテゴリー ダメダメ家庭の人からのメール
配信日 09年6月26日
タイトル ムダな百花繚乱
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」に寄せられる意見で、意外と多いのは、内容が過激ということではなく、文章が長すぎるというものです。

この点については、ある意味そのとおりでしょう。
このメールマガジンの文章は、メールマガジンに最適化されてはいませんからね。メールマガジンの文章としては、もっと短いのが理想的でしょう。かと言って、この手の内容を短くすると、それこそ問答無用の説教調になってしまったり、グチ・オンリーの文章になってしまうもの。

対話調で、実例を多く書いて・・・となると、ある程度の長さになってしまうのは、しょうがないんですよ〜。

メールマガジンとしては長い文章であることは異論がないところですが、じゃあ、それが不要な長さなのか?必要な長さなのか?そっちの問題の方が重要でしょ?
必要な長さなのなら、少なくとも書き手が、その必要性を意識しているのなら、いいんじゃないの?
それでも読み手が、「長くてイヤ!」と考えるのなら、購読しなければいいだけ。
あるいは、以前に書いたことがありますが、週に1回だけ読むという間引き購読という方法もある。

実は、ダメダメ家庭の人とやり取りをしていると、ムダに長い文章に出会うことがよくあるんです。
ムダに長い文章って言葉は、分かりにくい・・・そう、思われるでしょ?
別の言い方をすると、色々と書いてあるけど、読んでいて、「で、結局は、何が言いたいの?」ということが分からない・・・そんな文章のことです。

相手に分かってほしいことが自分で意識されていて、その説明のための実例などを多く挙げてしまったら、結果として長くなってしまった・・・ということなら、ある意味において必要な長さと言えますよ。だって、実例なんて多く出ていた方が分かりやすい。だからそんな文章の内容は理解しやすい。しかし、ダメダメ家庭の人の文章の長さって、自分の意見を補足するための実例を多く列挙というパターンにはなっていない。

そもそもダメダメ家庭の人間は、会話の能力がない。だから、そんな人は会話そのものの機会が少ない。だから、自分の考えを語ることに飢えている。
そんな人だから、「この人は、ワタシの話を聞いてくれる!」なんて思ってしまうと、「ここぞとばかりに」語ることになる。

文章なり、あるいは対面での説明においても、本来なら、主要な文章の流れと、それを補足するエピソードで構成すれば、話の受け手にとっても分かりやすいでしょ?あと、もっと上級になれば、導入のエピソードとか、最後のオチとか・・・いずれにせよ、主要な流れと、それに「関連する」エピソードで構成するのが基本といえるでしょう。
しかし、日頃、自分の話を聞いてもらっていない人は、まさに「この期を逃すと後がない!」とばかりに熱く、普段、考えていることを語ってしまう。

だから、その折での議題になっているテーマとは全く無関係な話をしてしまうことになる。
それが、主要テーマと補足エピソードによる構成がしっかり出来ていて、あとでオマケのような形として分別されているのなら、まだ分かりますよ。要はプライオリティがしっかりできていればいいだけ。

しかし、ダメダメ家庭の人間は、そもそも妄想との親和性が高い。「どのように言えば相手が理解しやすいのか?」なんて考えながら表現をしていない。
主要テーマと補足エピソードに加え、それに普段自分が思っている様々な事項が、適宜・・・以前書いた言い方をすると・・・霜降りのように入っている状態になっている。これでは、聞いていてさっぱり分かりませんよ。

普段から自分が思っていることも当然あるでしょう。
それを誰かに語りたいのも当然ですよね?

しかし、重要なことは、今の時点でテーマとなっていることでしょ?そのことについての自分の考えを相手に分かってもらえるように語ることがまずは第一じゃないの?
そうして、そのテーマが解決し、話が弾んだら、次に自分が関心を持っているテーマに話を誘導すればいいじゃないの?

それこそ、ダメダメ家庭の問題を議論している最中に、「サッカーと野球でどっちがいいのか?」とか「東京と大阪の違い。」なんてネタを急に振られてもねぇ・・・
それがダメダメ家庭を考えるに有効な視点となるのなら、つまり主要テーマを補足するエピソードとなるのなら、非常に意味があることでしょう。
しかし、現在の議論とはまったく無縁に「東京とはどんな街なのか?」なんて言われても、『なんだい?コイツ?』と思うだけでしょ?

