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カテゴリー ダメダメ家庭の雰囲気
配信日 09年8月3日 (10年12月28日 一部分を分割)
タイトル 弱い部分にしわ寄せ
追記 メールマガジンとして配信した文章から「どうしてコッチが」という文章を、後日分割いたしました。
「しわとしわが合わさると、幸せ・・・」なんてコマーシャルの文句がありました。
その人が、本当に幸せなら、それは、それで結構なこと。
しかし、ダメダメ家庭では、手のひらのしわは合わさっても、「幸せ」なんてものは縁がない。
いくら必死で手のしわを合わせても、幸せには到達できない。

ダメダメ家庭にあるものは、「しわとしわが寄せ合って、しわ寄せ・・・」
そんなもの。
そして、その「しわ寄せ」の対象は、家庭内における弱い存在・・・つまり子供なんですね。

被害者意識が強く、「子育ては親である自分がこうむった被害」と確信しているダメダメな親は、子供に対して親としての自分の被害を常に語ることになる。
そんな被害話を聞かされ続けた子供は、親に対してなり、周囲に対して気を使うようになる。気を使うんだから、親の被害話に対して、何も反論できない。
反論して来ないんだから、親の側も、ますます被害話を語ることになる。
よりいっそう被害話が発展するものだから、子供の側も、ますます親や周囲に気を使う・・・そうやって、ますます子供が気を使うようになってしまう。
まさに子供に「しわ寄せ」状態。

このようなことは、以前に「子供に口なし」というお題で配信いたしました。
つまり、現実的には、その親がダメダメであるほど、「全部子供が悪い。」となってしまうわけです。そもそもダメダメな親は当事者意識がないんだから、そんな親に対して何を言ってもムダ。むしろ問題がすりかわって、子供に、よりいっそうしわ寄せが来るだけ。

ダメダメ家庭は減点法であり、人から「嫌われたくない」と思っている。だから、周囲の人に合わせてオドオドしている。だから周囲の人に頼れないわけ。ヘタに本音を言ってしまうと嫌われてしまうと思っている。
そんなことだから、「自分を嫌えない弱い立場の存在」を頼ることになる。
あるいは、そんな人間は、「ワタシを嫌うな!」「私を好きになれ!」と問答無用に命令することになる。「嫌うな!」と感情を強制することはあっても、行動を具体的に指示することはできない。周囲に合わせてオドオドしているダメダメ家庭では、親である自分が命令できる自分の子供に対して、負担を押し付けることになる。

ダメダメ家庭のレヴェルを超えた虐待家庭においても、それは顕著でしょ?
子供が親から暴力を振るわれていても、「子育ては親がこうむった被害」を確信している親と一緒にいる子供は、周囲に対して何も言えない。
周囲に対して気を使うのは、子供の役割となっている。親は周囲に対して自分の被害を語るだけ。ダメダメな人間は、そのようなグチを受け入れてくれる周辺環境を求めるものなので、「親である自分は子育てを背負わされた被害者」という常識を元にした言動も、周囲に対し通ってしまう。

このようなことは、暴力のようなものだけでなく、性的虐待においても、同じ。
本来は一番の被害者である子供の側が、犯人認定されてしまっているわけ。
そして周囲も、それを暗黙のうちに了解している。

弱い部分にしわ寄せをすることは、周囲の大人にしてみれば、実にラクなもの。
だって弱い立場のものは何も反論して来ないわけですからね。
このような「反論して来ないものを犯人認定」することについても、以前に配信しております。

家庭内や地域だけでなく、学校においても、トラブルの原因探しにおいては、子供だけがターゲットになる。
学校は、家庭の問題と向き合う発想がない。
子供だと命令を下すだけでいいけど、親に対してはそうはいかない。だから親の問題は無視されてしまう。

それこそ昨今登場してくる給食費の支払い拒否の問題でも、周囲の大人は、子供だけを責めるものでしょ?じゃあ、子供としてはどうすればいいの?給食費のためにアルバイトをすればいいの?そんな家庭の子供としてはそんな親の親権を取り上げてくれればそれでOKですよ。しかし、ダメダメな環境だと、手っ取り早く犯人認定して、つるし上げできる存在である子供がターゲットになってしまう。学校としても、地域としても、結局は、子供をイジメているだけで、トラブルを解決するつもりがない。ただ、自分の、あるいは学校の目の前からなくなればそれでいいだけ。まさにカミュが「異邦人」の中でいう「やさしい無関心」状態。

