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カテゴリー 会話のスタイル(聞き手側)
配信日 09年7月29日
タイトル 語られる悪口への食いつき
ダメダメ家庭の人間は、「学校の悪口を聞きたがる」ことは、かなり以前に配信しております。
教員の資質がどうの・・・
学校の管理体制がどうの・・・
給食の内容がどうの・・・

そんなにその学校に問題があるのなら、サッサと転校させればいいのでしょうが、そんなことはしない。ただ悪口を聞いているだけなんですね。そして問題が起こったら、「やっぱり・・・あの学校は、前からおかしいと思っていたのよ!」と納得するわけ。

この学校の問題と同じように、ダメダメな人間は、やたら人の悪口を聞きたがるものです。そもそも、ダメダメな人間は、自分自身でも「やたら人の悪口を言いたがる」傾向があったりする。このことも以前に配信しております。

人の悪口を言いたがる人間と、人の悪口を聞きたがる人間が集まってするやり取りのネタなんて、言うまでもないことでしょ?

しかし、「人の悪口を聞いて」何が得られるの?
本来なら、そんなダメな人間なんて関わりを持たなければいいだけでしょ?
そんな「悪口のネタ」となっている人間と、関わりを持ったりしている自分自身を確認する・・・その行き着く先は「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの!?」
そんなものでしょ?
悪口を語り合うことで、ダメダメ人間にお約束の被害者意識を心行くまで満足させるわけです。

逆に言うと、被害者意識を持っているダメダメ人間は、周囲の人の悪口を聞きたがり、「自分は、かわいそうな被害者だ!」と確認したい。
それこそ、人とのやり取りで、誘導尋問風に「人の悪口」に持って行くような人って、現実にいたりするでしょ?
「あの人って、ホントウに困ったものね!」
それはそれでいいとして、『じゃあ、アンタとしてはどうしたいの?』
そう思いますよね?

しかし、自分の被害者意識が満足されてしまっているので、自分自身は何もしない。だって被害者の側がどうして、どのように行動するの?当事者だからこそ、自分で行動するのであって、被害者は何もする必要がないでしょ?だって悪いのは全部その人のせいなんだから。逆に言うと、「何もしなくていい」立場を確保するためにも、「人の悪口を聞く」必要があるわけです。

それこそ、自分の亭主の悪口を聞きたがるような妻もいたりするでしょ?そんな妻の感情とすれば、「家庭がうまく行かないのは全部亭主のせいだ!」「ワタシは、何てかわいそうな妻なんだ!」と思いたいのでしょうが、そんな男性とわざわざ結婚したのは、いったい誰なの?
それに、そんなに問題が多いのなら、さっさと離婚すればいいじゃないの?
そして自分がやりたいことをやればいいだけ。

まあ、そんなことを言ったりすると、お約束の、逆上となってしまう。

そもそも「自分がやりたいこと」をやるためには、「人の悪口」で盛り上がっているヒマはないでしょ?しかし、当事者意識がないダメダメ人間は、やりたいことがないんだから、安心して悪口で盛り上がることができてしまう。

自分自身が「かわいそうな被害者である」と確認し、「自分は何もしなくていい」と、納得させ、「問題は全部その人のせいだ!」と主張する。
「人の悪口を聞く」ことは、それだけ「おいしい」効果があるわけです。
しかし、ダメダメ人間にはおいしい言葉でも、マトモな人間にしてみれば、何の価値もないことくらいはチョット考えればスグに分かることでしょ?

以前に取り上げました、バルザックの「谷間のゆり」のアンリエットもこのパターンです。
自分の夫の悪口に誘導して、「悪いのは全部夫のせいだ!」と持っていってしまう。そして自分は安全圏に逃げ込んで何もしない。
それで納得するのは勝手ですが、それで本人の希望が実現されるの?
と言うか、本人に希望が何もないから、そんなことをするわけですが・・・

彼女は、夫の悪口を聞くと恍惚としてしまうほど。
そして周囲に対して要求する。
「もう一度あなたに言ってもらいたいんです。お気の毒な!なんてお気の毒な!」
要求するのは自分への同情のみで、協力は求めない・・・と言うか、自分でしたいことがないので、協力を求めようがないわけ。夫への悪口や自分への同情の言葉を得ることによって、「夫による被害者」と自分を納得させてしまうわけです。

人の悪口を聞きたがるように、その手の人は他人の失敗を知りたがるものです。
このようなことは、以前にこのメールマガジンで「失敗例収集家」というお題で文章を配信しております。他人の失敗例を集めたがるわけ。