そんな人は、周囲の人間から相手にされず、語る機会がますます減ってしまう。
だからこそ、「この人は自分の話を聞いてくれる!」と誰かを認定してしまうと、いつも思っていることが溢れてしまい、内容の収拾がつかなくなってしまう。

会話においても、次の機会があるわけでしょ?
今のテーマを、今しっかり議論して、それを踏まえて次のテーマに移ればいいだけ。
しかし、ムダに長く話すことによって、自分から「次の機会」をなくしちゃうわけです。

実は、ダメダメ家庭の人間とやり取りすると、この「ムダに長い話」とちょっと違った、ムダに遭遇することも多いんですね。

それは、「ムダに多い」というもの。
この「ムダに多い」ということは、「ムダに長い話」とよく似ています。基本的に、双方とも自分でどうしても相手に分かってほしいことが自覚できていないままの状態でやり取りをしている。

ただ、ムダに長くなるケースは、「色々と言いたいことがある、ただし、そのプライオリティがつけられない・・・」という心情が基本となっているのに対し、「ムダに多い」語りは、本質的なことからの逃避のケースが多いもの。

たとえば、ある文章に接した・・・その文章に対して、自分なりに感想を持つ。それは誰でもあるでしょう。そのまま放置しておくと、逆に言うと、後々まで引っ掛かってしまって考えることになってしまう。だから、とりあえず、自分なりの結論を出して、相手に言っておく。

このような心情は、以前にも「連続発信のメール」というお題で配信しております。ダメダメな人とのメールのやり取りの際には、こちらからのメールの個々の細部の部分に過剰反応しますが、メール全体で言っていることについてはまったく無視・・・そんな返事があったりするんですね。
逆に言うと、全体の文章についての自分なりの見解をまとめることから逃避するために、特徴的な部分に反応しておくわけです。

しかし、個々の部分だけに過剰反応した文章なんて、読んでも「で、いったい何が言いたいの?」と思うだけ。それは、実は書いている人自身が分かっていない。
そんな人の文章は、言われたこと、書かれていることの部分、部分に対する「反応」が並列的に多く並んでいる趣となっている。
並列的に並んでいるので、「じゃあ、結局は何が言いたいの?」「一番重要と考えているのは何?」という素朴な疑問には答えられない。
イヤ!それを考えることから逃避しているわけです。

並列的に多く語るよりも、単発をしっかり語って、その次に、また次の単発を語ればいいじゃないの?その方が読んでいてラクですし、書く側だって、まとめやすいでしょ?
しかし、抑圧的で自己逃避の人は自分の考えをまとめたくない。と言うより、まとめことが心理的にできない。まとめたくないけど、何らかの感想を残しておかないと、引っ掛かってしまう。

一つの対象を多くの視点から書く・・・そのような文章もあります。
あるいは、多くの対象に言及することにより、一つの視点の有効性を浮かび上がらせる・・・その手の文章もあったりします。
しかし、多くの対象を多くの視点から書いても、ゴチャゴチャしているだけですよ。
表現する際には、ある程度は整理した上で書かないとね。表現する側としては、多くの対象からでも、多くの視点を使ってもいいのですが、まさに最重要な「一つ」を描き出すことでしょ?
その最重要な「一つ」が、まさに「結局は、自分が言いたいこと」そのものじゃないの?

多くの事項について書くことによって、その「どうしても言いたいこと」を考えることから逃避する。多くの言葉が、肝心な言葉をぼかしてしまう。
多くの言葉が並列的に集まっていて、そんな多くの言葉の文章に接すると「結局は、私は何を分かればいいの?」と思うだけ。それを尋ねると、「アナタのご自由にどうぞ。」なんて返事が返ってくる。
しかし、何とでも読める文章なんて、出さないほうがいいですよ。相手が困惑するだけでしょ?