親は勝手にダメダメ街道まっしぐら。そして、学校は、ダメダメ家庭のことを考えずに、生徒に対して正論連呼するだけ。だから子供は精神的に疲れてしまう。だから、ますますトラブルを起こす。そうなってくると、ダメダメな親は被害者意識が刺激され、ますます子供に対して強いプレッシャーをかける。ダメダメな学校も、生徒に対し、ますますの強いプレッシャー。
その2方面からのプレッシャーに合わせていた子供も、結局は、ダブルバインドがひどくなり、ドッカーンとなってしまう。ダブルバインドなんて、まさに絵に描いたような「しわ寄せ」状態でしょ?

ダメダメな親は学校行事への参加も渋ったりするもの。
学校は、そんな親を問題視するのではなく、子供を責めるもの。だから子供が問題を抱え込む。だから子供も体調を崩してしまう。それこそ子供の健康管理の問題について、親ではなく子供を責める。心理的にプレッシャーを感じた子供が自律神経を失調させる。
そうやってますます子供の健康が悪くなり、学校と家庭はますます子供を責める。
そうして学校も、家庭も、「オレたちは、この子供による被害者だ!」と大合唱。

そんなことだから、卒業後に学校を襲撃するような事件が起こってしまう。そうして「どうして、こんなことに?!」とやっぱり嘆くことに。しかし、そんなことは、ちょっとでも知能があれば、予想できることですよ。
弱い立場なり、反論しないものをつるし上げればOKという発想だからこそ事件が起こるわけでしょ?窮鼠が猫を噛んだだけですよ。ただ、ちょっとしたタイムラグがあるだけ。

学校などに対する抗議する姿を、TVなどに見せる親もいますが、抗議自体はともかく、本来はそんな姿は見せるものではないでしょ?
しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、そんな姿を見せたがる。
そうやって、「自分がかわいそうな被害者」であると主張したがる。
いわば子育てによる被害を背中で語っているわけ。そんな親に育てられている子供はますます気をつかう必要があるでしょ?

ダメダメな親は、自分のダメダメさを受け入れてくれるダメダメな環境や学校を選ぶ。
というよりも、現実的には、マトモな学校や地域から弾き飛ばされる。だからダメダメが集約し、ますますマトモな常識から遊離してしまう。

グチばかり言っていると、非難好きが寄ってくる。そうして、何かを犯人認定して、それを非難して、そして、これにて一件落着となってしまう。しかし、誰かを非難しただけなので、同じことを繰り返す。非難好きは、被害ばかりを語っている別のグチ人間の元に行って、また誰かを非難する。結果的に、トラブル発生の土壌が放置され、そのツケは子供に押し付けられる。

インターネットの掲示板でグチっているような人は、子供に対してもグチっている。
「あの人は、ワタシのことを、ワタシの苦労を分かってくれない!」なんて言っている人は、その苦労とやらを人に具体的に説明できず、ただグチグチ言っているだけ。客観的な説明ができないので、一つのところだけでグチるということは、ありえない。だっていつも同じグチなんですからね。結局は、別のところに場所を移してやっぱりグチ。グチばかり言っているので、「自分がかわいそうな被害者」ということが、確信になってしまう。いわば自己洗脳のようなもの。だから、その点に対して疑義が挟まれると逆上するだけ。
そんな逆上の姿を見せられた子供は、親に対して恐怖するばかり。

不都合な事態について考える際にも、起こってしまったトラブルそのものが問題であるばかりではなく、それまでに問題を顕在化できないその場の雰囲気の問題の方が大きいわけです。あるいは、真っ先に自分の被害を語る親の側の問題が、たまたま顕在化したトラブルよりも、大きいんですね。