ダメダメ家庭の人間は強い対抗心があるもの。やたら「アンチ○○」と言ったスタイルになっている。その人が、その○○に対抗するのはいいとして、「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」という質問に答えられないのは、もはやダメダメのお約束状態。
ということで、とりあえず「他者の失敗や不幸を喜ぶ」ようになってしまう。いわば「敵の敵は味方」のように「敵の失敗は喜び」となっている。まあ、だからと言って、自分が幸福になるか?というと、まったく別でしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、当事者意識がないので、そもそも「自分の幸福」なんて自分自身でも分かっていない。だからどうしても「他者の失敗」くらいしか、楽しみはないわけです。まさに「心が貧しい」以外の何物でもありませんね?

典型的に見られるのは、いつものとおりの韓国であることは言うまでもないことでしょ?
やたら日本のことを気にして、日本が困った事態になると大喜び!
どうしてそんなに日本のことが気になるの?
日本の教科書を、日本の高校生よりも熱心に、まさに目を皿のようにして読んだりして、あらを探そうとガンバッテいる。おめでたいのか?何と言ったらいいのかな?
まさに「故意のあら探し」状態。

しかし、「自分自身がいったい何をしたいのか?」そんな問題から逃避している人間は、対抗心の中に身をおかないと、精神的に参ってしまうんですね。
自分の問題から目をそらすために、他者の問題に首を突っ込む。常に他者が気になってしまう。

政治の世界ではおなじみの手法ですが、個人的なレヴェルでもよくある話と言えます。特にダメダメ家庭の人間は、自分から目を逸らすために、ボランティア活動をやったり、インターネットの掲示板に入れ込んだりと、その面では忙しい。
インターネットの掲示板の書き込みを読むと、ほとんどに対してこのツッコミが成立しますよね?
「で、アンタ・・・アンタ自身は結局はどうしたいの?」
それを自覚して、その回答を得るために掲示板に来ているのならともかく、その質問から逃避するために、掲示板に来ている人が多いんじゃないの?

人の失敗を喜ぶよりも、自分の成功を喜ぶようにした方がマトモでしょ?そもそも自分の成功だったら自分自身で何とかできるじゃないの?人の失敗なんて自分では何ともなりませんよ。
逆に言うと、だからこそ、ダメダメ人間は、他者にこだわらざるを得ない。だって自分では何もしなくてもいいわけですからね。
他者の失敗に「ザマーミロ!」なんて喜んでいると、どんどんと心が貧しくなってしまいますし、そんな人の近くにいると、朱に交われば・・・となるわけです。

他人の失敗を待ち望んでいる、そんな心の貧しい人の失敗を期待してもしょうがない。そんな人に積極的な関心を持つだけ無意味ですよ。そんな人からは距離を置く・・・現実的には、それでいいわけでしょ?

被害者意識が強いダメダメ人間は、自分に被害を与えた加害者について、常に意識することになる。だから加害者の選定につながるような情報だったり、加害者の状態につながる情報に強い関心を持つ。
そして、敵認定したものの評価で議論することになる。

ダメダメ人間は、「共通の敵」によって、一時的に結びつきができても、共通の目標なり、共通の価値観によって結びつくわけではない。
自分が想定している敵を、他者と共通のものと出来なければ、もう共通点がない。
党派性という言葉がありますが、党派は敵の評価によってまとまっているもの。それに対し、思想性は、本来は理想を同じくして集まっているもの。
極端な思想の場合は別として、ダメダメ人間は、「敵」の存在によって結びつく党派性のスタイルがより強いもの。逆に言うと、信念や目標なんてものは、どうでもいい状態になっている。

人間同士の関係の問題だけではありません。個人としてもそのようなスタイルになっている。「自分はあの○○に対抗する人間なんだ!」・・・ダメダメ人間のアイデンティティはそのような形なんですね。「自分はこのような考えを持っていて、現在はこのようなことをやっている。」という肯定形で自分を説明できない。

「何に対抗するのか?」
「敵は何なのか?」
それは、別の言葉を使うと、「自分は何の被害者なのか?」ということ。
自分自身を説明するには加害者たる敵が不可欠になる。

だからこそ、敵の評価は、自分自身の評価になってしまう。
自分が敵と考えているものを、別の誰かが、敵とは考えなかったら、つまり自分と敵を共有できない人だったら、それすなわち、その誰かさんも自分自身にとっても敵となってしまう。