しかし、そんな多くの言葉が並列的に並んでいる文章は、何よりも自分のために書いているわけです。考えることから逃避するために言葉にしただけ。だから「相手がどう読もうと知ったことじゃない。」と言うことになってしまう。

しかし、そんな自己満足に徹したやり取りの積み重ねがどうなるのか?
そんなことはチョット考えれば分かることでしょ?
しかし、そんなことをしている人間は、自己逃避であり、それゆえに、自分がやっていることが自己満足に過ぎないこと自体が分からないし、考えることから逃避している。

少なくとも始めの頃は、一つの物事を、自分なりの視点で考えてみる・・・それくらいの文章の方が書きやすいでしょう。
多くの事項を書けば相手に伝わるというものではなく、伝えたいものを自覚することが第一なんですね。

特に相手に反論する場合において、この手のムダに多いパターンが発生するものです。
反論する時こそ、もっとも反論したいことを絞る必要があるでしょ?
一番重要な反論が通ったら、その次の反論をすればいいだけ。
いきなり、いっぱい反論があっても、読み手は読むわけがありませんよ。
そんなに「気に入らない」点が多いのなら、いちいち反論するよりも、「アンタなんか、相手にしない!」と言い放てば済む話。
しかし、感情が昂ぶると、揚げ足取りばかりのスサムメールのようなパターンになって、こまごまと反論するようになってしまう。
逆に言うと、細々とした部分に注視することによって、大きな問題から逃避するわけです。

一本一本の樹に注目することで、森を見ることから逃避してしまう。
まさにそれぞれの樹については、細々とした描写があっても、森全体の描写は何もない状態。そんな文章を読んでいても、全体のイメージが全然わからない。

ちなみに・・・
長い文章の、このメールマガジンですが、基本的には、エピソードをあまり詰め込まなくして、次のネタにまわすなんてことをやってはいます。
メールマガジンだったら次の機会は、発行者の自由ですからね。
次にまわす・・・なんてことをやっているから、それこそ発行回数が800回を超えてしまうわけでしょうねぇ。

それこそ、もっと短い文章だったら、とんでもない発行回数になっちゃうでしょ?私だって、いつまでもやってられませんよ。
まあ、このメールマガジンの文章が。ムダに長いのか?必要があって長いのか?
それは購読者さんの判断でしょう。
長いことそのものが問題なのではなく、必要性や自覚の問題だと思うんですよ。

ダメダメ家庭の人の文章は、実際の字数以上に長く感じる。それって不必要なエピソードが多いということなんですね。あるいは、話の本線と支線の区別が付いていないとも言えるでしょう。マトモな文章だったら、字数が多くても、読みやすい。
重要なことは、「ここで自分が何を伝えたいのか?」それを意識することなんですね。

(終了)
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発信後記

今回の文章とは全然関係ありませんが・・・
現在イランでは、大統領選挙の後のゴタゴタで、モメていますよね?
改革派とか左派とか保守派とか・・・
どっちがどっちなのか?よくわからない。
せめて穏健派と、厳格派くらいの言い回しでないと、わかりませんよ。

ちなみに、選挙の不正に対してデモで抗議している側・・・宗教的には穏健派・・・は、何も宗教的な理由なり政治的な理由が主目的ではないんですね。
独裁的な管理社会が進行してしまうと、密告が横行するようになる。
そしていったん密告されたら、あとは拷問で「自白」させられて、犯人にされてしまう。実に覚えがあろうとなかろうと、拷問によって自白させられるのは、イランも、ナチのゲシュタボも、栃木県警も同じ。そんな環境なんだから、ちょっとでも不平を言ったら、密告されて死刑・・・なんてことが現実になってしまう。

こんな状態では精神的に落ち着くどころではありませんし、周囲からの密告を恐れて、目立たないようにしないといけない。常に周囲を疑心暗鬼で見るようになってしまう。それでも、いったん密告されたら、その密告に何の身に覚えがなくても、一生の終わり。
だからこそ、「やられる前に、やるしかない!」となっているわけ。逆に言うと、弾圧する側も、もし現在の体制が転覆してしまうと、自分が殺されるわけだから必死。

政治的な理由なり、単なる正義感では、あそこまで出来ませんよ。
ちなみに、イランは以前には王様がそんな支配をしていたから、民衆によって倒されたわけですが、結局は、王様による支配が、宗教による支配に代わっただけ。
ダメダメのメンタリティーがあると、結局は同じことの繰り返しになる・・・まさに、典型的な事例でしょうね。
R.11/1/21