それこそ、社会の二極化の問題でもそう。
そんなに二極化社会の問題を考えているのなら、もし、その人が負け組みの一員だったら、子供を作ってはダメでしょ?
「ああ!オレたちは、二極化社会の被害者だ!」と自分を憐れむのは勝手ですが、そんなにその問題を考えているのなら、まずは子供を作ることはやめないとね。

子供を作っておいて、ますます生活が厳しくなって「ああ!我々は、なんてかわいそうなんだ?!」と言っていても、それはギャグですよ。子供を作るにせよ、相当の覚悟が必要でしょ?だって、「二極化問題が深刻だ!」と常日頃から嘆いている人なんだから、その深刻さを自分の判断で示さないとね。
子供としては、社会の二極化の問題よりも、そんな社会背景を分かっているはずなのに、何も考えずに、子供を作ってしまう親の問題の方がシビアーなんですね。だってそんな親に対しては相談ごとなんてできないでしょ?それこそ「社会が悪い!」「時代が悪い!」「オレの方がもっとかわいそうなんだ!」でオシマイですよ。言うだけムダ。

同じことが、「後進国」でも発生するでしょ?
戦争なり貧困なり飢餓で苦しいのは、その人たちのせいではないとは言え、だったら子供を作ってはダメでしょ?
結局は、一番大きな負担は、一番弱い存在である子供に集約することになる。そうして、ダメダメな大人は、自身で対処するのではなく、子供を困難な現状からの脱却の道具にしようとするわけ。
子供にとって、一番、不幸なのは、戦争や貧困なのではなく、そんな状況でも平気で子供を作ってしまう親を持っていることなんですね。だって、子供にとって一番身近な存在が、子供のことを何も考えていないわけだから、子供にしてみれば、対処のしようがないでしょ?

しかし、ダメダメ家庭を作る親は、「自分こそ一番かわいそうだ!」と確信しているので、他者の被害なり感情には配慮しない。一方的に自分の被害を語っているだけ。
そうして、そのような被害話には、ボランティアの連中が食いついてきて、『ああ!アナタは、なんてかわいそうなの?!』と大合唱。
そんな同調者の登場で、ダメダメな親の被害者としての確信は、ますます高まるばかり。

先日配信いたしましたが、ボランティアの連中は、被害話には反応しても、現実の被害には反応しない。自分の被害を声高に語っているダメダメ人間に同調するだけ。人の気持ちが分からないので、言葉にならないと事態を認識できない。だから自分の苦境を語ることができない子供の目線や感情は無視されてしまう。
それこそ北朝鮮でも同じでしょ?本気で北朝鮮の人々を救う気があるのなら、声高に被害話を語る人間を排除する必要があるでしょ?しかし、被害話だけに反応し、そのしわ寄せは、結局は、自分の被害を語ることもできない弱い立場の人間に集中してしまう。
まさに「天国にいるように『しわ寄せ』」状態。

そんな状況は北朝鮮だけでなく、日本ダメダメ家庭でも同じ。
追い詰められた子供が、ドッカーンとなってしまっても、「自分こそが一番かわいそうな人間なんだ!」と確信しているダメダメな親は、相変わらずの自己憐憫。
「どうして、こんなことに?!」
「オレは、ふつうに子供を育てたぞ!」
「ああ!オレって、なんてかわいそうなんだ?!」

トラブルが起こっても、自分を被害者として真っ先に認定し、だから何も考えずに、同じようなことを繰り返すことになる。
子供の目線から見れば、トラブルを簡単に予想できるのに、ダメダメな環境においては、権威主義的な大人の目線しかない。
それこそ、ボランティアの連中には子供の目線がないものでしょ?上の立ち位置から、「恵んでやる」というスタンスを取っても、「この子供が望んでいることは何なのか?」「自分がこの子供の立場だったら、どのように考えるだろうか?」そんな発想は持っていないでしょ?
そもそも、自分自身から逃避し、自分の子供時代から逃避しているのがボランティアなんだから、子供の目線から無意識的に逃避してしまう。

大人の目線や立場を子供に要求するだけで、自分で子供の目線を思い出すことはしない。
トラブルが起こると、何かを犯人認定し、その者に対して、べき論で説教し、つるし上げるだけ。
逆に言うと、べき論が登場してくるようになったら、その人は子供の目線を喪失しているということ。
子供はべき論なんて使いませんよ。