一般論ばかりだとわかりにくいので、具体的な事例をあげましょう。

以前に、関西の購読者さんよりお便りをいただきまして、何でもその人は、「学校教育」に対して敵愾心を持っているようでした。特に、埼玉にある(・・・らしい)「プロ教師の会」という団体に異常に敵愾心を燃やしていらっしゃいました。
その「プロ教師の会」というのは、私は詳しくは知りませんが、授業にプロ意識を持っている実力のある・・・と自称している教師の集団のようです。まあ、それだけ一般の教員はアマチュアである・・・と言外に言いたいんでしょうね。

私個人は、学校教育全体に対抗心を燃やしているわけではありません。玉石混交の中からどうやって玉を見出していくのか?そのような方法論に関心があるだけです。
学校教育全体に敵愾心を燃やすよりも、「当たり」の教員をゲットして、「外れ」を回避すればいいわけでしょ?それがいやなら、昔の貴族のように家庭教師で育てるしかありませんよ。

しかし、そのような現実的な発想だと、学校教育全体に敵愾心を燃やして・・・つまり敵認定している人間には受け入れられなってしまう。
『オレが敵認定しているものを、どうしてオマエは敵認定しないんだ?!』
と抗議を受けたわけです。

と言われてもねぇ・・・
「アンタが、学校教育全体なり埼玉の教員団体を敵認定するのは勝手だけど、それを私に押し付けるなよ!」と思いますよね?
しかし、当事者意識がない人間にしてみれば、自分の目標なり行動を説明することができないので、説明できるのは敵についてだけになってしまう。

『あの憎い○○を一緒に憎もうよ!』
『なあ?オマエも憎く思うだろ?』
だからこそ、故意のあら探しをして、敵についての否定的な情報を列挙する。

ギャグを書いていると思われる方も多いでしょうが、程度の問題はあれど、結構ポピュラーな事例なんですね。
そんな発想の基本は自己逃避なので、「じゃあ、その敵をどうするのか?」という自身の行動の問題には繋がらない。

私としては、「そんなに埼玉の教員団体が憎いのなら、その団体に突入して、さっさと自爆テロでもしたら?」と返事するしかありませんよ。まあ、そんな事件は報道されていないので、やっていないんでしょうが・・・

そもそも関西の人間なんだから、埼玉県の教員団体のことなんて放っておけばいいじゃないの?しかし、自分が何かやる・・・という発想がないので、逆に言うと、敵認定するものは、自分が手の届かないものの方がよくなってしまう。ダメダメ人間にとっての敵という存在は、「自分の目標を達成する際のハンディキャップ」ではなく、「自分自身は何であるのか?」そんなアイデンティティの根本なんですね。だから敵がないと困るし、自分自身の存在よりも、敵の存在が重要になっている。自分より重要な存在なんだから、ある意味において、常に意識することになる。
しかし、結局は、意識するだけで何もアクションは起こさない。キーキーとクレームをつけ、「ああ!オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆いているだけ。
逆に言えば、嘆いているだけでもいいように、遠くのものを敵認定することになる。

程度の問題はあっても、敵についての話題には異常に盛り上がる人っているでしょ?
そういう人は、状態が進むと、まさにドッカーンとなる可能性もあるんですね。
その人たちは悪口や他人の失敗例がないと生きていけない・・・わけですが、生きていけないのはいいとして、精神的には、もうすでに死んでいるんですね。

(終了)
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発信後記

本文とは直接には関係ありませんが・・・
ちょっとした言葉の違いに「食いつく」と、色々と見えてきたりするもの。
それこそ、ダメダメにおいては「会話とおしゃべり」は違いますし、「同情と配慮」も違いますし、「協力して!」と「ワタシに構って!」は、全然違っている。

なんでも、ウイグルでの人権活動家の代表の女性が来日されているそうです。
このメールマガジンでは、人権という言葉に対して好意的ではありませんが、投獄されてもそれを主張し続ける人に対しては敬意は持っています。つまりその言葉に対して責任を持っている人。日本で人権を主張するのと、中国で人権を主張するのは、全然違っていますよ。中国だと、まさに命がけですからね。日本で人権を主張する人は、所詮はクレームのためのクレームでしょ?

ちなみに、ニュースだとウイグル暴動とのことですが・・・
どうして暴動という言葉なの?
たとえば、ウイグル蜂起じゃダメなの?もっと中立的な用語だと、ウイグル騒乱、ウイグル騒動とかでもいいのでは?

そのウイグル暴動という言葉を使った人は、言葉に対してまったくセンシビリティがないのか?それとも、政治的な配慮があって使っているのか?
いずれにせよ、ニュースを伝える資格はないでしょうね。
R.10/12/25