夫婦間の家庭内暴力の状況においても、「どうしてそんなオトコと一緒になったのか?」そんな疑問は、どんな子供でも当然のように思っていますよ。しかし、子供の目線が許されない環境なので、そんな当然の疑問も抑圧してしまう。ボランティアは、大人のグチや被害話には付き合っても、子供の疑問には付き合わない、というか、そこから逃避している。「悪いのは全部○○のせいだ!」そんなグチや語られる被害には食いついても、語られない疑問には食いつかない。
だから、ひずみは、子供に集約することになる。

子供の目線は、創造的な芸術作品を見ると、表現されているものです。
逆に言うと、抑圧的な環境下では、創造的な芸術作品は、受け入れられない。
大人好みの、べき論の、説教くさい、「道徳的な作品」だけが推奨される。
カルト宗教とか、独裁体制、市民運動は、創造的な芸術を忌避するものでしょ?
まさに「王様は裸だ!」という子供の指摘が一番怖い・・・それが、その種の抑圧状況というもの。

当事者意識がなく自己逃避の人間は、普段は何もせず、グータラ。しかし、いったんトラブルになったら、被害者意識が刺激されるだけ。
そうして犯人探しのためのあら探しをして、「コイツのせいで・・・」で相手を恨んでいるだけ。そんなことをしても、事態が何も改善せず、ますます被害者意識が盛り上がり、ますます「あら探し」に励むようになる。あら探しのレヴェルがあがり、スパイラル状に進化するだけ。

そもそも発想の原点が不信感。以前に集中的に配信いたしましたが、「信頼の心理的ベース」を持っていない。学校に対して不信感を持っていて、だから故意のあら探しをして、モンスターペアレントになる。不信感があっても、自分の不信感の正体について考えることから逃避している。そもそも、親である当人に学校での楽しい思い出がないし、深層心理的には自分の子供がキライ。子供時代について考えることから逃避していて、大人の目線だけになってしまう。だから、子供や学校を犯人認定して自分を納得させるだけになってしまう。

犯人認定の技術だけが向上したり、周囲の大人向けの言い訳だけが向上する。
いわば自己逃避のテクニックだけが向上してしまう。
言い訳ばかりの集団なので、言い訳を言うことができない弱い立場の人間に、犯人認定が集約してしまう。問題点や改善点を明らかにするための議論は行わない。何かを達成するための議論ではない。つねに犯人認定、犯人探しばかり。そして言い訳のネタ探しばかり。

結局は、そんな親を持つ子供が、周囲と対処することになってしまう。
被害というのは、「語ることができる」分だけ、それだけ有利な立場にあるわけです。
本当に弱い立場の人間は、被害を語ることもできないもの。
だから、そんな弱い立場の存在に、困難な状況が集中してしまうものなんですね。

何もダメダメ家庭だけでなく、社会全体でもそうなってしまう。ダメダメが進行してしまうと、語ることができない立場のものに、負担を全部押し付けるようになり、それゆえに、本来の当事者は、事態改善のための努力の必要性を抱くことはない。
日本社会も、老人ばかりが威張っていて、若い人が全部の面倒を背負い込んでいる状態ですが・・・
これこそ「しわとしわが寄せ合って、しわ寄せ」そのものですよ。

(終了)
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発信後記

今週は、ダメダメ家庭においては、そのひずみが子供に集約してしまうことについて集中的に配信いたします。
ちなみに、長い文章が多くなります。

先週の金曜日の文章と関係してきますが、ダメダメな環境においては、「語られた被害話」には反応しても、実体としての苦境には反応しないもの。
そして、抑圧的な状況だと、被支配者に被害を言わせないようにしていくわけです。
それこそ、北朝鮮なんて、ボランティアの人たちなどは、一番困っている民衆のことなど眼中にないでしょ?
同じように、ダメダメ家庭においては、真っ先にグチを言うダメダメな親の意向は通っても、困りごとを言えない子供のことは無視されてしまうわけ。
R.10/12/28